12.次世代の峰を越えて コンピュータゲームは生鮮食料品であるという。 それは、たしかに一理以上の意味のある言葉である。 新作コンピュータゲームはおおよそ2週間で失速し、その寿命を終える。 そこから先はメーカーとは縁もゆかりもない中古市場の話である。 そして中古市場でいかに製品が循環しても、次世代のゲームの開発資金になるわけではない。 もちろんこれは中古が悪いと言う訳ではない。 小売が中古に走らざるをえない状況をメーカーがつくっているのも確かだからである。
寿命が短い製品はまず小売を苦しめる。不良在庫である。 苦しんだあげく中古に走る小売は多い。
こうしてみると、寿命の短い製品が、メーカーも小売店も苦しめている構図が見える。いつからこうなったのか。90年以降はみんなそんな感じと、言えなくもない。 これはメーカーと雑誌によるところが大きい。回転が早い雑誌が新製品を積極的に扱うことで新製品の売上がのび、メーカーの売上拡大計画の中に積極的に組み込まれた結果である。つまり、新製品を機関銃のように大量生産するというスタイルに移ったのである。
この場合においては新製品であることが重要で、それ以外は二次である。ここに寿命の短い製品が生まれる素地ができた。
が、これが行き過ぎた結果、業界を苦しめているのはご承知の通りである。
どうすればいいだろう。今や火力戦の時代である。そして火力戦は大鑑巨砲主義の時代でも、ある。この大鑑主義が行き過ぎて戦略の運用柔軟性は大幅に低下し、結果、戦術(ゲームデザイン)は様式美のような、単純な突撃戦に移行した。 騎士の時代の再来である。そして、中世騎士の時代の戦術がハンニバルやアレキサンダーに遠く及ばなかったように、ゲームデザインもまた太古の時代と比較して大幅に退歩した。多くの企業において兵站の概念すらないのだ。
世の中に売ってある新作ゲームで、伝説の時代のゲームと比較して戦術的に優れたものは数える程もない。これが実情である。
こうした時代にあって、この時代の次に来るのは歴史的に言ってひとつしかない。
それは分散と制御の時代である。
エヴァンゲリオン2はこの時代への過渡期に生まれた戦艦である。 次回からはこれに焦点をあてて、新時代を述べようと思う。 |