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速水は、舞の行く手を阻むように前に出た。
 つまらないことで、この人の立場を悪くしたくはないと考える。
俺は、いや僕はこの人の腰巾着なのだと思った。

「芝村……」
「なぜ止めた」

「分かるだろ、戦争なんだ。ああ教える必要があるんだよ」
「あれが最善か?」
「……あの人にとっては、そうだ。誰も彼もが、芝村じゃない」

舞は、目を細めた。速水はその視線を受け止め返した。

「……私は、怒る気持ちも分かります」
「壬生屋」
「芝村でなくても、怒ります。あれはやりすぎです! 公務員のくせに何様のつもりでしょうか!?」

 舞を冷静に、そして騒ぐ壬生屋をうんざりするように見ていた瀬戸口は、ののみの頭に手を置いた。笑ってみせる。
「よかったな。みんな心配してるじゃないか……あれ?」

 ののみは、舞を見ている。
いつも誰かのために怒っていて、戦おうとしている姿だ。



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目をつぶったブータは、女の歌声を聞いたような気がした。

(それはすべてをなくしたときにうまれでる。それは無より生じるどこにでもある贈り物)

 ブータは、顔をあげた。七度七度生まれ変わろうと、決して忘れえぬ旋律だった。
それは誰かの心の声だった。

(それはすべてをなくしたときにうまれでる。それは無より生じるどこにでもある贈り物)
 そこから先の詞を知らないのか、同じ部分ばかりが繰り返し歌われていた。

ブータは、無意識に心の中で詩を引き継ぐ。

(それはすべてをなくしたときにうまれでる。それは無より生じるどこにでもある贈り物。それは悲しみを終らせる為に抜かれた刃。 偉大なる魔法の女王が残した最後の絶技。世界のどこにあろうとも、かならずさしのばされるただの幻想。失われそうになれば舞い戻り、 忘れそうになれば蘇る、最弱にして最強の、ただ一つの聖なる力)

それはブータが好きだった希代の女詐欺師の言葉であった。
 どんな境遇でも一生嘘をつきつづけてきた女の言葉。

 大猫は、咳き込みながら教室の窓から顔を出した。教室の中を見ようと、後ろ足で立って背伸びしている。
 小さな女の子が気弱そうに、それでも勇気をふりしぼろうとしていた。

自分の前まで歩いてきた少女を、腕を組んだポニーテールの娘は、冷静に見下ろした。
「なぜ、こんな処にきた」

ポニーテールは、素直そうには見えなかった。
 あれは巨人の世話をしていた女だ。ブータは思った。

「うんとぉ、えっとお。……えへへ、きちゃった」
 ののみは笑うと、舞を見上げて、怒られはしないかと舞の表情を見た。
舞はしばらく考えた後、静かに言った。

「それがそなたの選択なら、私が何を言うものでもない」
「うんっ」

 ののみは嬉しそうに笑った。そして、舞に抱きついた。

「ののみはね、おもうのよ。ののみのしあわせは、ここにあるんだ」
「……そうであるといいな」

 他人がきけば冷淡に、文字で書けば他人事のような言葉。
だが、照れているな。ブータはそう思った。

舞は、ののみと速水だけには分かる笑顔で、そうであるといいなと言っていた。

大猫は丸い瞳にののみと舞を映した。

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 大猫と共に舞の腰下に抱き付いているののみを見た後、速水は舞の顔を見た。
舞は冷静だった。
「知り合いなの?」
「そうだな」

「どういう知り合い?」
「うんとね、えっとね、えへへ、おんじーんなのよ、たいせつなひとなの」
「速水、そなたと同じだ。我らには味方と、いずれ味方になる者しかない」

 それは僕が芝村に抱き付いていいと言うことかなと速水は思ったが、言うと命が危なくなりそうなので、何も言わなかった。 もっと舞を知りたいと思う。一方口を開いて言った言葉は別の言葉だった。

「じゃあ、僕の友達でもあるね。よろしく。僕、速水厚志」
「うん」

ののみの笑顔に、速水も思わずつられて笑った。

「いくつ?」
「えっとね、これだけ」

 ののみが両手の指で示すと、速水は今度は作ったにっこり笑いを見せた。

「そうなんだ」

 後ろから話の輪の中に入るタイミングを計ろうと覗いていた壬生屋が、突然騒いだ。
「そうかじゃありません! なんでそんな子がこんな処にいるんですか!?」
「僕達だって、子供だよ」
「そういう問題じゃありません! これはその、ええと、十代半ばとまだ十代でないのには選挙権以外で……」

 壬生屋の豊かな黒髪が驚きで広がったように見えた。後ろから抱きつかれたのだった。
「まあまあ、怒らない怒らない」

瀬戸口は、壬生屋を拘束したまま、ののみに笑いかけた。

「世の中、いろいろあるのさ。な」
「うんっ、いいことがたくさんあるのよ」

 ののみは嬉しそうに笑った。

「そーか。いいことがある、か。それはいいな。俺もいいことがありそうだ」
真っ赤になって暴れる壬生屋を平然と捨てて、瀬戸口はしゃがみこんでののみと同じ視線になった。

「俺の名前は瀬戸口隆之っていうんだ」
「えっとね、タカちゃんってよんでいいですか」
「君のタカちゃんだ」

 瀬戸口はなんとも人好きのする笑顔で笑って、じっと待った。
ののみは首をかしげた後、何かを思い出して頭を大振りに下げた。

「えっとね、東原、ののみです」

 瀬戸口は破顔すると、立ち上がって速水と舞にウインクしてみせた。

「挨拶は重要だろ?」

 舞は、表情を変えずに平然と口を開いた。
「芝村に挨拶はない」
「あーえーと、ごめん。瀬戸口くん、この娘は悪い人じゃないんだけど、時々時と場所と人を激しく間違えることがあってね。 僕の名前、速水厚志というんだけど」
「その間違える娘とは誰のことだ」
「痛いよ…、舞」

 耳をつねられた速水の顔を見て、瀬戸口は笑った。

「ははは、いやいや、芝村のことは、話できいて知っているよ。女性がいるとははじめて聞いたが。俺はつぶれたトカゲ顔の方しか知らなくてね」

舞は静かに言った。
「いいたとえだ」