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第10回(後編)
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 善行は走っている。
その足取りは、速い。学兵部隊に配置される前は行軍隊長と渾名されるほどに善行は歩く走るを重視していた。
 指揮官の仕事が率先にあるとすれば、善行はその点、海兵隊を通じて一番走り込んだ人物であった。

 ぶらぶらしている滝川が見えた。
「滝川くん!」
「はいっ!」

 無意識に背筋を伸ばした滝川に、善行は立ち止まるのも惜しいと言った風情で命令を下した。
「全員、動物園入り口まで後退。これから貴方は僕と反対の方向で動物園をまわって生きている人間を見かけたら 私の命令を伝えて避難させてください」
「食事はそこなんですか?」
 善行は滝川の顔を殴った。体重が軽いため、よろける滝川。鼻血が出る。

「最初に、はいと言いなさい」
「はい、委員長!」
「敵が出ました。既に中村くんは死んでいるかもしれません。急ぎなさい」
「……え?」
 善行は滝川をもう一度殴った。 滝川が信じられないという目で自分を見るのを、眼鏡を指で押して表情を消して 受け止めながら、胸座を掴んで引き寄せる。
「目が覚めましたか。目が覚めたら走りなさい。私が欲しいのは私の言うことを忠実に実行する部下だけです」
「は、はい!」
「行け」
「はい!」

 滝川は走った。口の中が切れていた。命令に従わなければ、殺されると思った。

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一方その頃。

 憔悴しきった表情の男は、集まっている仲間達に寄りながら絶望的な声をあげた。

「駄目だ、見つかった。私服の軍人らしい奴らがうろちょろしてる。特高かもしれない」
「駄目、ですか」
 総髪の御曹司と言った風情の少年は、父親に火遊びが見つかった時のように手を小刻みに震えさせた。
 はじめての実務活動なのに、これで終わりかと思うと、急に怖くなる。

その様を不憫に思ったのか、年長の一人が、皆に言った。
「俺が時間を稼ぐ」
「しかし」

年長の者は、腹のあたりをさすりながら言った。胃が痛いのかもしれなかった。

「みんなで憲兵に捕まるよりはいい。芝村に捕まるか、ラボに入れられるぐらいなら」
「……すまん。広瀬」

 広瀬といわれた年長の男は、この期に及んで微笑んだ。片手をあげる。
「……統一のために」
「統一のために」

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 走る滝川は集まっている人間達を見つけた。同じようなボランティアのようだった。

「あんた達!」

数名が、紅い瞳を輝かせた。懐に手を入れる。
 年長の男がその動作をやめさせた。広瀬と呼ばれていた男だった。
首を振り、滝川の方をむく。

「なんでしょう。もうお昼ですか」
「敵だ。敵が出たんだ。動植物園の入り口まで避難しろって」

 滝川は敵がなんだか分からないまま、言った。実際がどうなのか、分からない。
地面に血がまじった唾を吐く。でもこの痛みだけは本当。これ以上痛い想いは、したくなかった。

 広瀬は、そこに憲兵が待っているかもしれないと思った。
この少年も憲兵に<協力>させられている可能性があった。だとしたら可哀相な話だった。
殺すまでもない。広瀬は、表情を選んだ。
「……あー、なるほど。分かりました。すぐ避難を始めます」
「急いでくれ」
「はい」

 滝川はきびすを返した。また走り出す。

広瀬は仲間を見ると、声をかけた。
「話は聞いたな。今すぐ入り口へ」
「……しかし」
 言いよどむ仲間に、広瀬は顔を近づけて小声で言った。
「ばらばらに行け。憲兵がまっていたら、そこでおとなしくしていろ。俺がぶち壊してやる。その時に逃げるんだ。 待っていなかったら、そのまま何食わぬ顔して逃げろ」
「分かった」

 広瀬は皆を納得させると、総髪の御曹司といった風情の少年に声をかけた。
「遠坂」
「……はい」
「皆を頼む」
「わ、分かりました」
 広瀬が遠坂に声を掛けたのは、遠坂が裏切るかもしれないと思ったからだった。
年季の入った活動家である広瀬には、遠坂が活動に参加したことを後悔しはじめていることが手に取るように分かった。 だからこそ声を掛けた。
 遠坂は声を掛けられて、これを遺言と思ったのか、新たに気合を入れたようだった。
そうだ、それでいい。と広瀬は思う。この少年には使い道があるはずだった。

 遠坂は髪をわずらわしそうにかきあげた。広瀬を見る。
「きっと皆を脱出させます」
「間違えるな。俺の後についてくるような仲間がいないように止めるのがお前の仕事だ」
「分かりました」
「後は潜伏していろ、そのうち別のセルが連絡してくる。よし、行くんだ」

名残おしそうに一度広瀬を見ると、遠坂達は入り口に向かって走り始めた。

広瀬は逆方向に、動物園の奥の方へ歩き出す。

 赤い瞳が残像を残す。服が消え始める。
手が、変異をはじめていた。

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 善行はパイロットのところまで辿り着くよりは速いと、臨時指揮車まで向かった。
荷台に転がって紫煙を揺らす本田が、何事かと顔をあげる。

「どうした、善行」
「CAに入りました。中村が接敵して、連絡を絶っています」
 善行は無線機の送信ボタンを入れた。

「こちら指揮車。聞こえるか……速水、芝村! 聞こえるか?」
「交戦エリアだって? 穏やかじゃねえな」
「朝、テロがあったでしょう。どうやら犯人がここに逃げ込んでいるようです」
「なんでよりにもよってこの袋小路に」
「追いかける方もそう思っていたのかもしれませんね。……聞こえるか。速水。芝村」
「……どうするんだ」
「どうするもこうするも、私や貴方が持っている私物の拳銃では、幻獣相手にはどうにもできませんよ……速水!  くそ、故障か」
「そういや、さっきから連絡が来てねえな。テレメータも止まったままだし」

 善行はウォードレスの襟に装備されている隊内通信機に呼びかけようとして、やめた。無線とは別バンド、 別機構で作動するテレメータまで止めてくるような相手が、隊内通信機を見逃すはずがない。

 歯が鳴る。善行が噛みしめたのだった。

「……電波妨害か」
「なん、だって!?」
本田の顔が歪んだ。
 社会不安をあおるテロリストと、電波妨害をしかけてくるような奴では相手が違う。
電波妨害であれば、敵は正規軍である可能性が高かった。

 善行は考える。敵の罠か。だとしたら、安易に動物園の入り口に誘導したのはまちがいだったか。 ここには出入り口が一個所しかない。見事な封じ込めだ。いや、誰が練習生をここまでして攻撃する。
 善行が考えたのは2秒だった。迷っている間に部下が死ぬことは多い。速度だけが部下を生かすと、 善行は無数の経験から良くわきまえていた。
「本田教官は動物園の入り口前へ。生徒が来たら白熊の檻の前へ誘導。民間人はそのまま逃がしましょう。 最悪でも被害は分散する」
 本田はうなずいた。素直に従うことにする。階級こそ同じだが、善行のほうが優秀だと本田は思っていた。
 そもそも善行は芝村閥の一人で、あえて階級を落してこの地に来ていると教官連中では噂が立っている。 本田自身は信じていなかったが、隊内にいる芝村舞という人物は芝村閥の姫君で、その帝王教育係として大陸で“鬼善行” と呼ばれた伝説の指揮官が配置されているという内容だった。
 それはあるいは、本当かもしれない。ただし教育係ではなく、常に命を狙われる大物の護衛として。
「分かった。動物園の入り口、生徒が来たら白熊の檻の前」
「ええ。キーを、貸してください」
「ああ」

 本田は、臨時指揮車……とは名ばかりで単なる軽トラックのキーを善行に渡すと、直ちに背を向けて走った。