新世紀エヴァンゲリオン2 戦陣記

戦陣記(22)
23 ドクトリン オブ エヴァンゲリオン2
 世界というものは、目には見えないが、物理法則外にある法則によってコントロールされている。

 これを慣習、様式という。

 ゲームでもこれは同じで、ゲームは厳密に言えば、ゲームシステムとプレイヤーと慣習で出来ている。いずれが欠けてもゲームは面白くないし、ゲームとも言わない。

 例をあげれば、プロレスで相手の技を受けなければ、それはプロレス的な面白さはないし、プロレスでもない。相手の技は原則として全部受けるのがプロレスの慣習であり、様式美なわけである。

 エヴァンゲリオン2は新しいが故に、この慣習というものを欠いた状態で世に出ている。
 これが、多くの問題の根底にあるのは間違いない。後はその正体を明らかにするだけである。

 戦術といい、ドクトリンというものは、この慣習の集大成である。それを文章としたものが、教典、つまりマニュアルである。
 人とゲームシステムをつなぐこの見えないものを作りあげれば、エヴァンゲリオン2はひとつのシステムとして完成する。

 エヴァンゲリオン2が普通のゲームと違う部分はこの慣習にあるが、その中でもっとも大きいのは過去の全てのデータから、以下の三つであると推定される。

 エヴァンゲリオン2はエンディングを見るためのゲームではない。
 エヴァンゲリオン2は蓄積型パラメータを持たない。
 エヴァンゲリオン2は常に解釈の余地がある。

 終わらせるためにゲームをするという観点からは、このゲームは完全に逸脱して、太古のそれへと先祖がえりしている。つまり終わらせるためのゲームではなく、ゲームのためのゲームである。

 エヴァンゲリオン2には真の意味でレベルのような蓄積型パラメータを持たない。ATにしても、溜まるという概念ではない。

 エヴァンゲリオン2は常に複数の解釈する余地を持ち、答えを明示しない。

 この3つを根本原理として、今、掲示板に書き込まれているほとんどすべての発言は生まれている。ドクトリンもまた、当然のようにこれら三つの母からうまれる。
'22' 2004.1.22.Thu. 

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