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 ここよりしばらく、物語は少しの時をさかのぼる。

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 その人物は、裕の目標であり、伝説であった。

 目にも眩しい純白の帽子を被る、黄色いスーツ姿の人物。
強化された眼鏡。鋼のようなネクタイ。冷たく青く輝く宝石のネックレス。
空中に浮く古びた鞄。手に握られた銃身のない銃。マーカーガン。

 古い友人に会いに来たというその人物の顔を、今はもう裕は思い出せない。
だがそんなことは、どうでもいい。重要なことは、そうではない。
大事な物は胸の中で暖めている。他に必要なものは、何もないはずであった。

 道化のように顔を白く塗った総一郎は、紫色の口紅を動かしながら、その人物の傍らに立っている。 荷物持ちだかなんだかを仰せつかったのだった。

 その人物は低い声で言った。

「君は将来、どんな仕事に、つきたい?」
「もう決まってるんです。僕は、家令になるように作られましたから」
「人間は作られるものじゃない。人間は生まれてくるんだ。そして何かになるんだよ」
「何かですか」
「そう、何かだ。人は最初からぽややんなわけではない。努力してぽややんになるのだ。この世に生まれつき ヒーローである女もいない。努力して女はヒーローになるのだ。世界という奴は、いつだって双六のように出来ている。 賽の目に泣かされるが、それで終るようには出来ていない」
「スゴロクってなんですか」

 男は、笑った。
「うちの商品だよ。ぼうや。初心者にもお勧めだ。あいにく今日は商品を持ってきてないんだがね」
「残念です」
「なに、気にするな。ゲームっていう奴は、必要とされる人間の手元に、必要なときに必ず届くようになっている。 今手に入らないのは、今必要ないんだろう。本当に必要なら、そのうち必ず手に入るもんだよ。たとえ何年かかってもな」
「ゲームってなんですか」

 男は長く息を吐くと、裕を見た。

「……いいことを教えよう。ゲームって奴は、損得抜きの賭け事だ。チップは心で、報酬も心だ。世の中の何も動かさないが、 だからと言って未来に影響を与えないものでもない。そういうものだ。……さあ、今度は俺の質問に答えてくれ。もう一度だ。 君は将来、どんな仕事に、つきたい?」
「考えたこともありません」
「今考えればいいのさ。……もし。才能も身分も年齢も何もかも捨てて職を選べるとするなら、どんなのになりたい?」
 裕は、舞の父親に見せて貰った原稿を思い出した。そして、顔を赤面させて言った。

「……僕は、未来の護り手になりたいと思っていました」
「いい夢だ」

 笑いもせずに男は即答した。
 裕は感動した。誰もが笑うおとぎ話を、ただ笑わない事を、すごいことだと思ったのだった。

 人間というものは、時折どうでもいいような一事をもって人生が変ることもある。
裕の場合もそうだった。裕の中で、いい夢と実現しうる未来は、その日から一つとなったのである。彼にとって未来と夢は 不可分であり、共に手を取った恋人同士であった。

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 時は流れる。

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 車椅子が、派手に地面に投げ飛ばされた。

「やめて! やめてよ!」
「はいはいはい、お嬢さんはこっちねぇ。こっちでいいことしましょ」

 ピンク色に染めた髪を持つ加藤は、薄ら笑いを浮かべた悪漢に腕を掴まれ、それでもそれを無視するように まだ自由になる手を伸ばした。

「なっちゃん! なっちゃん!」
「いい声だねぇ」
 胸を揉みしだかれる加藤の視線の先には車椅子から投げ出され、腕の力だけで這い出そうとする少年の姿があった。

 這い出そうとする少年の頭を踏む悪漢の一人。
「ごめんねぇ、俺達も、やっぱり義理ってものがあるわけよぉ」
「そうそう」
「……くそ、社会のゴミが」
 車椅子から出た細い脚を踏み抜きながら、別の一人が面白そうに笑った。
「ゴミはお前だってーの。ぎゃははは」
「なっちゃん……なっちゃぁぁん!」

 己の袖を肩口から引き千切り、置き去りにして、加藤は彼女がなっちゃんと呼ぶ少年のところに走りよった。

 なっちゃんを抱きしめ、己の身を挺して護ろうとする加藤。
泣きながら何事か言った。

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 泣き声が、聞こえる。

 裕は、全速で走りながら暗闇の中で目を開いた。目をこらせば闇が見通せるように、目を見開いて、思い出に耳を澄ます。

(人は最初からぽややんなわけではない。努力してぽややんになるのだ。この世に生まれつきヒーローである女もいない。 努力して女はヒーローになるのだ。世界という奴は、いつだって双六のように出来ている。賽の目に泣かされるが、 それで終るようには出来ていない)

 皮肉そうに口の端を動かし、裕は最後の距離を歩き始める。
「その通り。さしずめ僕は、家令として生まれ……」

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 なっちゃんから、ひきはがされようとする加藤の耳に、歌声が聞こえてきた。

「……尊厳を守る最後の剣として、全ての災厄と共にパンドラの箱に封じられていた災厄の災厄。 自ら望んで生まれ出る人の形をした人でなきもの」

 歌声が、近づいてくる。

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「それは世界の危機に対応して登場するただの人間……」

 メイクを落した長い髪の裕は、路地裏の闇の中から、長い手足を揺らしながら登場した。
仰天する一同を無視し、加藤の前に歩いた。そして手を天にさしあげ、一輪の青い薔薇を手の中に出現させる。

 そして真顔のまま、狩谷を抱きしめる加藤にうやうやしく差し出した。

 呆然とする加藤のピンク色の髪に、薔薇を差す裕。

 裕は身を翻した。黒いスーツ姿が良く似合う。長い五本の指を握り締める。
悪漢を前にして、岩田は、薄く笑った。楽しくて楽しくてならないというように。

「……主人公が不在の間、代役などいかが?」

 そして何が面白いのか、上機嫌で謡った。
「それは必要とされる人間の手元に、必要なときに必ず届く特売品」

裕は闇を見通すように目を見開いてつぶやく。

「僕には僕が課したゲームがある。例えばそれは、万難を排して青い薔薇が似合う女性の元に、それを届けるということ」

 とりあえず殴れとばかりに突き出された悪漢達の拳と脚、打撃という打撃を、裕は人間の限界を突破した柔軟性で かわしてみせる。
そして赤い唇が笑った。両手を交差し、最後の一撃を受け止めると、長い髪を振って先の尖った耳を見せた。 目は、笑ってない。

「僕は、未来の護り手なり」

 そして全開で拳を振りかぶった。次の瞬間には風を切る音と共に振りぬいた。
拳の動きに遅れて半秒。悪漢達は一撃で崩れ落ちた。四人一撃である。

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 そして、呆然としている加藤の姿を一瞥することもなく、裕は黒いジャケットを揺らして悠然と闇の中に消えていった。

 脈絡のない、伏線0のひどく唐突な出現の仕方。
それが加藤にとっての裕の印象であり、個性であった。