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第14話(前編)
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 目をつぶれば、三年前を思い出す。

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 激しい息遣い。
整えようと考える頭。思うに任せない身体。吹き出る汗。

 クルスは、相手から目を離さないように、にらみながら、避けつづける。
相手に息をつく暇を与えない。嫌な対戦相手だった。

 手にする長い棒で衝く。相手は軟体動物を思わせる柔軟性でそれを避ける。腕を蛇のようにくねらせ、 棒をすべらせて執拗に首筋を狙ってくる。
 紫色の爪には、毒がしこまれている。そういう想定だった。

「クルス君! エレガントではありませんぞ!」
 金髪のクルスは、荒い息の中で相手はエレガントなのかと思った。相手は蛇かタコだ。
道場の畳は冷たく、足の裏だけがクレバーになれとささやいている。

 百人の家令達の乱取り稽古の中で、最終的に生き残ったのはクルスと、対戦相手だけであった。

 息が苦しい。チアノーゼが、そろそろ肌に出ている頃だろう。
呼吸がしたい。呼吸がしたい。 クルスはそう考える。思い切って口を開いた。

「……お前は、強いな」
「まだですよ……まだ目指すところには、程遠い」

 クルスと対峙する裕は、計略に乗らなかった。連続的に攻撃を仕掛けてくる。
クルスはこらえた。一呼吸。一呼吸できれば、逆転できる。

「そんなに強くなってどうする」
「……僕は、誰かを傷つけたり支配するために生まれたんじゃない」
 来須は長い棒を捨てて裕に接近した。岩田は絶妙の距離をとりながら、右に左に長い腕を突き出してくる。
「僕は誰も傷つけることなく退けられる力が欲しい。戦うまでもなく勝利する圧倒的な力が欲しい」
「欲深い話だ」
「僕は、大家令くらいで終われない」
「どうかな」

 クルスは口元を笑わせて後退する裕に合わせ、飛びのいた。呼吸する。酸素が身体に行き渡る感触。

「お前は外様の俺とは違う。お前はクローンだ。大家令の完璧な息子。支配するのが役目だ」
「そう生まれついたのかもしれないが、それが結論だとは思いたくない。僕には僕の夢がある」
「くだらない夢だ」
 クルスの蹴りを、裕は悪魔のような正確さでよけきった。突き上げられたクルスの足の先に、軽業師のように乗っている裕。

 裕は口を開いた。
「君が舞の家令になるのが、気に食わなかった」
「俺は恵まれたお前が気に食わなかった」

 裕は宙を飛んだ。クルスは蹴りを振り切った。
二人は同時に拳を交わした。クロスカウンター。

「同じあの人に憧れながら、僕たちは、いつからそうなったんでしょうね」
「……知るか」

 クルスの頬に、小さな赤い血の玉が出来あがる。
裕の爪がクルスの頬を切り裂いたのだった。

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 目を開き、クルスは戦死した時の頬の痕を、手でなでまわした。
戦死は一度で十分だと考える。クルスにとって、訓練も実戦も、冗談も真剣も存在しない。
そういう性格だった。クルスは、あの時自分は死んだと思っている。

 クルスを自室に呼びつけて何も話さないミュンヒハウゼンは、クルスの落ち着き払った態度に意を決したのか、椅子に座り、 片眼鏡を磨きながら口を開いた。
「クルス君は末姫様の家令だったな」
「そうだ」

「今も仕事は解かれていないな」
「……そうだ」

しばしの沈黙の後、クルスの答えをミュンヒハウゼンは肯定と捉えた。

「では義務を果たしなさい」
「……芝村を敵に廻していいのか」

 ミュンヒハウゼンは、片眼鏡を掛けた。
「末姫様も芝村であられる。どちらが勝っても我々が支配者であることに違いはない」
「分かった」

「それだけだよ。では行きたまえ」

「お前は嘘が下手だ」

 ミュンヒハウゼンは、この男に最後まで喋り方を教育できなかったと思った。だが今はその頑固さが頼もしい。

「嘘ではないよ。私は、ナポレオンの次くらいに、芝村の子らを気に入っている。度が外れた残虐性も、 理解不能のヒューマニズムも、全てを裏から操作するあの手口も、気に入っている。だが思うのだ、優しい芝村が、 何故不良種なのか」

 クルスは何も言わなかった。
話す必要はもうなくなったと言わんばかりに、高い背を向け、白い帽子を被る。
 その背に、ミュンヒハウゼンが声を掛ける。

「裕君は末姫様のところにいる」
 クルスは何も言わなかった。怜悧な瞳でミュンヒハウゼンを背中越しに見ただけである。

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 一方その頃、整備テントの屋根の上。

 絶妙なバランスでテントのポールの上に立つ岩田は、朝の風に揺れている。

そして虚空に目を開き、岩田裕は紫色に塗られた右手の爪を見た。
 結局人を傷つけたなと思う。僕はいつもそうだ。僕はあの時、唯一の友人を無くした。

いつになれば、誰も傷つけることがないほどの力を手に入れられるのだろうか。
 僕は力が欲しい。幻獣すら戦いを自制するだけの圧倒的な力が欲しい。そして自由になりたい。

 父のようになりたくはない。自由になりたい。
僕は自由になりたいのだ。自由になって、そう、憧れの職業になりたい。

 岩田は軽く跳ぶと、手を伸ばして青空に70cm近づき、まっ逆さまに落下した。
重力からも解き放たれるまでに、後どれだけ訓練すればいいのかと目をつぶり、身を翻して着地する。派手に転がった。

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 過去にこだわる者もいれば、そういうのとは関係なしに生きる者も、いる。

ののみはブータをお供に手を大きく振って歩いている途中である。

 朝の通学路。特別に仕立てられた小さなサイズの制服を着て、特別小さな姿を見せて、小さな声で歌う。強く意識しないと 勝手に歌ってしまうのだった。
 ブータは尻尾をピンと立てて、ののみの声を心地よく聴いた。
どんな作業をしている者も、その声が聞こえれば一度は手を休め、微笑むのだった。
 学校に入り、プレハブ校舎に向かう。

 通学中に仲良くなった女子校の生徒が、ののみがプレハブ組であることをとても気の毒がったが、 ののみは笑ってそれを聞き流した。
 ののみはプレハブが好きなのだった。小さいことも、隙間風が吹くことも、とりわけ中の人間が。

 猫の耳とののみの耳が箒の音を聞きつけた。楽しい通学路も、もうすぐ終りだ。
猫の目とののみの目が、プレハブ校舎前で箒をもった壬生屋の姿を捉えた。
まだこの時間で箒を持っているということは、たかちゃんはおやすみなのかな、とののみは思った。

「おはようございます」
「うん。じゃない。はい。おはようございます」

 ののみは、壬生屋を見てにっこり笑った。
つられて壬生屋も笑ってしまう。ののみには、そういう力があった。
ののみが笑うと、その笑顔を見る人間も笑ってしまうのである。

「みおちゃんはえらいねぇ。ののみはねぇ、いつもねぼうしちゃうんだ」
「貴方は一人暮らしで、家のことは何もかも一人でやっているのでしょう? 私の方は、母の力を借りていますから。 余った時間で少し早く来て、洒掃しているだけです」
「さいそー?」
「洒掃。掃除のことです」
ブータが大きくうなずいたような気もしたが、壬生屋はそれを目の錯覚として無視した。
 仕方ないという風に微笑み、ののみに優しく声をかける壬生屋。

「さ、教室に行きなさい。遅刻しますよ」
「うん。今日はたかちゃん、来るといいね」
「そうですね……いや、あ」
 壬生屋は何故か顔を紅くした。下を見る。

「それは関係ないでしょう。いいから行きなさい。私もすぐ行きますから」

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 ののみと大猫を見送った後、壬生屋はため息をついた。
すぐに善行がやってくる、
「おはようございます。委員長」
「おはようございます。今日もお掃除お疲れ様です」
「いえ。これくらいはたしなみですから」

 善行は左腕に巻き付けた多目的リングを見た。時計機能に切り替えて表示する。
「それでは行きましょう。瀬戸口くんは遅刻ですよ」
「な、なぜ瀬戸口くんが出るんですか。そこで」

 善行は何故と言われてもと、表情を曇らせたが、本人が気づいていないのかもしれないと思い、話をはぐらかすことにした。
「ああ、実は整備の人達は、今日は昼からなんですよ。今日は511、512共同の士魂号の整備研修会ですから」
「でも、岩田君はロープなしバンジージャンプをしてましたよ?」
「まあ、彼を連れて行かない上司の気持ちは分かりますね。さらにちゃんと伝えても彼が言うとおり働くかどうか、 微妙なところではありますが。ということで、教室に行きましょう」

 壬生屋は逡巡した後、何の言い訳も思いつかないことに気づいた。下を向く。
「……はい」

 瀬戸口は、どうしたのだろう。

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 その瀬戸口は、幻獣共生派の活動家、遠坂の家に居た。

「……別のセルからの命令だと、伝えておきました。明日に攻撃は行われるでしょう」
 無念そうに言う総髪の少年、遠坂の表情を無視し、彼の妹の髪を瀬戸口は手に取ると、その香りをたしかめた。 薬で薄めた死の匂いがする。
「いやー、結構結構。いい仕事するじゃないか」
「なぜこんなことを……」

 瀬戸口は、遠坂の不快気な表情を楽しんで口を開いた。

「さあ、上の考えていることなんか、俺は知らんさ。知りたくもないね。知れば寿命が縮まるだけ。そっちもそうなんだろ?」
「セルは、特高に芋蔓式に検挙されないためのシステムです。貴方がたとは違う」
「同じさ。知らなきゃさほど拷問受けることなく死ねるってところなんか特にね」

 身を硬くする遠坂に、瀬戸口は笑ってみせた。

「大丈夫。芝村って奴ぁ、優しくてね、お前さんの身の安全は保障するって言っている。元財務警官で今は貿易商、 だったかな、お前の親父さんと知り合いらしい。情けをかけるって話だ」

 瀬戸口は遠坂が内心ほっとしたことを見逃さなかった。
醜い限りだと思う。まあ、一度芝村の侵入を許したら後は食い荒らされるだけだというのは黙っておいてやるかと考える。 後に楽しみの一つくらい、取っておいてもいい。
 どんな顔するかな。瀬戸口はそう思った。

「さて、次の用件を片づけに行かなきゃな。真の実力をテストするために、もう一つやる必要があるんだ。いやいや、 俺も忙しいね。……ああ、そうそう」

 瀬戸口は立ち上がると、遠坂の肩に手を置いて罪のない笑顔を向けた。

「仲間売って手に入れる安全だ。楽しんでくれよ。アハハ」

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 ののみが教室に入って最初にすることは、舞の姿を見つけることだった。
「わぁ、まいちゃんだー」

 ののみにとって舞は憧れだった。大きくなったら、身体のことではない……舞のようになりたいと考えている。
 どんなに気の毒だと言う人も、困っている人に実際手を差し伸べたりすることは稀だ。
そんなことをする人はえらい。ののみはそう思っている。

 そういう観点で見れば、舞はののみが見た中で最高得点保持者だった。
猫が困っているときは猫を助け、みおちゃんが困っていれば走って助けに行き、人が困っているときは戦っている。もちろん、 ののみが困ったときも、助けたのは他の誰でもない。

 その上、お礼も必要としていない。なにかと引き換えにしているわけでもない。
そこまでくるとののみの狭い見聞の中では他に比類する存在は思いつかなかった。おとーさんも優しかったが、誰にでも、 というわけではなかったような気がする。

 だからののみは、舞を見つけると抱きつくのだった。ののみ風にはぎゅーという。
憧れる気持ちと抱きつく行動が、ののみの心の中でどうして繋がるのか。まだ、ののみには分からない。

 舞は腕を組んだまま、ののみをよけることもなくぎゅーされた。
そして少しよろけた。舞は、思ったより軽い。

 よろけたそのままの姿勢で、舞は速水に声をかける。
「よりましというものがあるぞ。悪いより少し悪いほうがいい」
「ふぇ? なんのことー?」
「食べ物の話だよ」
「賞味期限を10日すぎたヨーグルトと5日過ぎたコロッケパン、どちらがマシかという話だな」
 ののみは面白くて笑った。まいちゃんがそういう話題を真面目な顔で話すのは面白い。
舞と速水も、つられて笑った。舞のほうは、ひきつったように見えたけど。

「ヨーグルトは最初から腐っているんだから、10日くらい大丈夫だよ」
「発酵と腐敗は違うぞ。プラスティック分解菌が増殖していたらどうする」
「僕は乳製品駄目だから大丈夫」
「たわけ」

 ののみは嬉しそうに笑った。まいちゃんは上機嫌そうだ。
「どちらか選ぶような事がないといいね」
「あまりないだろう。世界は、1か0でないことの方が多い。実際には1と0の間に無限に見える段階がある。 そういう時はマシな方を選べ。それだけの話だ」
「ヨーグルトよりコロッケパン」
「大悪党より小悪党、小悪党より凡婦、凡婦より賢母だ」
 舞が自分の言葉にあわせて言ったことが嬉しかったのか、速水はふわふわな笑顔を舞に見せた。 恋する乙女という雰囲気 だった。
「ねえ、思うんだけど」
「なんだ」
「なんでこういう話になったんだっけ」
「……たわけ。最初は部品精度の話だった」