ゲームは優柔不断なクリエーター向き説
99/11/26
“俺の屍を越えてゆけ”をプレイした方には、ご理解いただけると思うが、このゲームのテーマは「生命の儚さと美しさ、脆さと強さ。
この対比」。たぶん、そんなトコだ。 普遍的なテーマなので、映画・コミック・演劇・小説などの従来のメディアでも同様のテーマを扱ったものはもちろん多い。 ただしゲームと従来のメディアでは、創作に対する覚悟のレベルが異なるように感じる。 このような重いテーマを従来のメディアで描こうとするなら、作者はこのテーマに関して断固とした自分の考えをもつ必要があるはずだ。 対してゲームの場合、作者はテーマをなるべく消化不良のまま素直に放り出したほうがよいように思う。 理屈から言えば、そのほうがプレイヤーのやることや考えることが多く残る。つまりゲーム用語で言うとこの“自由度”が上がるわけだ。 たとえば「途中からキャラを駒としか思えなくなった」プレイヤーも「キャラの一人ひとりに心を込めて名前をつけた」プレイヤーもいる。 同じ内容をプレイして、対局の反応がゲームでは起こりえるし、どちらの反応もプレイヤー本人にとっては正しい。 それを容認するのがゲームというメディアの特性なのだ。 で、タイトルの「ゲームは優柔不断なクリエーター向き説」である。 自分で言うのもナンだし自慢する気は毛頭ないが、僕にはひとつの作品を通して他人に伝えたいほどの確固たる信念などない。 お金がもらえないと努力さえしない。誠にもって優柔不断だと自分でも認めているし、その点に関しては既にあきらめてもいる。 こんな僕だが不思議なことに、ゲームデザイナーとして生活が成立するレべルではやっていけている。 これはゲームというメディアの特性のおかげなのではなかろうかと、最近気づいた。 あれこれ考えてばかりでゼンゼン主張がまとまらない、全国の優柔不断を自認する皆さん、ゲームならその役立たない才能が役立ちます。 桝田省治
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