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第27幕
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夜。
善行が歩くと、兵達は棒を飲んだような姿勢で気ヲ付ケした。
敬礼する。
善行は、答礼した。
それまで楽しそうに款談していた者も、黙って立ち上がって敬礼する。
戦いに勝つたびに、善行に話しかける者は減った。
善行は部下が野営する場所から一人出て、フラスコを取り出して酒を飲んだ。
部下には気を抜く時間が必要だ。善行はそう思っている。
多くは飲まない。飲んでは不測の事態に対応できない。
ここ最近で、体重は10kg近く減った。戦闘中には何も食べれなくなるのだった。
戦闘で命令するときなど、声が震えているのが部下に知られるのがいやで、手信号をもっぱらにしていた。
煙草を吸いたいが、煙草もない。補給物資はとぎれがちだった。
仕方がないので、ガムを噛んだ。おおよそガムほど、兵の暇つぶしにいいものはない。
今や、ガムは軍用にしか生産されていないものだった。
ガムを噛みながら、空を見上げれば、月が、でていた。
足元で、鈴が鳴った。下を見れば純白の仔猫だった。毛が長く、輝く真珠のよう。
「今日は、スキピオですか。相棒はどうしたんです?」
純白の仔猫はふさふさの尻尾を振った。善行の言葉を無視しているかどうなのか、微妙だった。
善行は、こけた頬を緩ませて笑った。
眼鏡をとって、スキピオの背に触る。スキピオはそれを嫌がって、跳躍して離れた。
つかず離れずの距離をとり、毛繕いをはじめる。
「貴方まで私を怖がらなくてもいいでしょう」
善行がそう言うと、低い男の声で、笑い声が聞こえた。
「恐がってはいない。触られるのを嫌っているだけだ」
善行は、振り向く。そしてあわてて眼鏡を掛けた。
月を背に、そこには少女が居た。低い男の声で語る少女だ。
少女は感情のない目で、善行を見た。
「眼鏡で表情を隠すのが好きだな」
「私にとっては、下着と同じなんですよ。つけなければ、恥ずかしい」
「私と僕も、そうか?」
「なんのことです?」
「わからないなら、いい。……毛の長い猫神族はそういうものだ、気にするな」
「やられたらやり返すのが僕の流儀です。今後僕は白猫を嫌いになります。猫はそもそも勝手なのが嫌いです」
少女は機械的な笑みを浮かべた。
「部下を意のままに使うのだけでは飽き足らないか?」
「好きでやっているわけじゃない!」
白猫はびっくりして善行を見上げた。善行は、眼鏡を指で押した。
「……すみません」
「気にするな」
善行は、長い時間を掛けた後、話題を変えようとした。
「貴方にはもう逢えないのではないかと思っていました」
「なぜだ?」
「わかりません。ただそう思いました」
「……まだ別れには時間がある。それに、そなたには権利がある。不思議の側の大河のほとりに立つ義務と権利が。そなたはその場所から、神話と現実と、両方を見ることになるだろう」
「神話……」
「伝説世界でもいい。この世には、果てがある。果てを超えたその先には、また新しい世界があるのが道理。猫を超えれば猫でなく。鉄を超えれば鉄でなく。人を超えれば、人でない世界が広がる。それが伝説、伝説世界。そなたは超えることはないが、その境目までは行くだろう」
少女は、月光に照らされるように指を広げた。
手は、だいぶ小さくなっていた。指は柔らかく、色は、まだ紅い。赤ん坊のような手だった。
「その手は?」
「作り直している。我々が共生するということは、本来そういうことだ。互いで互いの足りないものが、一つになることで補われる」
「……」
「私は宿主の心を補い、宿主は私の生命を補う。長い長い経験の力で、私は少しだけ、生命が本来持っている力を引き出すことが出来る。それは少しだけ美人になることだったり、少しだけ手が小さくなるような、そのようなことだ。心は心でしかないが、だが、それだけではないということだろう」
少女は機械的な笑みではなく、少しだけ嬉しそうに笑った。
善行の心が、ざわめく。
善行が何かを言う前に、少女は月を背に口を開いた。
「なげくな。善行。そなたは兵に尊敬されているのだ」
「尊敬?」
「部下は良く知っている。そなたが最善をつくそうと努力していることを。部下は思っている。そなたの言葉だけが頼りだと。そなたが正義を語れば、多くが従う。兵は、力のないものは、寝食を忘れて損害を減らそうと黙って考える、やせ衰えていくそなたの上にこそ黄金の翼が広がっていると信じている」
「僕は臆病なだけだ」
「だが逃げてはいまい」
「僕は、鬼善行と呼ばれている」
「心優しい鬼もいる」
「僕は、僕は……」
善行の表情を見ながら、少女は口を開いた。
「運命に逆らうな。逆らうのはただ一度。それでいい。そなたは兵の英雄だ……喩え偽りでも。それを受け入れるがいい」
「……ひどい話だ。僕は英雄なんかにはなりたくない。命令されてやった殺しの量が多いだけじゃないか」
「一生とはそういうことだ。生命は一生を掛けて力を貯え、ただ一度の反逆を試みる。自分が今まで生きてきた過去への反逆だ」
少女は、二つの月を見上げた。月に祈るようにも、挑むようにも見えた。
善行は声を掛けた。
「……そうやって生命が、過去を否定してどうなるんです」
「新しい何かに繋がろうとするのだ。おろか者よ。兵が、そなたを通して未来に繋がろうとしていることを、何故分からない。兵は、仮に自分達が死んでも、そなたが生き残り、勝つことで自分達は反逆に成功したのだと思おうとしている。……過去にも居たよ。兵達の祈りを一身に集める者が。悪魔達と互角以上の戦いを演じることが出来る、戦場でだけ優しく笑う男が居た」
「その人も、とんだ変態ですね。……僕と、どっちが変態でしょうかね」
「笑うしかなかったのだ。そなたが自己を嘆き、戦争を呪うように。……この世に英雄も変人も居ない。そうであるしかなかったただの人間がいるだけだ」
少女は、女のように涙を流す善行の頬に手をあてた。
「兵は、そなたこそが夜明けを呼ぶと信じているのだ。そなたが体重を1g落とすたびに、自分達の命は救われていると信じている兵を、その眼差しを、その態度を見間違えるな」
「……非科学的ですよ。とんだ迷信で、勘違いです。……迷惑だ」
泣くようにつぶやく善行に、少女はやさしく首をかしげた。
「では、告白するか。ただ、気が小さいだけだと」
「言えるわけないじゃないですか。士気が下がったら、勝率が下がる。勝率が下がれば、僕の部下が死ぬ。民衆が死ぬ。それだけはだめだ。それだけは」
「では、人に夢を見させねばならんな。今まで通り」
少女は手を離すと、背を向けた。
言いたいことはすべて言ったようだった。仔猫を置いて、妖精のように月に向かって歩き出す。
善行は、口を開いた。
「貴方は、会津の回し者ですか、それとも芝村の?」
「今は、どちらでもない。……今まさに、我は我の運命に反逆しているさなかだ。誰の指図も受けるつもりはない。我は我の心のみを頼りに動くだろう」
「僕は?」
「自分で決めろ……いまだ運命に怒り、運命に背くのなら、いつか言ったときのように、英雄の介添え人となるのもいい」
善行の脳裏に、遠い日本の公園で虚空を見る少女の姿が浮かんだ。青い花も。
「英雄の介添え人……ああ、他世界から来ると言う、この世界の運命から自由な人間を手伝えば、運命を変えられるかもしれないと、そう言っていましたね」
「人間か、どうかは知らぬよ。あとは自分で選べ」
月が雲に隠れると、少女の姿もまた、消えた。
善行は一人残される。
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