ミュンヒハウゼンは上着を脱ぎ捨てると、カフスと蝶ネクタイだけの姿になってカンフーの構えを取った。

 見る間に筋肉が盛り上がる。
 万能執事はわずか一歩で10mの距離を縮めると、大音響と共に拳を突き出した。
 玖珂光太郎が正面から打ち返す。

 拳が交差した。
「貴方にできますかな。理想境を作り上げることが」
「知ったことか」
「いや、それは許されません。貴方はやらねばならぬのです。でなければ、お嬢様が悲しまれる」

 ミュンヒハウゼンと光太郎は、なおも数度、拳を交差させた。
 ことごとくを相殺回避する。

「紳士とは、徹頭徹尾女性のためにエレガントに戦う者」
 ミュンヒハウゼンは、左手で光太郎の拳を円受けすると、右手で自らの蝶ネクタイの傾きを正した。
 華麗な足技で光太郎の側頭部を蹴り倒す。



「不幸な女性の数だけ紳士が必要なのです。世界には」

 そして口から血の塊を吐くと、光太郎が立ち上がるのを待った。
「私の命が尽きる」

「我が息子、新しいミュンヒハウゼンはまだ未熟。一人ではお嬢様をお助けするのに心もとない」

 ミュンヒハウゼンは、優しく微笑んだ。
「感謝しますぞ、この運命に」

 青い月を見上げる。

「運命を決める火の国の宝剣は、最後の最後に一人の少年を授けることで、私になさけを掛けてくれた」

「俺は、執事なんかにならねえぞ」
「貴方ごときに万能執事が出来るわけもない。ラウンドバックラーの一つも操縦出来ん若造が」

 ミュンヒハウゼンは、にっこり笑った。
「だが万能執事にはなれなくても、紳士にはなれる。その心にエレガントがあれば、いつか必ず。それがたまたま、今この時だっただけのこと」



 ミュンヒハウゼンは光太郎の肩の埃を払うように手振りで教えた。
 肩の埃を払う光太郎。ミュンヒハウゼンを真似て髪を整える。

「いついかなる時も、服装を正しなさい。まず形から入るのです。そして心から、らしく振る舞いなさい。例え死んでもらしく振る舞うのです」

「人はそこに紳士を見る。死んで灰になった紳士の誇りは、そこから再び生まれてくる」

「誇りを見て男はまた思うのです。我もまた紳士となろうと。紳士とは手本。紳士とは先駈け。それが真実かどうかさして重要ではありません。らしく振る舞って女性がそれを最後まで信じきれば、紳士はその役割を果たしたことになります」

「我々が喩え偽物で途中で死んでも、手本がある限り、いつか本物がやってきます。だから、我々が偽物であろうと本物であろうと、やることは同じです。エレガントに。エレガントに!」

 手を叩いてテンポをとりながら、ミュンヒハウゼンは次々と蹴り技を繰り出した。
 ぶざまに光太郎はよけた。眉をひそめるミュンヒハウゼン。

「エレガントに、あくまでエレガントに! 不幸な女性のために戦うのであれば、ただ勝てばいいというものではありません。不幸な女性のその心に光を灯さねば、なんの意味もない!」
 小夜か。 光太郎は、そう思った。それともふみこたんも不幸なのだろうか。

 くるくる廻って光太郎はよけてみせた。 華麗に足をとめてみせる。
「それでいい。それでこそ紳士。それでこそ、ただ生きているだけで不幸にさせられた女性が最後に頼る男!」

 ミュンヒハウゼンは薔薇の花を一輪取り出すと、光太郎の学ランの胸ポケットに投げ入れた。

「その心、大切にしてくださいませ」

「俺は、俺は紳士じゃねえよ。そういう生まれじゃねえ。親父は警官で……」
「我々は振り上げられた男子としての最後の意地。生存本能を超えてなおも戦わんとする他人への心づかい。生きるか死ぬかの段になって、愛を選ぶ男子の誇り。それが紳士」

 ミュンヒハウゼンは、昔の自分を見るような目で光太郎を見た。

「紳士に悪魔も神もない。まして人など」

「典雅と愛がすべて。典雅と愛がすべて!糞汚い最低の悪魔でも、愛のために徹頭徹尾女性のために典雅にふるまいつづければ、紳士になれます!」
 ミュンヒハウゼンは言った。
月に照らされたその影が、老いた悪魔を映し出す。ぼろぼろになった翼。傷だらけの身体。

「それだけは間違いありません」



 玖珂光太郎は服装を正そうとして、頭を振ってラフな格好のままで、前に出た。少しだけ笑って見せた。

「俺風のエレガントでいいだろう? じいさん」
「なに?」

 光太郎はザサエさんと、その名を呼んだ。
 柔らかな光とともに死と飽食の精霊、美しい女食人鬼が出現する。
 光太郎は輝く指先で線を描いた。敵を指す。
「ザサエさん! GO!」
 長い髪を振って美しい女食人鬼が飛ぶ。その姿は美しすぎて、見るものをなぜか悲しくさせた。

「効かないっていっただろう!」
「知ってるさ」
 光太郎は吐き捨てるように言った。

「だが、目隠しにはなる」



 風のように走る光太郎はまんまと銃弾の雨霰をかわすと、倒れているふみこのしなやかな体躯を抱き上げた。

 ふみこの長いまつげが揺れた。目が細く開く。

「目、覚めたか」
「……少年か」
「ガキで悪かったな」

 ふみこは光太郎の心臓の鼓動を聴きながらその顔を見上げた。
 優しく光太郎が式神の名を呼ぶのを見る。

「ザサエさん! GO!」
 ふみこは、頬を膨らませた。
「私の名前を呼べ。玖珂光太郎。私の本当の名前はオゼット」
「あん? なにそれ?」
「……貴方にはその価値があるわ。いいなさい」

「オゼット」
ふみこは不敵に笑うと、光太郎の頬を殴り飛ばして立ち上がった。
帽子を被り直す。

「少年は下がってなさい。ここから先は軍人の世界よ」
「な、なにしやがんだこいつ!」
 ふみこは、ヘリを見上げた。箒を独りでに立たせると、掴む。表情を見せたくないのか光太郎の方は見なかった。
 言ったことは一言である。

「典雅さが足りないわ」