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第7回
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低い低い雲が立ち込めていた。
 星も見えないような暗い夜だった。

 正義最後の砦と大書された文字が、暗闇の中でかろうじて見えた。



「これはなんと書いてあるのですか」
 傍らに座る、まだ仔猫の気分が抜けていない小さな猫神族が言った。

猫神族の英雄ブータは、血を吐きながら、細い息を吸うと、ヒゲを動かして歌った。
 それは意味のある音のつらなりであり、心動かす響きであった。

「それは上方世界の言葉ですか」

英雄の老猫は、寂しそうに口の端をゆるめると、丸い目を一杯に開いて朗々と歌った。年老い弱った猫であったけれど、 歌声までは枯れていなかった。

「それはすべてをなくしたときにうまれでる 無より生じるどこにでもある贈り物。それは悲しみを終らせる為に抜かれた刃。 偉大なる魔法の女王が残した最後の絶技。世界のどこにあろうとも、かならずさしのばされるただの幻想。 失われそうになれば舞い戻り、忘れそうになれば蘇る、最弱にして最強の、ただ一つの聖なる力」

 ブータは、前足の爪でその看板を掻いた。

「その軍団は、それが宿るその印として必ず聖句を描いた。我こそ最後と」

その後ブータは自らを嘲った。
「……悪い冗談で、大嘘だ。この世に聖なる物など、ない。壊れぬものもない。正しいものなどどこにもなく、 光の軍勢は遠くに去り、生き残ったわしだけが、こうして恥をさらしている」

雨が降ろうとしていた。

「みすぼらしい天幕だ。みすぼらしい墓標のようだ。……子供の遊び場が我ら最後の墓標だったか」

「これを書いた人族は、我々の味方でしょうか」
「まさか」

 ブータは激しく咳き込みながら言った。

「青の青と一緒に正義は死んだのだ。そしてわしも、もうじき死ぬ。やっと」



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 夜は、深かった。
雨の音を遠くに聞きながら、準竜師は舞のことを考えていた。

「勝吏様、お呼びです」
「分かった。ご苦労」

しもぶくれの顔を歪ませると、その準竜師は、深々と頭を下げる万能家令ミュンヒハウゼンを無視して長大な廊下を歩き始めた。

「お前はここに待っていろ」
「は」

 副官を置き、奥へ向う。

専用のエレベーターを降りて、巨大な扉を見上げる。
 いつ見ても我が一族には似合わぬことだ。誇りとは、家屋敷に宿るものであるまいに。
扉が勝手に開くまでそう考えるのが習慣になっていた。

 この扉を見上げるのを、我が従妹殿は嫌ったのか。

「入りなさい」
「入りなさい」
「入れ」

 万色の声が聞こえ、準竜師は黙って扉の中に入った。



 そこはいくつもの脳が泳ぐ水槽だった。
右を見ても左を見ても、接続された脳が泳いでいる。

 準竜師はそれを無視して、さらに奥に歩いた。その足が、正義最後の砦と書かれた床を踏む。
 その様を嘲笑うように、標本が彼を見下ろした。いじられた元人間どもだった。

 顔をあげれば、一番奥の玉座に、その館の主人が居た。
細身の身にメイクを施し、身をくねらせる。それはさながら蛇だった。

「ククク、よく来ましたね」
「はっ」

「なぁぜ呼ばれたか、お分かりですか?」
「分かりませんな」

 蛇のような男は、神経質そうに笑うと、直後に水槽の一つを叩き割った。
流れ出る液体と共に、水かきと鰓を生やされた少女が倒れ込む。

「貴方は舞の行方を知っていますね」
「無論です。私の隷下の部隊で、名前を隠してもいませんからな」
「なぜ教えなかった?」

「単なる手違いでしょう。報告はしています」
「……ククク。なるほど、ではそういうことにしておきましょう」

蛇のような男は上機嫌そうに執拗に少女を蹴り始めた。

「クーラ・ベルカルドがすぐそこまで来ているのですよ。我々が団結しないで、どうするのです」
「これ以上になく団結しているかと思いますが」
「では、舞の元にエージェントを送ることを拒まないと?」
「無論です」
「あれは特別だった!私には分かる! あれには彼が隠した秘密があるはずです!でなければああも愛されるわけがないぃぃ!」

蛇のような男は叫んだ後、涼しげにつぶやいた。

「では、エージェントを送ります。ああ、どうせならテストしてもイィですね。これで人類は生き残るでしょう」

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雨が降り出していた。

猫神族の英雄ブータは、正義最後の砦と大書された天幕に入った。
 いくつかの巨人が居た。絶望の響きをあげていた。悲しい、悲しいと。
その足元で、丸まって寝た。

夢を見た。



 夢の中ではブータは、楽土を駆けていた。
死んだら、また仲間と共に走れるだろうか。



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 猫神族の王にして列王の一柱ブータは、その背にきらびやかな鎧と光の剣を纏った小神族の戦士を乗せて、 一万を数える神々と英雄の連合軍とともに戦場を駆けていた。

 高らかに鳴らされる角笛と共に、重装甲をつけた騎士団が前進する。
それは身の丈二十キュピトはあろうかという巨人達であり、その肩に乗る鳥乙女達であった。彼らは不思議の側の大河を越え、 光の軍勢に馳せ参じていた。

 騎士団の進む道を切り開くように、何本もの矢をつがえる兎神族の弓兵達が一斉に天空に光の矢を放った。天が黒くなるごとく、 矢が放たれる。

矢が放たれる先に見えるのは、はるかかなたまで埋め尽くすように迫りくるあしきゆめ。
それはスケルトンであり、それはろくろ首であり、それはメデューサであり、バイコーンであった。ブータは歯を見せて怒った。 その怒りは光のようであった。

「続いて猫神族。人神族。前進用意。ヌマ卿、名をあげられよ」
「承知した! 猫の旗をあげよ! 闇を退ける時はきた!明日が来たのだ!……全軍!」

ブータは喉が音を鳴らすまで息を吸った。ついで太陽が昇るような輝きの声を上げる。

「猫前進!」
「猫前進!」

 白に黒にぶちに茶毛に縞模様の猫神族の英雄達が、それぞれの背に小神族の英雄を乗せて騎士団の後を追うように前進を開始した。

 全員が手に持つ武楽器を天に掲げた。地を埋め尽くすような小神族の白刃が、太陽の光を浴びて黄金に輝く。

 輿に乗ったシオネに頭を下げると、猫達は一斉に前進を開始した。

続いて馬神族に乗った人神族の英雄達が轡を並べた。
同じくシオネに頭を下げながら、歌を歌いつつ前進する。
 それは人神族の誇りであった。全ての神族の中で、武楽器を与えられなかった人だけが歌と共にあった。

歌が朗々と全土に響く。

「それは世界の危機に対応して出現し、世界の危機を消滅させて、また消えていく存在。ありうざるべきそこにある者。 夜明けを呼ぶ騒々しい足音。人が目を閉じるときに現れて、人が目を開く時に姿を消す最も新しき伝説。世界の最終防衛機構!」



ブータは人神族の盟友と並んで笑みを浮かべた。声をあわせる。

「この大地のことごとく! この天空のことごとく! はびこるあしきゆめを討て! 我ら生まれは違えども!」

「心は一つ!」