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準竜師は、壁に叩き付けられてうめく舞を見て、哀れむように言った。

「至高の墓所を守る死の姉妹がなんという様よ。末姫としてのうのうと生きていれば良いものを、 実験動物を助けてなぜ一族を出る」

 舞は、痛みに顔を歪めながら、悟られないように怪我を計っていた。骨折なし。打撲のみ。まだ身体は動く。 舞の目が、何か遠くを見るように伏せられる。

「ドレスを着ては得られないものがある。泥と埃にまみれてこの制服を着なければ、決して得られぬものがある」

舞はゆっくり立ち上がった。

「それは勇気だ。自ら困る人に手をさし伸ばす人の心だ。ドレスや安寧が人の心をもたらすか。否! 人の心は勇気が統治し、 勇気が戦う。勇気こそ王者。勇気こそが第一番。他の全ては譲れども、玉座と一番を得られぬ人生に、一体何の意味がある」

「私は思う。 私に勇気がある意味を」

 舞は、年相応の幼い優しい目をした後、悲しい表情になって、次に拳を握って凛々しく言った。

「この勇気は命ある限り戦えと、私が好きな人が残したものだ。私は勇気を相続した!」

そして握り締めた拳を見せつけるように、ファイティングポーズを取った。

「我が力は弱者のために。我が意志は持たざるもののために、我が心根は虐げられる者のために。 貴様らが与えし全ての恩寵を叩き返し、私は運命に反逆する!誰のためでもなく!我が誇りのために!」

その瞳は燃え上がるようだった。

「私は思う。他の誰でもなく、私に勇気がある意味を! 勇気こそはあの人の優しさよ。私は優しさを受け継いだのだ。 そして今、私はあの人になりかわり、地上に楽土を建設する!」

「馬鹿が」
準竜師の言葉に、舞は誰にも分からない笑顔を見せた。
 それは、一生、こう生きてやろうと人が決めたときに自然と出る決意の笑みであった。

「私の一生を見極めた後でそれを言え」

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そして舞は、堂々と嘘を口に上らせた。
 それは悲しい時、苦しい時につく嘘だった。

「それは世界の危機に対応して出現し、世界の危機を消滅させて、また消えていく存在。ありうざるべきそこにある者。 夜明けを呼ぶ騒々しい足音。人が目を閉じるときに現れて、人が目を開く時に姿を消す最も新しき伝説。世界の最終防衛機構」

舞は手を伸ばした。拳が握られる。

「それは世界の総意により、世界の尊厳を守る最後の剣として、全ての災厄と共にパンドラの箱に封じられていた災厄の災厄。 自ら望んで生まれ出る人の形をした人でなきもの」

拳に祈りを捧げるかのように、唇に引き寄せる。

「それは絶望と悲しみの空から満を待して現れる、ただの幻想。暗黒に沈む心の中に沸き上がる、悠久不滅の大義の炎。 失われそうになれば舞い戻り、忘れそうになれば蘇る、原初の感情! ただ一つのはじまりの力!」

舞は己の左胸を親指でさした。

「それはここに この中に」

 その瞳は燃えるようであった。
勇気が折れそうになるたびに、これまで舞は一人言葉を紡いでは、それを蘇らせていた。今もそうだ。 そしてこれからもずっとそうだろう。

 舞の心の中に剣が生まれる。
人を傷つけるための刃ではない。ただ闇を払うだけの銀の剣だ。

それは楽器のようで、剣のようで、炎のようで、涙のようであった。
 それは幾千万の光の集まりであり、病弱な少女の思慕の念が作り上げた、七つの世界でも屈指の強さの拳骨であった。

腕が、振られる。






舞は、新聞の最後の一ページを剣にして使った。

「馬鹿な……」
「努力を忘れた人間に言え」

舞は目を伏せたまま、言った。

「だがそれをやろうとする人間にその言葉は使わせん!」

準竜師は、倒れ伏した。

 最適角度と最適速度で正確に振りぬかれた新聞紙は、人間を容易に切り裂いてみせる。
それを実戦で実際やってのけるのに、どれだけの努力が必要だったのだろう。

 速水はライフルを構えて、撃った。
はじめて撃ったために弾道は目茶苦茶だった。最初から当たることは期待していなかった。
 舞が、この隙を利用してくれることだけを期待していた。



舞は、期待通りに動いていた。
兵達が硬直しているうちに一人を蹴り倒すと銃を奪い、銃床と筒先をまるで槍のようにして包囲網を突破した。

 誰も新聞紙で人を切り倒すような芸当をやってみせる者を相手にしたいとは思わなかった。それに・・・

速水は槓桿を引いて次弾装填して銃を構えながら思った。
援護射撃をはじめる。

 それに良心もある。速水は思った。人間が一番耐えられないのは、自分が悪い奴だと思ってそれを居直れない時だ。
 あの長い長い台詞は、いや、演説は、兵の心から戦意を奪うのに成功したに違いない。
ただでさえ常識的な大人は至近距離から子供を撃つのをためらう。しかも自分が悪党に思えるような演説を聞いた後では。
 敵の心の中にある良心すら武器にして物理的には不可能な包囲網を突破する。

速水は、笑いながら舞と並んで非常階段を駆け下り始めた。
ああ、すごいじゃないか。この娘の腰巾着さえやっていれば、俺は長生きできるに違いない。

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「嬉しそうだな」
「今までだまってたけれど」
「なんだ」
「もう一度、女の子と並んで走ってみたかったんだ」

 それは嘘でなかった。ラボに入れられる前、小さい頃に仲の良い女の子と走った記憶があった。
 速水は舞の紅くなる横顔を瞬間だけ見て、笑った。
気付かない振りをする。

「逃げるのは嫌いじゃなかったの?」
「勝ち逃げはその限りではない」
「なるほど」

 速水は心の底から嬉しく思って笑うと、自分の生きるための計算も、実はこの人物によって狂わされたんじゃなかろうなと考えた。

「どうした?」

まあ、いいか。
 速水は、思った。一つくらい計算間違いしてもいいだろう。その分は伝説に、この娘に逢えた代価として考えよう。

「ううん。なんでもない。同じクラスになるといいね。僕、君のいい部下になるよ」
「この身は既に芝村だ。これ以上、何の肩書きも帯びる必然も感じていない」
「じゃあ、同僚になるよ。料理は得意なんだ」

 料理を勉強しようと、速水は思った。

路地に出てさらに走ろうとすると、白いオープンカーが止まっていた。
 スカーフを頭に巻いてサングラスをかけた女が、佇んでいる。

「あれは更紗か?」
「知り合い?」
「私の世話をしていた。更紗!」

サングラスを取って、女はトランクを一つ舞に、投げて寄越した。
「末姫様。それが着替えです。それと公園のごみ箱に政治家へ菓子を捨てるように伝えておきました」
「いいのか。私を手伝っても?」
「先ほど貴方の一撃で血を吹いた方の個人的命令です。合格。とおっしゃっていました」
「……上に格好をつけなければならん中級管理職は大変だな」
「下をいじめる管理職よりはいいでしょう。 あと2分で次のバスがきます」
「礼を言っておこう」
「いえ、お気を付けください。貴方の道は、困難を極めるでしょう」

舞は、歳相応に健やかに笑っただけであった。

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遠ざかるバスを見ながら、更紗は、スカーフを取った。
 頭を振れば、縦巻きロールの髪が現れる。

そして敬礼をした。






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学校前。



バスが停車する。

バスを降り立つ。

 舞は、手に持った荷物と共に、派手に着地した。
速水は邪魔にならないように、そっと着地した。

「席を立たせた件では、世話になった」

 舞は、事態を大変控えめに論評すると、背を向けて歩き出した。
ああ、なんて今日は変な人の背中ばかりを見るのだろう。速水はそう考えた後、長い土煙の人にはやれなかったことをやろうとした。

「あの、名前は? あ、ええと、僕の名前は速水厚志なんだけど」

舞は、軽々と振り向いた。

「舞だ。芝村をやっている」

堂々とそう言った。

「ありがとう、芝村」
「なんの礼だ」

 昔のことを思い出したよ。少しだけど。
今日は少しだけ良いことがたくさんあった。銃で撃たれたり包囲されたり、客観的に見れば運の悪いことはそれ以上にあった。 だが、結局現実なんてそんなものだろう。

速水は微笑んだ。良い言葉を思い出す。

「僕の自由さ」
「複雑なことを言う」

 速水は、嬉しそうに笑った。



「僕は君に料理を作ることを楽しみにしている!」

舞は、誰にも分からないような笑顔を向けると、もう背を向けて歩き出した。

 そして背を向けたまま、右手を力強く横にあげた。
それで判れと、背中が告げていた。