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善行への追跡は続いている。
舞は善行を追う原の脅威度を見極めた後、適当に見計らうと、向きを変えて列を離れた。
それに続く速水。
「どうした?」
自分に続いて足を止めた速水を、舞は不思議そうに見た。
速水は顔を赤くして、疲れたんだと言った。
「そうか」
舞はそれ以上尋ねない。相手の言うことを疑わない。
迷惑がないかぎり、それはその者の自由だと、彼女はかつて速水に語ったことがある。
それを完全に実践しているのが、舞という人となりであった。
ののみが持たせたとおぼしきかわいいハンカチで、汗を拭う舞の横顔を見て、速水はこの人に好かれたらいいのになあと思い、
次にこの人には実質上の夫がいるんだと思った。
それでも好きでいるのは自由だろう。速水は思った。
自由とはすばらしい。まして彼女が好きなものならばなおさらだ。
速水が思考の迷宮から戻ると、舞の顔が至近にあった。
うわぁぁと声を出して下がる速水。ポニーテールを振り、舞は速水の顔を覗き込んでいた。
「どういうリアクションだ」
目を半眼にする舞。機嫌を損ねたのは明白だった。
「この場合の反応で一番正しいのは、ありがとうとか、熱があってとか、大丈夫とか、そういうのではないのか」
彼女の知識で、こういった症状で一番可能性が高いのは風邪だった。
少し走って目眩がしたのかもしれない。
「あ、ええと、その」
速水は一度取った距離を半分ほど戻して、言い訳を考えた。
「ごめん。ただその、びっくりして」
それは嘘ではない。ただ、封じ込めているあさましい考えが形をとったのではないかと、それが速水を恐れさせたのだった。
何を思ったのか、舞はそっぽを向いた。
「私の顔はそこまで怖くはないはずだぞ。あまりほめられたことはないが」
「そ、そうだね」
「なんだと!?」
舞は速水をにらんだ。一応、目つきは悪いかもしれぬと、気にはしていたのだった。
「ど、同意したのは、怖くないという方だよ」
「そうなのか」
「うん」
「ではなぜ間合いを取る」
「いや、その、あんまり近いのもなんだかなと」
「どういう理屈だ」
舞は謎が解けたような気がした。速水め、私をからかおうと思っているなと考える。
よかろう、私は誰の挑戦でも受ける。フフフ、はははは。
速水は今度こそ恐れて一歩下がった。
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皆が追いかけっこをはじめた後も、狩谷と加藤は整備テントに残っていた。
急に寂しくなったテントの中、所在なげに加藤と狩谷はいる。
「教室、もどろうか、なっちゃん」
ことさら明るく、加藤は言った。狩谷は几帳面に青と黒猫の旗、ハンニバル・キャットを畳みながら口を開く。
「僕はしばらくここにいる。加藤、お前はあいつらの後を追え」
「う、うち、あんなあほ騒ぎ、よういかんねん」
楽しそうだと一瞬でも思ったことを見透かされたのではないか、加藤はそう思って大振りで否定した。
狩谷はそっぽを向いた。
「付き合いさ。僕は付き合いが悪くても、この足だ、みんな納得する。でもお前が来ないなら、みんなお前を付き合いが悪いとののしるだろう」
「そんな人達やないよ」
「分かるもんか。とにかく、行って来るんだ」
狩谷は下を見た。加藤はこういう時、声をかけられない。
なっちゃんは、最近いつもうつむいている。そう思う加藤。でも、このまま離れずにいたら、なっちゃんはさらに怒るかもしれない。
加藤は、車椅子を押そうとする手を放した。
「……はい。じゃあ、行ってくる。すぐ戻るから……なっちゃん」
「戻る必要なんかない」
「なっちゃん……」
「なんでもかんでも介護が必要な訳じゃない。行け」
その姿を見下ろしているのは、空中ブランコに乗ったまま、フフフ、僕は修行が足りませんね? などと思っている岩田だったが、
下界の加藤と狩谷を見て、少しだけ哀れに思った。
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加藤が整備テントを出ると、そこには誰もおらず、遠くで歓声だか怒声だかが聞こえるだけだった。
声の方向へ歩きだす加藤。なっちゃんのところへ戻ろうかと思う。
行ったけど誰もいなかった、というのはどうだろう。実際、嘘というほどでもない。
怪我する前はいつも騒ぎの中心にいただけに、なっちゃんは寂しがるかもしれない。そう、もどろう。
加藤が振り返った瞬間、そこの角を曲がって善行が走って来た。その後ろからは、ドライバーを短刀のように持った、般若のような形相の原。
それを追う若宮。さらにそれを追う森。さらにさらに(以下略)中村、新井木、滝川、教師二人。
加藤はひぃと声を上げると逃げだした。向きを変えればいいところを真っすぐ走るので、善行達に追われているような形になる。
「うぉぉぉぉ!」
無言で必死の形相の善行を、原が追って来る。もはや二人ともしゃべれるほど余裕はない。もう駄目だと思う加藤。
その加藤のピンチを救ったのは、白鳥だった。
一枚の白い羽根が加藤の前を横切ったかと思うと、加藤の細腰を掴んで岩田が飛んでいた。漆黒のジャケットに、長い髪。ノーメイク。
足にはローラースケート。
三回転半飛んで回って着地。加藤を引き寄せて回る。
「な」
「フフフ、再会を喜ぶのはまだ早いですネ」
岩田は跳躍すると、変、身、と叫んだ。
見上げる加藤に、羽根を広げた白鳥の影が映る。
着地。白い翼を模したマント、ピエロのようなメイク、白鳥のコスプレ。股間からうつろな目のついた白鳥の首を生やした本格仕様である。
岩田が左右に腰を振るたびに、白鳥の首が左右に揺れる。
ぷっくぷー。ああ、あの情けない呼び出し音は。
岩田は白鳥の首を掴んで耳元に当てた。
「こちらワイルドスワン。クリサリスか?」
加藤を見る。
加藤は凍っている。首をかしげる岩田。会心のギャグだと思ったのだが。
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追跡は続く。
新井木はやる気無さそうに走っていたが、ついに走るのをやめて足を止めた。自分の意志で走るのならともかく、他人に付き合うなど、
ばかばかしくてやっていられない。
彼女の理屈では、こういうものは怒られない程度に付き合えばいいのだった。
それに、いい口実があった。岩田である。岩田は加藤に意識を集中しているようだった。
新井木は原にやられている岩田を見て、岩田は弱い、いじめても構わないと思っている。岩田をやっつけていたと言えば、頭の悪い森は納得するだろう。
新井木は角材を掴むと、岩田の背に寄った。
岩田は加藤に手を振りつつ、ギャグの組み立て方についてノートを広げて考え直しているようだった。
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殺気。足音1、身長150cm、武器は不明。段平か木刀。
後ろを取られた岩田は、無意識に人を殺すための最小動作をやってのけた。
ノートを読みながら、袖口に仕込んだメスを取り出すと、投げたのである。端から見れば振り向いたようにも見えない。
強靭な意志をもって自制しないその限り、訓練で叩き込まれた習性は、完璧なまでに岩田の体を動かした。
メスは新井木の鳩尾に刺さり、新井木はもう二度と深く息をすることもなく、膝を折って倒れた。
はずだった。
実際は、横合いから来須が腕を伸ばし、致命的なメスの一撃を我が腕で楯にして防いでいた。腕に突き立って震えるメス。
来須と岩田は視線を交わした。
「フフフ、すみませんね。気を使っていただいて」
「……もっと意識を強く持つことだ」
「そうしますよ」
手をひらひらさせて去る岩田。
その後ろ姿に声をかける来須。
「俺は青い薔薇の味方だ」
「私もです」
岩田は言った。
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来須は岩田を見送ると、メスを引き抜いた。
腕に力をいれ、筋肉の盛り上がりで出血を止める。素早くバンダナで腕を巻く。二日もすれば傷口は接合するだろう。無表情にそう考える。
帽子をかぶり直す来須。
不意に現れた来須にびっくりした新井木を見る。事態を何も分かってなさそうな、顔。
来須は軽くため息をついた。世の中の何も分かってはいない、典型的な馬鹿女の風であった。
来須は考える。裕は本気で殺そうと思っていたのではないかと。
そうかもしれない。そうでないかもしれない。どうでもいいことだった。もとより、自分にしてからが命の重みを勘定するようにはできていない。
来須は新井木の頭に手を置き、気にするなと意志表示しただけである。
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