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第17回 (前編)
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 善行はその日、小隊長室となった小さな小屋に青と黒猫の旗を掲げた。
 いずれ全土にその名を知らしめるつもりではあるが、今のところ、隊長その人が手ずから掲揚する程度のものである。この歴史的光景を見たものは、 善行家の飼い猫一匹であった。

 足元で顔を洗っている純白猫に、そう怒らないでくださいよ、いつか、貴方の旗も作りますから、と言う。

 純白猫は知らん顔。

 善行と白猫の一方的な会話のその横を、書類を持った加藤が笑いながら通り過ぎた。
猫と話す隊長が面白かったのだ。

 加藤は思う。どうもこの小隊長室には猫が多い。猫が多いと言えば整備テントもだ。
自分としては不思議だが、周囲は戦争の準備で忙しく、猫が多いねという途方もない日常的な話題をクラスメイトにできかねていた。

 まじめに聞いて何度もうなずいたのはののみちゃんだけやわ。加藤は思う。
 加藤が気にかける少年、車椅子の狩谷に話したところ、そんなに猫が好きなら僕の相手をやめて猫を抱けと言われたので、彼女はもうこの話題を 持ち出さないと決めている。

「何を笑っているんですか」
 善行が大きな声で加藤を呼び止めた。肩をすくめる加藤。
男は猫をかわいがる女が嫌いなのかもしれない。

「あ、いや、隊長さんが猫と話しているのを見て」
「見て?」
「あ、かわいいなあ、もう。とおもーたんです。すんません」

 善行は、素子だったら腹を立てて猫に対抗しようとし、萌なら微笑を向けるところだと思った。世界は広い。頭を下げる加藤から視線を外して口を開いた。 僕もまだ子供か。

「僕は大人なんですよ。それと、貴方は最近働き過ぎのようです。休んでください」
 事務職の特権、時間外給が減らされると困る加藤は、恐怖を感じて顔をあげた。
「勘弁してください!」

 善行は予想外の反応に猫を見た。純白猫のスキピオは毛づくろいに余念がない。そして善行は加藤を見た。
「仕事が遅れている訳でもないでしょう」
「それはもう。あ、いえ、でも」
「何か、事情があるんですか?」
 善行は加藤と狩谷が馴染み深い事を知っていたが、それ以上に考えを巡らせたことがない。不思議そうに言った。
 加藤は考える。狩谷の足の治療のためにお金が欲しいと素直に言えば、多分納得してくれるだろうと思う。だが、その言が漏れ伝われば、 狩谷はどう思うだろう。

「あ、あの、あんな自分、仕事せないかんね…じゃない、です」
「それは分かるのですが」
 加藤は発作的に言い訳を思いついた。
「でないと、パイロットさんたちに、申し訳なくて、あの……お、同い年やし」
 加藤は心の中で、未央ちゃんごめんと謝った。どこか情けなくて涙が出た。
「だから! お願いします、お願いします」

 善行は善行で頭を鈍器で殴られたような衝撃を受ける。
 僕は馬鹿だと思った。軍隊は精神的腐敗の温床だ。なぜ休める時に休まないのかばかりを考えて、心のありようを忘れる。
 素朴な同胞意識の現れを真顔で尋ねられても、困るだけではないか。
善行は自己嫌悪した。己の眼鏡を、指で押す。

「すみません」
「え」
「いえ、馬鹿なことを聞きました」
 善行は頭を下げた。年下で階級も下の人間に腹いせに注意した、自分の卑しい本性に嫌気がさす。こんな自分を尊敬する部下たちを思い、 だから思い人に会えないのだと、そう思う。
「あ、いや、うちこそ、すんまへん。それが無駄やて、おもーてるんですけど。でも、あの、やめれへんいうか、やめられんいうか」
 加藤は、人の良さそうな隊長さんをだました事が、悲しい。この日のことを夢で見て、また夜中に目が醒めるだろうと、自己嫌悪した。
 加藤は愛想笑いしながら、涙を流した。手の甲で涙を拭い、自分のしょうもなさに笑い過ぎたと言った。

 善行は首を振ると、頭を下げた。
「そうですね。分かりました。体を壊さない程度に、働いてください。スキピオ、貴方はこんな時になんてことを」
 純白猫はふんばってうんこしている。

 加藤は急に、ピンク色の自分の髪をなでつけながら口を開いた。善行の前で変な格好をしていると思われたくなかった。

「その優しさは猫には向けられないんですか」
「猫はかわいがっても無視しますからね」
 善行は言った。それはどこかすねてるようで、加藤はちょっと笑った。

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 善行委員長、と最古参の人間から呼ばれるその人物が、己の掘っ建て小屋に青と黒猫の旗を掲揚したその日。

 士魂号複座型突撃仕様は整備員達によって、都市迷彩の上から、青と黒猫のマークをこぢんまりと描かれた。
 複座型だけではない。単座型にも、これらが小さくマーキングされた。
 小さく描いたのは、敵からの視認性を少しでも下げようとする整備員の配慮であったが、それでもそのイグニシアが描かれたのは、 戦場に出る部隊員が強く熱望したからであった。

「俺、最近、猫がいいなと思ってるんだよ」
 部隊に対する愛着を、照れ隠しに鼻の下を指でこすりながら言ったのは滝川である。
「私は、和を乱すのが好きではありません」
 その隣の壬生屋は、そう言った。

 さらにその隣の舞は何も言わず、ポニーテールの髪を振った。
 何を愚かなことを、と思ったのだと周囲は思ったが、本人は、猫は、よい、などと訳の分からないことを考えている。
 その舞の横で陰のように立って優しく笑うのは速水である。彼はののみを優しく世話しながら、口を開いた。
「僕は賛成。みんな一緒だから」
「俺達はいつも一緒さ。マイバンビちゃん」
 速水に抱きつこうとしながら壬生屋に踏み付けられているのは、優男を自称する瀬戸口である。
 ののみは、速水や瀬戸口、壬生屋や舞、滝川、中村に囲まれることが嬉しいようだった。その胸を幸せで一杯にしている。 ののみは周囲を見ながら笑った。
「ねこさんかわいいねえ」

 私物のデジタルカメラを構えるのは善行だった。彼は部隊設立以来初めて、公然と公私混同の命令を出した。実戦部隊の集合写真を撮りますと。 部隊としては珍しいことに、全員が賛成した。その後、それぞれがそれぞれをいぶかしんだ。気にしてないのは舞だけであった。


 中村はきちんとした軍礼装で来ていた。白いベレーをかぶり、敬礼して見せる。
「委員長、我が猫の旗を熊本中にたなびかせてやりましょうや」
 中村はこの写真を葬式に使ってもらおうと考えている。軍神と共に戦った、勇敢な下士官。それで、今まで国家や軍や社会に冷や飯を 食わされてきたことを、全部許すかのようだった。

 その隣には鏡のように磨かれたウォードレスを着こなした若宮。
最初筋肉を見せようとしたのだが、壬生屋に怒られたので、仕方なくこうした。
 その隣、ラフに制服を着こなし、表情を殺した来須。
彼は、命令だからとしか言わない。不機嫌のようだと周囲は思ったが、そうではないかもしれないと、部隊は楽観的に思うことにした。
それが無神経なのではなく、芝村とつきあうようなものだと、皆は考える。異質で理解できないが、戦争しなければならないほどでもない。 仲良くするために相手を理解する必要はないとまで、滝川と壬生屋は言った。

 狩谷は青と黒猫の旗で足を隠すように広げて持った。
彼が実戦に参加することはないだろう。だが、善行の部下たちは最初から最後まで狩谷を実戦部隊の一員として遇した。狩谷は感謝しながら、 心は深く沈む。
 その後ろには加藤。本来は整備士たちと共に撮影を見守るはずだったが、舞は撮影の中に入れろと要求した。
 加藤は顔を上げられない。狩谷が不機嫌で、周囲に反感を持たれたのではないかと思えば、気が気でなかったし、朝のことが申し訳なく、 それでまた、顔を上げられなかった。

 背には士魂号複座型突撃仕様。舞の命令にあわせてハンガーを降り、まるで一員のごとく後ろに立った。大きすぎて、すねまでしか写真には写らない。
 ののみの手には大猫が大事に抱かれている。金と黒の長毛種の猫で、赤いチュニックを着ている。髭には、ねじり、ポマード、念入りブラッシング。 お目めぱっちりになろうと目を全開で開けているが、少々無表情で怖くもある。

 ののみが顔を上げて、輝くように笑った。
「あー、白鳥さんだー!」

 全員が口をあけて一点を見た。善行はこれを逃さず撮影。
 一斉にストロボが発光する。レフ板を持たされているヨーコと原は、この道楽を逸脱する撮影機材を見て呆れていた。

 全員が見た天井の一角には、白鳥のコスプレをした岩田が空中ブランコを前にしていた。腕を延ばし、白いタイツを着て、白いフリフリ。回転。
 顔が引きつる部隊。だが岩田は本気だった。華麗に飛ぶ。

 別の意味でおーという部隊。その顔も撮影する善行。途中で飛んで回転して別のブランコに掴まる妙技。
 その手から万国旗が出現する。鳩も出た。紙吹雪、横断幕、たくさんのキャンディ。青と赤。

 原がやめんかー! と叫んでスパナを投げた。岩田回避。岩田回避。
善行が原の横顔を一枚撮影すると、今度は善行に目標を変えた。

「もっとマシなものを撮影しなさいよ!着替えて来るから!化粧だって」
「それでは面白くないでしょうが」
 善行は本気で飛んで来るドライバーの先を必死に避けた。
解散と叫んで逃げる善行。追う原。
「追え、隊長を助けろ」
「おお!」
 中村、若宮が言った。全員が歓声をあげる。

「こっちだって、あんな人達に負けるもんですか。整備班集合!」
 森は叫んだ。ヨーコさんが頬に手を当てながら言う。
「デモ、岩田サン、二組でス」
「あんなの一組と一緒です! 一緒につぶせー!」

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 坂上と本田は職員室で5121部隊が珍妙な格好で校庭を走り回っているのを見たが、互いに目配せして笑い合うと、これを追った。