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一人きりの教室であった。
 迫ってくる低い雲の合間から、夕日が、見える。
舞は、長い間の読書を終えると、一人静かに立ち、不意に軽く回転して、小声で歌を歌った。

「それは世界の危機に対応して出現し、世界の危機を消滅させて、また消えていく存在。ありうざるべきそこにある者。 夜明けを呼ぶ騒々しい足音。人が目を閉じるときに現れて、人が目を開く時に姿を消す最も新しき伝説。世界の最終防衛機構」

舞は手を伸ばした。その先に沈みゆく夕日が見える。

「それは世界の総意により、世界の尊厳を守る最後の剣として、全ての災厄と共にパンドラの箱に封じられていた災厄の災厄。 自ら望んで生まれ出る人の形をした人でなきもの」

 舞が、高らかにサビの部分を歌い上げようとしたその瞬間、こちらを覗いている速水と目が合った。

 舞の顔が、赤くなった。
速水は身の危険を感じた。

「い、勇ましい詩だね」
「どこから見ていた」

「ああ、いや、最初から」
「最初から?」
「あ、いや、軽く回転するところかな」
「最初からじゃないか」

舞がにらみつけると、速水は己の身をかばうように手を動かした。
それで怒りがしぼんだのか、舞は照れ隠しにぶっきらぼうに言った。

「あの詩だけは好きなんだ」
「格好いい詩だね」

「……格好いいのは詩ではない。歌う者の心だ」
「芝村のこと?」
「違う!」

 舞はそう言った後で、静かに言った。

「あれは嘘だ。誰かが言い始めた、ただの嘘で、子供だましだ。私は知っている。パンドラの箱に最後に入っていたのは、 確定した未来情報、運命という最悪の災厄だ」

 舞は横顔を見せた。それは幼く見えた。年相応の顔だった。

長い長い沈黙の後、舞は、静かに言った。



「だが、思うのだ。子供だましを言った親の心を。親は、どんな気持ちで嘘を教えたのかと」

舞は、思い出に向かって言った。その横顔が、年齢不相応な遠い何かを見据える物に戻った。

「あの人は、悪意でそれを言ったのか」

舞は、かぶりをふると凛々しく口を開いた。

「違うな。……私はそう思う。嘘はどこまで言っても嘘だ。現実は何も変らない。だが、嘘は、嘘とは、本来、 そうであったことにしたい真心や願いだ。だから夜が暗ければ暗いほど、悲しみが深ければ深いほど、人は嘘をつきはじめる。 せめて心の中だけでも明るくしようと、そう思うからだ」

「私は思う。箱に閉じ込められ、出してくれとささやきながら出番を待ち続ける、災厄と戦う災厄の災厄を。世界の総意により、 世界の尊厳を守る最後の剣を自ら任じた災厄を狩る災厄を。その決心を」

舞は堂々と言った。

「私は嘘を教わったのではない。私は真心と願いを聞いたのだ。だから私もまた、永遠に来ない明日の嘘をつきつづけようと思う」

舞は速水を見た。

「私は変に見えるか?」

速水は気の利いた言葉が心に浮かぶまで、一生懸命首を振った。

「僕は神話や伝説が好きなんだ。それを現実に見れて、よかったと思っている」

舞は、少しだけ笑った。

 深入り決定だ。速水はそう考えた。
客観的でない頭で、客観的に見れば風変わりなことを言う少女についていく気弱な少年の素性を調べる人間が、 どこにいるかと考えた。そう思い込むことした。これが嘘という奴か。

「もうこんな時間だよ、帰らない?」
「私にはまだやることがある。一人で帰るがいい」
「あらら」
「……なぜそういう反応をする?」
「あーいや、そうまじまじと聴かなくても、なんというかな。色々あるんだよ」
「複雑なことだ」

舞は、教室を出ようと歩き始めた。

「一人で帰れ。子供は早く休むべきだろう」
「君だって子供のくせに」

 舞は、立ち止まって、速水を見た。

「私のほうが、背が高い」
「嘘だ、そんなことは絶対ない」
「ふ。比べてみるか?」
「ムッカー、そのふ、というの、すごく嫌なんだけど」

 舞は速水に向かって歩くと、速水の心臓が下手に踊り出すほど顔を近づけた。
細い手の平を頭の上にかざす。

 速水は顔を赤らめたまま、背筋を伸ばした。
至近距離で、舞は笑った。

「私の勝ちだ」
「計測誤差だよ!」

舞は、上機嫌ですまして言った。

「夜寝ないと背が伸びない。ゆっくり休むがいい」
「すぐ見下ろしてやる」
「期待している。……そう言えば」
「なに?」
「本田から聞いたが、私とそなたは、同じ機体に乗るらしいぞ。私がガンナーで、そなたが操縦者だ」
「ほんと?」

 舞は、ちらりと嬉しそうに笑った。
「お姉さんが、嘘を言ってどうする?」
 速水は、軽い足取りで去っていく舞の後ろ姿を見たあと、舞のにおいが残っていると思って、自分の頭を何度か叩いた。



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夜。

 大猫ブータは、赤い短衣をはためかせて、その看板を見あげた。

正義最後の砦とあった。



 目を細める。



ブータは、血を吐くと耳をたれて、その場でしばし行儀善く座っていた。





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低い低い雲が立ち込めていた。
 星も見えないような暗い夜だった。

 目の前を、大きな猫と小さな猫達が通り過ぎて行った。まるで泣いているかのようであった。



 速水は、まだ帰っていなかった。
まだ舞と一緒に帰れはしないかと、学校をうろうろしていた。
自分でも馬鹿だと思ったが、賢く生きることは出来そうもなかった。



 正義最後の砦と大書された文字が、暗闇の中でかろうじて見えた。
真夜中でも良く見えるように、大きく書かれたのかなと、速水は思った。

 そして思った。芝村は、何のために書いたのだろう。誰が何のために暗い夜にこれを見あげる必要があるのだろう。





深く考えるほどではなかった。

 芝村が、芝村のために、暗い夜にこれを見あげる必要があったから、書いただけなのだと思った。

 風変わりな少女はこれを見上げては、黙って整備テントに入っていくに違いない。
それは彼女にとって、正真正銘の正義最後の砦であった。