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一方その頃。

いつもの猫の方は、屋根の上にいた。

 一匹の中型幻獣と向き合い、今まさに戦おうとしている。
中型とは言え、その大きさは10mを軽く越えている。節目節目に紅い目を持った、長蟲のような幻獣だった。

 ブータは、もはや数えるほどになった猫神族を率いて夜を守っていた。
屋根の上に巣くう、長蟲のような幻獣の紅い目が、その様を嘲笑うように揺れる。

 青い青い目を敢然と向けたブータは、牙を見せてうなると、首を振って喉の鈴を鳴らした。
 澄んだその音は星のようであり、闇をも遠ざける誇りであった。




 ブータは叫んだ。その怒りは光のようだった。
ブータめがけ、長蟲がいくつもの瞳から真っ赤な光を射出する。屋根瓦が、次々と蒸発した。

 吹き上がる煙。

 煙の中からブータが現われる。肩口から血を流しながら、まっすぐ長蟲に向かって駆けた。
そして飛んだ。あらゆる物を裂く長い爪で、目を潰し、その喉元に食らいつく。
 部下の猫神族が続々と目を潰し、長蟲に食らいついた。一匹に鈴なりになって食らう猫神達。

嫌がってうごめく長蟲の肉を裂き、血を浴びながらさらに食らいつく。

 今宵もまた、血で血を洗う饗宴がはじまる。




なんとぶざまな戦い方だ。
 ブータは次の獲物を探して丸い目を動かしながら思った。
この背に小神族がいれば、右手に兎神族や猿神族がいればと思う。

人はこんなにいるのに、不思議の側の大河のこちら側に人神族が居ないのも寂しかった。
 あしきゆめが昼にも闊歩する中、このままよきゆめはおしつぶされてしまうのか。
あしきゆめをゆめの中だけに閉じ込める、あの醜い舞踏達はどこにいったのだ。夜が暗ければ暗いほど、燦然と輝く星々は。

ブータは走り始めた。新しい敵の姿を見つけたのだった。
 そして、それまで考えていたことを捨てた。

全てを忘れて戦うその間だけ、ブータの心は安らぐのだった。




 ブータは瞳をうるませる。

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うるんだ瞳を閉じると、瀬戸口は教室の窓を閉じた。
 遠くに聞こえていた忌々しい鈴の音も消え、静寂のとばりだけが身を包む。




 瀬戸口は一人真っ暗な教室にいた。今日はここが寝床だった。
机と机の合間を箒で掃いて、毛布に包まって寝る。毛布は、女の匂いがした。

 本田教官も女なのだな。埒もないことを考える。

 すぐ眠くなる。不幸でない気分。全てを忘れて眠るその間だけ、瀬戸口の心は安らぐのだった。

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瀬戸口は、夢の中でシオネに逢った。
 それが夢だということを知っていたが、瀬戸口は、シオネを抱きしめた。

長い黒髪も抱きしめるように、瀬戸口は毛布を抱きしめる。

知らない間に涙が出ていた。それが夢だと分かるから。

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翌日。

 誰よりもはやく学校に出てきた制服姿の壬生屋は、階段をかけあがり、教室に入った。
このプレハブ校舎には更衣室も何もないから、教室で着替えるしかないと思っていたのである。

 胸のリボンを取り、上着を脱ぎ、ブラウスのボタンを外していく。

これで無礼者さんたちの驚く顔を見れると、そう思った。
ああ、でも、昨日速水くんは私の格好について何も言わなかったな。そういう事も考える。
でも、昨日はああいう状況だったし、それにそう、あの無礼者は普通だから驚くに違いない。

物音。

 壬生屋の毛が逆立った。いまし方脱いだブラウスを胸元に引き寄せて、振り返る。

紫色の瞳と視線があった。

 寝ぼけた髪をした瀬戸口だった。なぜか机と机の間から顔を出している。

壬生屋の動きが凍る。

 瀬戸口は夢から我に返ると、まず堅く目をつぶった。
次に背を向けた。手にはさっきまでかぶっていた毛布を持って居る。

壬生屋は、顔を真っ赤にした。正確には肩のあたりまでほんのり紅くなった。

「な、なんで貴方がそんなところに」
「寝るところがなかった」

瀬戸口はすまないという感じで言った。
言葉をつけたす。

「すぐ出て行きたいが、出口はそっち側だ」
「まってください」

壬生屋はブラウスを着直した。ボタンをつける。途中で二回失敗した。
手が震えていると思った。

「……あの、いいです」
「すまない」

 瀬戸口は堅く目をつぶったまま立ち上がった。
机に脚をぶつけながら、教室を出て行く。後ろ手で教室のドアを閉めた。

瀬戸口は、ドアの先に立ったまま、じっとしている。

壬生屋は急いで着替え始めた。
 ブラをとるかどうか考えたが、結局つけたまま胴衣を着る。靴下を足袋に履き替えて、 壬生屋は髪を母から貰った髪留めでとめた。

几帳面に制服を畳み、ドアの前で深呼吸する。

「あの、もういいですよ」
 ドア越しに壬生屋がそう言うと、ドア向うの瀬戸口は、一、二度、咳払いした。
瀬戸口は動かないまま、声をあげる。
「すまん。お嬢さんは、俺の目を潰してもいい」
「だ、だれがそんなことしますか」

「君にはそういう権利がある」
「……今回は、お互い様です。その……事故ですから」
「すまん」

 普段のちゃらちゃらした態度とまったく違う、びっくりするぐらい謹厳な瀬戸口の態度に、壬生屋は面食らった。
 そして私服を見せつけてやろうなどと思っていた自分を恥じた。

壬生屋はもう一度自分の服装をチェックすると、少しドアを開けた。
瀬戸口の背が見えた。
 思ったより大きい背中だと思った後、ドアを開けた。

「振り向いて、ください」
 瀬戸口は素直に振り向いた。

 壬生屋の格好を見た瞬間、なにか言いたそうに瞳が揺れたが、強靭な精神力でそれを押え込んだようだった。
 手に毛布をもったまま、何も言わずに立っている。
壬生屋は、瀬戸口を上目がちに見て口を開いた。

「怒ってませんから」
「今度から別の場所で寝るよ」
「お家でケンカかなにか、なされたんですか」
「……一人きりの家に帰るのは趣味じゃないんだ」
「教室も一人きりですよ」
「でもぎりぎりまで誰かと一緒にいれる」

 瀬戸口は黙って立っていた。
壬生屋は色々考えた。わたくし、未熟かもしれませんと考える。
 こういう時なんと言えばいいのか、思い付かない。でも、きっとこことで私が何か喋らない限り、 ずっと彼は立ったまま、待っているだろうと思った。

「あの」
「なんだろう」
「言いたいことが、あれば、はっきり言ってもいいのですよ?」




黙ったままの瀬戸口に、ついに壬生屋は声をうわずらせて言った。
「その、笑いたいなら、笑えばいいじゃないですか」
「……いや、似合うと思った」

 壬生屋の頬が紅くなった。昨日は、ほらっ、と自慢するつもりだったが、今は素直に喜びたい気分。 が、ここで喜んだらはしたないと思う。

 瀬戸口はどう考えたのか、視線をそらした。

「俺、朝飯買ってくる。おごるよ、何かいらないか?」
「朝食は食べてきましたので、結構です」
「分かった。……俺の目を潰したいときは、いつでも来てくれ」
「だからお互い様ですっ」

 瀬戸口は、背を向けて階段を降りた。
振り返って、壬生屋を見あげる。見られているのに気付いて胸元を気にする壬生屋。
瀬戸口は、少し歯を見せて笑うと、今度こそ背を向けて走っていった。

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 壬生屋は、瀬戸口のおこられたばっかりで笑うに笑えない歯切れの悪い笑顔を見た瞬間、 何か頼んでおけばよかったと思った。
 けちな考えではない。もし頼んでいたら、もう少し瀬戸口と話せたかもしれないと考えたのである。

 やはりけちな考えだ。 壬生屋は己の未熟さを恥じた後、それを追い出すようにまず教室を掃除しようと思った。

カーテンを開き、窓を開けて、風を入れる。
3月の風は、まだすこし肌寒かった。だが今は、それぐらいが丁度良かった。




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 瀬戸口の方は走りながら、罵った。
「一体全体、どこをどうやればああいう所で着替えるんだ? 完全に俺が悪いじゃないか」
 言っている内容は内心の動揺を現すように、目茶苦茶である。
だれを罵っているのか分からない。

溯れば、見た夢が悪かった。
もっと溯れば、そもそもうるさい鈴の音だ。あれが安眠を邪魔したに違いない。
さらにその時猫に会った。あれが一番悪かった。

 そのせいで、絶対見間違えるはずのない顔を、一瞬だけ、ほんとうに一瞬だけ見間違えた。 それもよりによってなんだか良くわからない格好で性格の悪そうな娘と間違えるとは。

くやしさに歯をくいしばった瀬戸口は、毛布を引きずって走って居ることに気付いた。
 本田の私物である毛布はぼろぼろだった。

今日は最悪だと思う瀬戸口。