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記憶の中の父は、時折天を見上げる。
 そういう時、舞は不安になるのだった。自分を置いて、母に続いて、父もどこかにいきはしないかと。

 万能家令ミュンヒハウゼンが、あの方には世界の危機が見えておられるのです。そう言ったのを覚えている。

記憶が飛ぶ。舞は漆黒の夜の中を父に手を引かれながら歩いていた。
 不安そうな舞をちらりと見た後、父は歩きながら、言葉を使った。

「それは世界の危機に対応して出現し、世界の危機を消滅させて、また消えていく存在。ありうざるべきそこにある者。 夜明けを呼ぶ騒々しい足音。人が目を閉じるときに現れて、人が目を開く時に姿を消す最も新しき伝説。世界の最終防衛機構」

 父の横顔は、自分の知らない人のようであった。お話に出てくる伝説や神話の一つのように見える。そう、 夜の闇を言葉で照らす術を人類に教えた伝説の巨人だ。

「それは世界の総意により、世界の尊厳を守る最後の剣として、全ての災厄と共にパンドラの箱に封じられていた災厄の災厄。 自ら望んで生まれ出る人の形をした人でなきもの」

言葉が使われるたびに、父の右手が燃えるように熱くなるのが分かった。

「それは、夜が暗ければ暗いほど、闇が深ければ深いほど、燦然と輝く一条の光……」

 父がそう言えば、光がその拳に集まるような気がした。
闇は遠ざかり、善き神々の軍勢が右と左を駆け抜けていく感触があった。
赤い短衣をつけた猫神が、走り抜ける最中に自分の目を見て笑ったような気がする。

 あの人が言葉を使えば、なにもかもその通りのような気がする。あの人から離れると、それが嘘だと思えてくる。 海法叔父は、そう言っていた。
 舞もそうだった。舞は父を、嘘つきだと思うことにした。

嘘つきでなければ困るからだった。何が困るのかは、今でも分からない。



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舞は、バス停の前でたたずんでいた。



「それは夜が暗ければ暗いほど、闇が深ければ深いほど、燦然と輝く一条の光」

そして、伏せていた目をうっすらと開いた。

「あしきゆめよ。そなた達の天敵が帰ってきたぞ。永劫の闇をぬけて」

 そう言った後で、少々気恥ずかしくなった。
新聞をひろげて顔をうずめる。



 思うにあの言葉を堂々と言えるあの人は、意外に変な人だったのではないだろうか。



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 定刻通りバスが来ていた。
そして舞は、乗った。速水はバスの最後尾の席で、その様を見ていた。

 奇妙な制服を着た、堂々とした少女だった。

 速水が見ているように、向うもまっすぐこちらを見ていた。
まっすぐ歩いて、そして隣に座る。

「同じ学校……みたいだね」
「そうだな」



 速水が見る限り、その瞳はどこか遠くを見ていた。
 尊大に見えると言うよりは絶大に見えて、夢を見ていると言うよりは、ずいぶん現実的だった。
 夢を見ていてもおかしくない歳頃。だが、その瞳には夢なるものを完全に否定する現実感が漂っていた。 普通ならば所帯じみて見えるところがまったくそう見えないのは、ああ、多分、口では目茶苦茶なことを言っているからだろう。

 現実的な瞳で目茶苦茶なことを言う。それは速水が見たはじめての人間だった。
周囲の人間はこれを理解できないだろう。そう思った。

 目茶苦茶じゃないな。理想だ。この娘は、理想と夢が分離している。
夢は見ていないが、理想は持っている。そういう人だ。

 どこをどうやったらそうなるのだろう。

その生い立ち素性から異常なまでに観察する癖がある速水は、不思議に思った。
 生きるために、生き残るためにどんな些細な事も逃さずに利用してきたし、そのための想像力や推理力に関しても自信があったが、 この娘に関してはまったく想像がつかなかったのである。



「そなたは、寡黙な男だな」
「そ、そうだね」

速水は、困ったように笑った。実際困っていた。

 舞は真顔で口を開いた。
「いや、いい。話したいときに話せばいいのだ。私は民主主義のそういう処が気に入っている」
「本気で、言っているんだね。たぶん」
「なんで私がそなたに嘘をつかねばならないのだ」

 速水は、困ったように笑った。
「そ、そうだね」
「そうだ」

舞は、新聞を広げた。
 経済新聞だった。

 持っているペットボトルはお茶で、なんともこれから入学式に向かう14歳が持つアイテムには見えなかった。

 変な人だ。
速水は思った。ガラガラの車内で初対面の人の隣にわざわざ座るのも変なら、ろくに話しもせずに新聞を読むのも変だ。
 それなのに現実的な判断力を感じさせるのはもっと変だ。日常会話で民主主義が気に入っていると自然に言える点は いわずもがなだろう。

 そして考えた結果、速水はいつもそうしているように、現実を受け入れた。
速水にとって現実とは理不尽だった。そしていつも、自分がそれにあわせるしかないものであった。
 自分の隣に奇妙奇天烈な少女が堂々と座ったとき、速水はいつもの通り、素直に現実を受け入れることにした。 それが一番長生きする方法だった。それがいつもと違ったのは、ただ一つ。それが嫌なものなのかどうか、 判断できなかったことだった。

「私の横顔は珍しいか?」
「え、う、ううん、いや、違うよ。ほんと、そりゃはじめて見るものだけど」
「初対面だからな」

 面白くもなさそうに舞は言うと、指で文字をなぞりはじめた。
 きっと生まれてくる世界を間違えたに違いない。速水は思った。
それは伝説上の生き物のようだった。あるいは神話の中からひょっこり出てきた者のようだった。 白馬にまたがってただ一人堂々と快進撃する変な人だ。
 まだ小さい時、母親が居た頃を思い出す。あれはなんと言ったっけ。なんという生き物だろう。 おとぎばなしの何割かは本当かもしれないなと、速水は考えた。

 舞は、顔を紅くして新聞の中に顔を隠した。

「どうしたの?」
「……そなたは、変な奴だな」

君がそんなこと言うのか。
 速水はこの気持ちをどう表現してよいやらとしばらく考えた後、結局に曖昧に受け流すことにした。優しく笑ってみせる。
「主観の相違だと思うよ」
「なるほど。そう言われればそうかもしれぬ」
「そうさ」

 速水は、新聞から顔を出した舞を見るのではなく、新聞そのものを見た。
「日本在住外国人義勇兵が5000人か……これも民主主義なのかな」
「そうだ。自由というものだ。民主主義の別名を自由主義という」
「戦争に行く自由か。僕はそんなこと理解できないけれど。生きたくないのかな」

 舞は、速水の目を見た。顔の火照りは収まっていた。
「自由と言うものは、他人の為に使うのだ。それ以外の自由は自由と呼ばない。わがままという」
「でも、自分が死んだらおしまいなんだよ」
「そうならないように、それまでの自由を使うのだ。自由とは、他人の為に使うために存在するが、 だからと言って自己犠牲を強要するものでもない。そういう状況になったらチェックメイトだ。 チェックメイトになった時の話をしても、もう遅い。それは負けだ。話題にするならそうなった時のことではなく、 それを阻止するための話をするがいい」

 僕にそれまでの自由なんてなかったな。速水は思った。だが、口には出さなかった。
自分のことはなるべく話したくなかったし、そもそも伝説から出てきた人に、そういう話をしても似合わないと思った。 速水は、神話や伝説を指して、それは嘘だという気にはならない性格であった。口に出したのは別の言葉である。

「なるほど、自由か」
「自由だ。私はそれを気に入っている」



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 自由を気に入っている、ねぇ。
速水は相手の気分を害さないように優しく笑った。
 ああ、なんて今日は変な人と良く会うのだろう。自分がおとぎばなしにまぎれこんだようで、速水としては愉快だった。

「なにがおかしい?」
「なんでだろうね。つい最近まで僕は不幸だと思っていたけれど、どうもそうじゃないかも、と、思ったからかな」
「確率に批評をつけだすときりがないというぞ」
「うん。そうだね」

 速水は、窓の外を見て言った。

「見て、また一人変な人がいるよ」
「また一人というと、他にもいたのか」
「あー、ええと、なんというか。そうだね。詳しくは言えないけど。ほら見て、白い軍服みたいの着てる人」



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舞は、バスの中から、窓の外を見た。

 流れていく窓の外の景色の中に、純白の制服を着た男が立っていた。
部下に銃を持たせている。

その口元が歪んだ瞬間。舞は目を伏せた。

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 父が死んだと聞かされたのは、姿を見なくなってから、1年を過ぎた頃だった。
葬式もでなかった。舞も、喪服は着なかった。

 父は嘘つきだ。 舞は思った。あの男なら、死すらも欺けるだろうと思うことにした。 ありとあらゆるものを言葉だけでひっくり返すあの男ならば、あるいは己の死すらも自在に操るかもしれないと。

目を伏せた舞はただ一人、心の中の誰かにつぶやく。

「あなたは継ぐなと言ったが、私は継いだ。 ……悲しむだろうか」

舞は、祈るように呟くと凛々しく顔をあげた。バスの窓に、自分の姿が映った。

「だが芝村舞は永劫に戦うのだ。あなたのように」



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「わぁ!」
 速水は舞にのしかかれて、恐慌に陥った。
「ちょ、ちょっと!?」

バスの窓ガラスが一斉に割れる。銃撃だった。
 舞の肩にガラスの破片が降りかかった。
押し倒された速水には、それは舞が輝いているように見えた。

「もっとも自由にも、問題がないわけではないな」
 至近距離で舞は静かに言った。速水の目は舞の唇しか見ていない。
舞は身を起こし、残ったガラスを手で叩き割って外に躍りだす。



 躍り出て、走り、そして長い髪を、風に揺らした。

「早いな。まるであの人を思わせる、果断な決断だ」
「どういうことだ。従兄殿」

準竜師は、静かに笑った。

「こういうことだよ。家に帰れ。従妹殿。今ならまだ、俺がどうにかしよう」
「あの人物に私と何の関係がある」

「ない」

準竜師はそう言った後、少しだけ笑った。
「だが、そなたはそれでも来る。そなたの愛する、自由のために」



 準竜師は、皮肉そうに笑って口を開いた。
「生き方を示せ」

 舞は、静かに新聞の1ページを取って、旗のようにはためかせた。
準竜師は、笑った。
「それでこそのあの人の忘れ形見よ。愚かなのが悲しくもあるが、同時に嬉しくもある」

 準竜師はファイティングポーズを取った。

舞は表情を変えず、ペットボトルの中のお茶を新聞にかけていった。
準竜師が、笑う。 速水があわててバスから降りて来ていた。

次の瞬間、両者は同時に拳を交えていた。
お互いの拳がお互いの拳の弾道をそらした。ペットボトルが、廻りながら飛んでいく。

否。舞は残された腕で新聞紙を広げた形で準竜師の顔に貼り付けた。
濡れた新聞紙だった。

 準竜師が新聞紙を剥ぎ取る前に、舞は華麗に脚払いした。

 倒れた。否、人間ばなれしたブリッジから倒立で、準竜師は体勢を整えた。
連続して繰り出される蹴りを、舞は髪を振り乱しながら全弾正面から回避してみせる。

「あの人は、死んで心を残したのだな。立つこともかなわぬ病弱な身から、よくぞそこまで鍛え上げた」
「昔の話だ!」

 最小の回転半径で練り上げられた舞の廻し蹴りを、準竜師は両手ブロックで防いでみせた。

次の瞬間、準竜師は壁を蹴って壁を駆け上がった。
三角飛びし、純白の制服の裾を広げて飛び掛かる。

舞は、凛々しく速水をかばって拳を交差させた。
その茶色の瞳を輝かせ、一気に前に出る。半分だけ拳を握りしめ、次の瞬間には長い髪を大きく揺らして、コンパクトに振りかぶった。

左手に持った畳んだ新聞紙を滑らせ相手の打突をそらすと、低空から打ち上げられる右の掌底で顎を砕いた。
 準竜師は、笑った。顎を砕かれたまま、舞の髪を掴む。地面に引き倒す。

「実戦慣れが足りんわ。武に生きるなら髪を短くせよ」

 舞は燃え上がるような瞳で準竜師を見上げた。

「武が目的で武に生きるのではない」

なにか言おうとする準竜師の後頭部が鈍器で殴られた。速水だった。

「速く!」
「礼を」

舞は素早く立ち上がった。速水と並んで走りだす。

「追われているの!?」
「いや、追わせている」



 速水と舞は曲がり角を曲がった。

「違いは?」
「主観の相違だ」

 舞は、少しだけ笑ってみせた。黒くて長い髪が、揺れる。
速水は、この人は本当に伝説か神話から出てきた人に違いないと思った。

「なぜ助けた?」
 僕が助けられたからとは、この頃の速水は思わなかった。

「なぜだろうね。ただ、君が生き残っていたほうが、僕の生存率が高いような気がしたんだ」
「そうかな」
「そうさ。僕は生き残る才能があるんだ。君といれば僕は必ず長生き出来る気がする」
「私よりは長く生きれるだろう。我らはそなたの助けを忘れぬ」

舞は、走りながら新聞を1ページ握って小石を包むと、投げ捨てた。
 新聞紙だけなら遠くまでとばなかったかもしれないが、小石を入れたために隣の路地まで飛んだ。落ちて新聞紙が開いた。

「そなたは、私が守ろう」
舞は、堂々とそう言った。

「あれは何のおまじない?」
「誰もが逃げながら、新聞を落したと考える。あそこで曲がったと、考えるかもしれない。相手は軍用犬を使ってなかった。 視覚でごまかせるかもしれん。少なくとも確信できない以上、兵の一部はあちらに行く。多数と戦う時は まずそれを分割するのがセオリーだ」
「なるほど。僕は本当についている」
「変なことを言う。ついてこなければ追われることもあるまい」
「口封じされないと確信ができたらそうするよ」

舞は、新聞紙を1ページとって紙縒りを作ると、それで後ろ髪をしばった。
ポニーテールになる。

「確かに才能だ」