/*/
第3回
/*/

 今、一人の少年が死んだ。なんの意味もない無意味な死であった。

死因は幻獣共生派のゲリラ活動だった。
 幻獣化した腕に貫かれ、心臓をひねりつぶされたのだった。

その様をじっと見詰める、廃棄実験体が居た。



/*/

冷たい雨の降る夜の路上だった。

 廃棄実験体は雨の中を駆け出すと、できたばかりの死体を見下ろした。
何の表情も浮かべず、死体の傍に捨ててあった財布を拾った。中から身分証を取り出す。

「速水……厚志…僕は、速水厚志。……徴兵…されているのか」

 金はなかった。もう幻獣共生派が、奪っていた。

 死体を処分したら、顔写真を変えないといけない。
速水厚志は、そう思った。



/*/

舞は額に飾られた、ただ一枚の写真を指でなぞると、これを捨てて行くことにした。
 無駄なものは何一つ持っていけない。思い出はこの胸の中にある。ああだから、これは無駄なものだ。

「どうしたの?」
「なんでもない。そちらは準備できたか」
「うんっ」

 黒くて長い髪を帽子にひっつめ、ジーンズとデニムの上着を着た舞は、この日の為に使い込んだスニーカーを履き、後ろに立つ幼子を見た。

「そうか、それはよかった」

 その言葉も格好と同じで味もそっけもまるでなかった。
だがそれは、選び抜かれた格好であり、選び抜かれた言葉であった。

 いかなる余人がその言葉を使おうと、この娘が言う言葉ほどは幼子を安心させることは出来ないであろう。それは格の差であった。

 舞は、不器用に笑って幼子を見た。ずいぶん前に与えられた、薄汚れた格好をしていた。
「明日はいい日かも知れないな」
「えっとね、うんとね、ののみのおとーさんも、きっとそういうとおもうのよ。そのかがやきはごーかけんらんなの」
「……私もそう思う」

 舞はののみを抱き上げると、巨大な窓ガラスを拳で叩き割り、豪華なカーテンを引っつかんで窓の外へ飛んだ。 そこは三階だった。

 細い身体がのけぞり、見事に速度を殺して着地した。

走り始める。警報が鳴り響く。

舞は、ののみを抱いて壮麗な屋敷から脱出を開始した。



/*/

 その日、万能家令ミュンヒハウゼンは、お茶の指示を新人のメイドに事細かに教えた後、ふと窓の外を見ていた。

 目が見開いたせいで、片眼鏡が落ちた。

実験体を抱き上げて、窓の外を走っていく男のような姿を見る。

「に、にの姫様なのか。ふ、ふみこ様!神楽様!」

/*/

「一つだけ言っておく」
 ののみは甘栗色の髪を揺らしながら、声に反応して自分のために走る舞を見た。
舞はまっすぐ前を見ていた。

「どんな時も、目は開いておくがいい。寝る以外では。それが生きるということだ」
「うんっ」

/*/



「逃げられはせんぞ! 逃げられはせんぞ! 我が従姉殿よ!」
「逃げるだと?」

 舞は、堂々と振り返って7、8人のウォードレス兵と対峙して、次の瞬間、これに手榴弾のピンを引いて投げて寄越すと、背中を見せた。

「せめて勝ち逃げと言え」

 閃光が走った。

 背中を押す強い光の中で、長い影が出来る。それは深い深い闇。
舞は、閃光手榴弾を持っていた。

 それは、なにかを待つ心であった。それがいつになるか分かりはしなかったが、自分の力でそのなにかに手を伸ばそうという、 心であった。
 いくつもの生命を渡り歩きながら、それは何千年も待っていたのだ。そしてこれからも、ずっと待つだろう。 それは人の心の上に浮かびあがる一つの幻想だった。

舞は、一寸先も見えない心の暗闇の中で堂々と目を見開いた。
 その瞳の中に浮かび上がるようにして青い光が宿る。
それは新たな生命が、永遠に待ち続ける幻想を引き継いだ証し。

 そして舞はただの人間の身でありながらウォードレス兵達を相手に戦いだした。
ののみを抱き、細い片腕で見事に拳をさばいて見せ、相手の力を利用して次々と転ばす。

 ウォードレスによって強化された筋力と普段の身体の感覚のずれを利用して繰り出された、 それはただの人間がただ努力だけで築き上げた妙技だった。

 3秒も掛からずにウォードレス兵の群れを突破し、再び走り出す。

正門の前に展開した兵達の前で、速度を落す。
 そこには従兄がいた。多少なりともマシだと思っていた男だ。
今は学生軍の指揮をしていた。階級を準竜師という。

準竜師は白い制服をなびかせて、年下の従妹を見ていた。
 幼子を抱き上げて戦う様は、大層凛々しく、準竜師としてはいっそあっぱれと思ったが、 お役目はお役目として口を開くことにした。

「何を不満に思うのだ。血か」

 結局俺は、何も見てはいなかったのだな。準竜師はそう考えた。

「私が引き継いだのは、血ではない」

舞は堂々と言った。
「私は誇りを受け継いだのだ」

 準竜師のしもぶくれの顔が、面白そうに歪んだ。

「それが選択か」

「そうだ」
 舞は帽子を脱ぎ捨てて、髪を留めるヘアピンを外すと、それだけを武器に、ののみをまもって静かに口を開いた。

「今の今迄、腕を磨いてきた。それは弱者の為だ」

そしてただ一人で戦いだした。ののみは、目を一生懸命開けて、舞を見上げていた。
 震えはしていたが、たぶん死んだ後までも開いているつもりだった。

「誰もが同じ権利を持つ中で、なぜ私に多少なりとも他と違う力が与えられたのか、私はそれを、ずっと考えてきた」

 舞は長いまつげをあげ、まっすぐに前を見た。

「そして悟った。これはただの運だ。私は幸運を拾っただけだ」

「道で拾った金は交番に届ける。持ち主にかえす。才能は天の落とし物、ならば天に帰すのが道理だろう。 それが天賦の才と言うものだ」

「私は傲慢だが、それほどでもない。他の全ては我がために使えども、運の与えた物までも我が物として使うのは、 どうにも傲慢がすぎる。……我が力は貴様ら俗物の物にあらず。我が才は全ての弱者のために。我が力は天に帰す」

 装甲を潜り抜けて人工筋肉チューブにピンを突き立てる。
吹き上がる白い血が花道となり、舞は堂々とその中を突破した。

「天は誰も泣くことを望んでいない、私はそれを信じた。後は賭けるだけだ。私が正しければ、私が勝つだろう。 そうでなければ死ぬだけだ。よかろう。私は私に賭けよう」

 かつて家出一つするのにここまで理論武装した例があったろうか。いや、ない。

「私はこの娘を守る。不服に思うなら、追って来い」

/*/

 橋の上までののみを連れて歩くと、舞は、ののみを降ろしていくつもの身を寄せる場所が描かれた紙片を渡すと、 静かに口を開いた。

「そなたは自由だ。これからはどこにでも好きなように住むがいい」

ののみは、白い血に濡れながら、涙を溜めていた。血が目に入っていたのだった。それでも目をつぶりはしていなかった。

「ごめんね」
「あやまる必要は、どこにもない。間違っているのは、奴等だ」

舞は膝をつくと、ののみの視線にあわせて口を開いた。

「……ずっと前から思っていた。もしも大きくなってもまだ私に勇気が残っていたときには、その時には、 あの人のように生きようと」

舞は、ののみにだけ分かるように本当に少しだけ笑った。

「願いはかなった。私は勇気も受け継いだのだ。後は何も必要ない」

舞は、その胸に手をあてて凛々しく言った。

「これからはただ、あの人の娘として生きることにしよう。永遠に来ない明日のことだけを考えて生きる、そういう生き方だ」

そして嬉しそうに立ち上がった。
 それは新たな生命が、永遠に待ち続ける幻想を引き継いだ証し。