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第19回後編
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猫は、手紙をくわえて走り続ける。
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承前。
一面の、屍であった。幻のように消えていく、屍の山。
赤すぎて沈みゆく巨大な太陽を見ながら、その呉服屋の息子は、ねじり鉢巻を取ると、目を伏せた。
もう髪には、白いものがまじっている。
「俺は、年だよ。もう、歳をとりすぎた。死というものを、悲しく感じすぎる」
隣にいた一羽のペンギンがよれよれの煙草に火をつける。祈るように、ライターを持って。
そして白い煙を吐き出した。
「やめるのか」
「……俺はお前達ほど長生きじゃない」
「そうだな。だが俺達ほど先立たれることもない……だがまあ、止めはせん。今まで、よくやった」
ペンギンはそれ以上、何も言わなかった。背を向けて歩き出す。
呉服屋の息子は、それはもう、何十年前のことだったろう……しわのういた両手で顔を覆って、泣き始めた。
昔、永遠に走り続けられると思っていた。いつまでもペンギンと喧嘩できると思っていた。
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一方その頃。
一本のシャーペンを持った女、凛子は、ペンをポケットに入れると、風に踊る長い黄金の髪をかきあげる。
前髪をたらす美少年、勝吏は戦闘の終わりをしめすかのように両の腕を顔の前で交差させ、目をつぶった。
凛子はペンギンと老人の別離を見下ろしながら、別のことを言った。
「あの娘、いいの? 私達のこと、勘違いしているかもしれないわ」
「口ではそうだ。だが心では違う。僕の事を信じている」
「ひどいノロケ。 でも、貴方のその自信過剰は、いつか取り返しのつかないことを呼ぶわよ」
「その時は死ぬまでだ。僕が正しくなければ、死ぬだけのこと」
鼻で笑う凛子。
「……生きる死ぬだけが、取り返しのつかないことじゃないわ」
そして疲れたように、また、歩き出す。丘を降り始める。
「帰るわよ。話は終わったみたい」
「僕もいつかは、ああなるのかな」
そうつぶやく勝吏に凛子は笑ってみせた。
「私も貴方も、その前に死ぬわよ。心配しなくても……戦況は、絶望的なんだから」
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それから。
故郷に帰った翌年。
呉服屋の息子は、小さな居酒屋をはじめることにした。
料理が趣味だったのだった。
立地条件が悪く、儲かることはなかったが、それでも、自分なりに一所懸命に働いた。
結婚もした。歳が遅すぎて子供は出来なかったが、だがそれを悲しいとは思わなかった。
生まれないのなら死ぬこともないのだから。
だが戦いから遠ざかったつもりでも、戦争のほうは、かつて愛した男を忘れていなかったようだった。まるで悪女の、深情けのように。
10年もしないうちに故郷にも、戦争の足音が近づいてきていたのである。
妻が、暖簾を出しながら目の前の通学路を不慣れな歩き方で行進する女学生を見て口を開く。
「前の学校ね、軍事組織に改変されるそうよ」
「ばっぁ。女子供を戦場におくるとかい?」
包丁を取り落としそうになり、呉服屋の息子をやめて居酒屋の親父になったその男は、顔をしかめた。
「ええ……もう、この国も長くないかもしれないわね……あんた!」
居酒屋の親父は、声をあげて泣いていた。
自分のせいだと思ったのだった。自分が戦いから逃げたから、そのツケを誰かが払っているのだと。
なぜそんなことも分らなかったのか、だから泣いたのだった。
逃げれば、この世から戦いがなくなるわけではない。
誰かがその分背負うことになる。青年が負わねば壮年が、壮年が負わねば老人が、老人が負わねば女が、女が負わねば子供達が、戦いを背負うことになる。
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逃げた数年は、取り返しがつかないほど居酒屋の親父を弱らせていた。
彼には、もう家族がいたのだった。
失うのが恐ろしく、悲しませるのが忍びなく、居酒屋の親父はその日の涙を心の隅に追いやった。
だが、追いやっても追いやっても、眠ればそれは立ち上がり、親父を糾弾する。
不死身といわれた昔の自分のように。それはあの頃の瞳をして親父を糾弾するのだった。
その度に一人外に出て、頭を抱えて号泣した。
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「何故戦わない。何故戦おうとしない。まだ指が動くなら、まだ眉が動かせるなら、何故誰かよりも傷つこうとしない。立て、立って鉢巻を巻け」
居酒屋の親父は、涙と一緒に、土くれをなめた昔を思い出す。
ペンギンは、俺が訓練でくじけそうになっても何も言わない。
ただ黙っているだけだ。いつも黙って、待っているだけだった。
黙っていれば、その耳に自分の心の声が聞こえはじめる。どんな屈辱よりも身を焦がす、己を糾弾する自分の声だった。その名を恥という。
老いても身をやつしても、それだけはあの時と同じように自分を苛める。
「何故戦わない。何故戦おうとしない。まだ指が動くなら、まだ眉が動かせるなら、何故誰かよりも傷つこうとしない。立て、立って鉢巻を巻け」
居酒屋の親父は涙を流した。涙だけは昔と同じく、温かかった。
駄目なんだよ。もう、駄目なんだ。
俺は、ハードボイルド、あんたじゃない。
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