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「覚えておきなさい」

 その時母は、絵本を閉じて席を立つと、凛々しく言った。

「子供たちがおやすみなさいをした後には、竜が飛ぶのよ」



 速水は、色鮮やかにその言葉を思い出した。それはお話の最後に付け足された、母の言葉であった。
 顔をあげれば、その先に。今日も深夜になって灯される整備テントの明りがあった。

「ドラゴンだ。僕が好きなのは、ドラゴンだった。でかくて飛んで火を吹く奴」



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 速水は整備テントに入ると階段を駆け上がった。



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舞が、訓練している。

 深夜になってもその一生懸命な姿を見て、速水は嬉しかった。

「まだいたんだ」
「そなたもな」

速水は、確かに飛んでいたよ。母さんと思った。ああ嘘は、嘘はなんて凛々しいのだろう。
隣に座り込んで、少女の声を聞きたいと思った。

「……君も、生き残りたいんだよね」
その言葉は当時の速水にとって最大の同胞意識の現われだった。
 舞は、少しびっくりしたような顔で、速水を見た。

「いや、そんなことは考えもしなかった。我が一族は短命だ。私も長生きは出来ないと思っている」

 速水は拒絶されたようで悲しかったが、それでも話を続けようとした。
「……じゃあ、どうしてがんばっているの」
「世界と、弱者のためだ。私が戦わねば、弱者が死ぬ」

 速水が黙っていると、舞は再び口を開いた。
「私は世界と、彼らを守らねばならぬ。守りとおすことは出来ずとも、その力を持つものが現れるまで、 一秒でも時間を稼がねばならぬ。そのための努力だ」

速水は舞の顔を見ながら考えた。
 その顔はどこまでも生真面目で、微塵も冗談を感じさせなかった。
実際本気なのだろう。この人は、そういう人だというのが、この数日でよく分かった。

 俺は今まで普通に憧れていた。そして普通になったら、もっと別の何かに心奪われた。
俺の欲が深いのか。それとも俺は変態なのか。色気のある言葉でもなく、睦言でもなんでもないこんな会話で喜んでいる俺は。

「それにしても、少しは注意したほうがいいと思うけどな」
「なにがだ」
「みんながまた悪く言っていたよ」
「面白いことを言う。他人の判断が、どうしたのだ。そなたの主はそなただけだ。そなたは他人の奴隷ではあるまい」

「うん」

「ならば自分の目で物を判断するがいい。そなたの判断が、そなたの決定だ。他人がどう言おうと、だからどうした。 実際にあって話もしたことのない奴が、我が生き方を共に歩んだこともない人間が、一人の人間を見極めて、 その人となりを一言で評せるわけがなかろう」

「……そうだね。うん、そうだ」
「そうだ。だから私は、下手なことは言わぬ。今の今迄生きてきた人間を、死ぬまで努力していた人間を、 他の人間が評するのは愚かだ」

 速水は、うなずいた。
舞は、笑った。上機嫌ですまして言った。
「それにしても、そなたの背が低い理由を、知ったような気がするぞ」
「気のせいだよ。僕よりほんのちょっとだけ背の高い人も、同じような時間に起きているんだから」
「そうか?」
「きっとそうだ」

 舞は、ひとしきり笑って心地よさそうに天井を見上げた後、そのまま口を開いた。



「そなたはなぜ生き残る」
「……え?」
「大事なものが、あるのか」
「……え、ううん。ないんだ。なんにもない」
 速水は、嘘の笑いを浮かべて首を振った。舞に哀しい顔を見せたら、駄目だと思った。
「不思議だね。今まで生きてきて、一度だっていいことはなかった。でも、生きたいんだ。どんなことしても」
「なぜだ?」
「…分…からない」

 舞の表情が曇りそうなのを見て、速水は、発作的に口を開いた。
「でも……ああ、いい事が、あるかも知れないから。明日はいい事があるかも知れないから」

 舞は、少しだけ微笑んだ。
「いい話だ。そなた、生き残れればいいな」
 その言葉は本心だと、速水は確信した。この娘は今本気で、僕の人生を願ったと思った。

「君も生き残るよ。絶対。だって一緒の機体に乗るんだもの」
 速水は、後になって考えれば全然根拠のないことを本気で言った。
舞は、小さく頭をさげる。
「そなたの好意に感謝を。運命を定める火の国の宝剣も照覧あれ。だが、私にとって生きるかどうかは、問題ではない」
「問題じゃない?」

「私は私の勝利条件に、私自身の生存を入れていない。そちらのほうが、より難易度が低いからだ。私の持つ戦力では、 私の生存までは期待できない」
「なんで」
「数学の問題だ。現実は、願えばいいという話ではない。この世には魔法はない。奇跡もまた、ない。 あるのは努力する人間だけだ。血を吐きながら努力する人間だけだ。それが現実というものだ。……自分のことは何度も考えた。 だが私の実力ではそこまでが限界だ。私の生存を度外視しても勝率はあまり高くない」

 舞は、静かに訓練を再開した。速水はぐるぐる考えながら、自分も訓練をはじめた。

しばらく手を動かした後、自然に手がとまる。速水は舞の横顔を見た。



「なんでそこまで、するの」
「絢爛舞踏を知っているか」

 速水は舞の顔をまじまじと見た。
「ゴージャスタンゴ? ああ、アニメ? 人が目を開くときに現れて、人が目を閉じる時に姿を消すって。あれ?」
「そうだ。その答えはYESである。だ」



 目の前の少女と滝川が愛好するアニメ番組がどうしても結びつかず、速水が考えていると、舞はひとりでに言葉を続けた。

「私には父が居た。子供向けの話をつくる、くだらない男だった。一族の面汚しといわれ、 嘘つきと馬鹿にされつづけてそれを笑っていた男だった」

「だが我が父が、自ら作った話の通り動く人間であることは微塵の疑いもない。どんなところでも、どれだけ離れていても、 どれだけ無力でも、自らの物語の通りに戦うのは疑いない。奴は世界を守るために動いた。 生きていれば今も必ずその限りをつくして弱者を守るだろう」

「それが?」
「私も、世界も、愛されていた。その価値があると、認められていた」

舞は、凛々しく言った。

「私が世界を守るのは、それは兄弟を守るようなものだ」



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調整を終えて天幕の外に出たときには、小雨が降っていた。
 速水は真っ黒な空を見上げた後、舞を見た。

「傘、持ってる?」
「そなた、自分の分はもっているようだが」
「あ。いや、芝村はどうかなと思って」
「大丈夫だ。私の家にも電話はある」

 意味の分からない言葉に速水は首をかしげた。舞は不格好な黒い傘を見せた。
「気にするな。だが、そなたの心づかいには感謝を」

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 速水の心は何故だか躍った。とても風変わりで、真面目で、優しい娘だ。
あまりに嬉しくて小走りになるほどだった。 同じ機体、同じクラスというのが嬉しかった。

 舞と別れた後の小雨の中を速水は走る。

「世界と言うのはいいなぁ、僕も世界になれないかな」
 埒もないこと言った。

路地を過ぎたあたりで、速水は足をとめた。
あちこちを見る。



 路地のすみに、ダンボールの箱があった。
箱が揺れていた。声は、そこからしていた。猫の声だった。

 今までの速水だったら、見なかったことにしていたろう。
アパートはペット禁止だったし、彼は目立つことが嫌いだった。

だが、今日は違った。
 彼は、明日もいいことがあるかもしれないと思っていた。
あの運命に挑むような瞳の少女に、素朴に憧れてもいた。

速水をダンボールの箱を開けた。はたしてそこにはお腹が大きなメス猫がいた。

速水は、自分を見上げる猫を見て、口を開いた。精一杯、やさしそうに言った。
「僕が世界を守るのは、それは兄弟を守るようなものだ」

速水は、猫を拾うことにした。