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第5回
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 それは、なにかを待つ心であった。それがいつになるか分かりはしなかったが、自分の力でそのなにかに手を伸ばそうという、 心であった。
 いくつもの生命を渡り歩きながら、それは何千年も待っていたのだ。そしてこれからも、ずっと待つだろう。 それは人の心の上に浮かびあがる一つの幻想だった。



「それはなに?」
 小さな声で幼い頃の舞が尋ねると、その男は、謡うのをやめて腕を組みながら口を開いた。

「それに名前をつければ、物語が終る」

悪魔のような外見。それとは裏腹の優しい心遣い。その燦然と輝く青い目はここにない何かを恐ろしい正確さで見通していて、 厚い唇から語られる言葉は自分が信じていた常識という常識をことごとくひっくり返していた、いつも不思議な風と歩いてくる 伝説の巨人。
 それが舞の覚えている、父の姿であった。

「おわるの?」
「めでたしめでたしだ」

 父は、どこか悲しく微笑んだ。
金色の髪をした母が、微笑んでいる。母は、喋れなかった。

「よかったね」
 舞がそう言うと、父は静かに言った。

「その通り。結局生きるということは、ただそれだけのために万難を排することだろう」

 その頃の舞は、バンナンをハイするという言葉の意味が分からなかった。だから分かる内容を口にした。
「<それ>って、今はどこにあるの」
「それはここに」

父は、己の胸ポケットを指さした。

「それを引き継いだものは、永劫に戦いつづけるのが定め」
「休めないの」
「休めはしない。誰かが引き継ぐその日まで」

舞は、働き続けでは父がかわいそうだと思った。

「舞でもつげる?」
「ああ」

父はそう言った後、舞の顔を見ながらその背後の遠い誰かを見た。

「だが父は、そなたにだけは引き継いでほしくはないな」





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青空が広がる屋上。



 舞は、過去に向けてとじていた目をひらいて、再び虚空を跳んだ。
着地する。背後に起きる大爆発。
 そして堂々と前を見た。目の前には、腕を組んだ姉がいた。

 背が高く、一族を裁く長い錫杖を持ち、長い髪をなびかせて立っている。
それが纏う服は天上を思わせるドレスであり、その姿は浅黒い肌の女神のように見えた。

「帰りなサいデス。舞ちゃん。貴方がイきる場所は、至高墓所しかないデスよ?」
「いやだ」

 舞が即答すると、姉は優しそうな顔を曇らせた。

「仕方ない子デス……お姉サん困るでス。まるで貴方のお父さんのヨーデス」
「アイアルファシルーグだ。当然だろう」

どこにいても見えるのはあの人。死のうと生きようと、絶対に私の物にならない男。
 姉は、顔を醜く歪めた後、錫杖を構えて舞の喉元に狙いを定めた。

「最後マデ、あの人のようになる必要はナイでス」
「最後だと? 違うな。あの人は、まだ終っていない」

 姉の錫杖の一撃を華麗に後方に飛んで避けると、舞は、ビル屋上の欄干の上に立って、姉の瞳を見た。

口を開く。

「私がいる。私があの人のように戦うその限り、まだあの人は終っていない」

 そして舞は誰にも分からない笑顔を見せると、ビルの屋上から髪を天になびかせて落ちた。
遥か下の隣の建物に着地してみせる。空挺隊員が行ってみせる独特の着地法だった。

そして走っていった。まんまと逃げだしたのだった。

姉はため息を一つつくと、虚空を見上げて声をあげる。瞳孔がすぼめられた。

「こちら、謡子。目標は帰順を拒絶した。今後の指示を乞う」
「了解しました。ここから先は姉妹ではなく、男達が決着をつけるでしょう。墓所にお戻りなさい。謡子」
「了解した。これより帰還する」

謡子は微笑むと、哀れむように舞の後ろ姿を見下ろした。

「馬鹿なコ……男達になぶられて死になサい」

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速水は、自分が無意識に胸の宝石に触れたことに気付かなかった。
ただバスに乗り込むときに顔をあげて周囲を確認しただけである。

 速水には二つ先のバス停は見えなかった。だからそれを見ていたのは、もっと別の何かということになる。

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バスまでには時間があった。

舞はコンビニに入り、店の中から周囲をうかがった。追手がないことを確認し、こちらを見ている店員を無視する。
 そしてもうずいぶんと商品が補給されていないコンビニから、ペットボトルに入ったお茶と新聞を買った。
 昨日の新聞であった。



 戦争というものは、普段何気ない日常生活を破壊する。
だから恐ろしい。 実に相手の日常を壊すために暴力と侵攻という物は行われるのだ。



 父の言葉を思い出し、舞は今日の新聞が中々買えないことで戦争を実感した。

 新聞に躍る日本自衛隊の全戦全勝の記事を横目で見る。



舞は、そんな訳がなかろうと、思った。
 学生を兵士として続々と徴集する時点で明らかではないか。



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バスが動き出す。運転手に料金を聞けば、150円ということであった。

 明日からは歩きにしようと、速水は思っていた。お金は大事にしないといけない。
そしてガラガラの車内の一番後ろの席で、少しだけ窓から離れて、外を見た。



 新世紀を見るために挙国一致体制を堅持しようと銘打たれた政府の巨大な看板があった。
 あちこちで縦列になって行進する、身長に不釣り合いな大きさの銃を持った学生を見る。
あれは俺と同じくらいかな。速水はそう思った。だとすれば13、14か。

 あれは学生じゃない。兵士だ。いや、兵士でもない。どちらでもない学兵だ。



そして速水は、薄く笑った。
 人間何が幸運で、不運になるのか分からない。
ああやって行進して悪化する治安や揺らぐ国への信頼を押え込もうとするのを不運に思う奴もいれば、そのために徴兵され、 遠くから来ることを喜ぶ、俺のような者もいる。

 本物の速水はどうだったのだろう。いや、殺されたんだから幸運なわけはないか。

速水はそう考えて、これ以上考えるのはやめにした。