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 厚い雲が、出始めていた。太陽が隠れ、それと共に人が常識と信じ込んでいるものが急速に力を失い始める。

 歩く人の姿が揺らぎ、赤い瞳がいくつも瞬く。体中に瞳が生まれたようだった。
それが、幻としての新しい形を持ち、植え込みを透かしながら歩を進める頃には既にその幻には質量が付与されていた。 植え込みがひしゃげ、踏み潰される。

 六本脚のうちの四本脚で動き、前二脚を手のようにして進む中型幻獣が出現する。
その身体は甲虫のような装甲に覆われ、動くたびにこすれながら異様な音を立てた。

瞳が輝く。
 直後に瞳から走る赤い光の線。照射された場所が赤く輝く。
瞳が焦点を合わせればその場所には煙が上がり、融解がはじまる。

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 幻獣は逃げ惑う人々を背中から狙い撃ちしはじめた。
焼き殺され、火だるまになって人が転げまわる。

 檻の中の動物達が一斉に吠え始める。興奮の声、威嚇の声、歓迎の声、悲鳴。

その中には怒りの声をあげる瞳の青い動物達もいた。

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夢、幻のように現れた幻獣の姿を見て、坂上が冷静に声をあげた。
「六脚属光砲科。識別名。ケンタウロス。ドールです」

本田は生徒を避難させながら、紫色の唇を噛んだ。紫色の口紅が流れる。

「古い奴を……」
「その古い奴に勝てる奴はいませんよ。旧式幻獣をテロに使用しているというのは、北米戦線だけではないようですね」
「冷静に論評してる場合か!?」
「焦っても駄目だと生徒に教えておいて、焦るわけにもいかないでしょう」

 坂上はそう言うと、サングラスの下の目を動かした。善行が走ってくる。

「分断されました。速水くん達は、閉じ込められましたね」

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 滝川は、突如現れた幻獣ケンタウロスの小山のような姿に圧倒された。
遠目に見上げながら耳を塞ぎたくなるような甲殻の擦れる異様な音に恐怖する。

「な、なんだよあれ。なんだよ」
「幻獣だな。お前さんが来るって言ってた奴だろ?」

 瀬戸口は滝川の襟を掴むようにして士魂号の傍に寄った。
頭を掻いて、自分の行動のまずさを自分で冷笑しながら、脛の装甲板に寄りかかるようにして口を開いた。

「はあい? 俺の声はマイクに入っているかい? 君達のお耳の恋人だ」

 士魂号の股間の位置にある近距離スピーカーから声が出た。女の声。舞だった。さぞかし仏頂面のことだろう。
「聞こえている」
「敵が出たみたいだな」
「……そのようだ」

 瀬戸口は一拍の間を置いて、壬生屋とののみのことを思った。
「ああ、そう。その機体の調子悪いのだけどな。たぶんウォードレスコードの端子部分だと思うぜ、たぶん」

 コクピットの中で、舞は己の膝を叩いた。なんたる不覚。教師が管理しているウォードレスのチェックが おろそかだったことに気づく。

 瀬戸口は皮肉たっぷりに微笑んで、明るい声をだした。
「たぶん端子部分に寄生しているバイオチップを引き剥がせば直るんじゃないかな」

 舞は即座に首筋に手を廻した。それを引きちぎりながら歯を食いしばり、怒りを抑える。
「……親切なことだ」
「何、非常時でね。ついでに俺は常識人なんだ」
 言外にこういう時に争っても仕方がないぞと瀬戸口は言って、それでも踏み潰されないように、 もう少し策を弄することにした。

「ああ、それと、俺の隣には滝川がいる。な?」
「そうだ! 委員長が敵が来るって! 急いで入り口に行けって」
 瀬戸口は笑った。
「聞いたか?」
「聞こえている」
「……そりゃよかった。で、どうする?」
「この機体は目立つ。そなた達は、左右を行け。目立たぬ場所もある」
「そっちは、機体は捨てないのかい? 捨てれば脱出はできると思うぜ」
「そういう命令は受けていない」
「そうか。……まあ、そっちが被害が少ないかもしれないな。じゃあ、俺達は行くよ。ほら、滝川、行こうか、 震えるのは家に帰ってからだ」
「だだだだ誰が」

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 一方その頃、善行は軽自動車のドアに手をかけたところだった。
 人々の悲鳴が聞こえた瞬間、善行は拳を握り締めた。
遅かった、またか、また僕の判断は遅かったというのか。正確ではなかったと言うのか。

「いいんちょ?」
「委員長」
 眼鏡を押す善行に声を掛ける者達がいた。善行は顔をあげる。

「壬生屋さんと東原さん。……若宮!」
「申し訳ありません。忠孝様。なんというか、先に逃げるのは危険な感じがしまして」
「危険……ですか」
「中に、歩き方が訓練されている者がいるのではないかと思いました。処罰はどのようにもお受けします」

 片腕の若宮は、深々と頭を下げた。
善行は何を命じなくても若宮は自分を罰するだろうと思いながら口を開く。

「……いや、良く判断しました。同じような懸念から、本田先生には白熊の檻の前に集合と伝えています」
「いいんちょ……」
「大丈夫です。無事に家まで帰してあげますよ」
 ののみは大きな猫を抱きしめながら首を振った。リボンが揺れる。ののみは善行を見上げた。彼女は一番背が低いから、 何を見るにしても上を見なければならないのだった。

「いいんちょにおねがいです。ほかのひとたちもたすけてください。どーぶつさんたちもたすけてください。 おねがいします」

 善行はそんなことができるんだったらやっていると激怒しようとして、息を吐いてそれを自制した。
 涙目になるののみの頭に手を置く。

「いつもやるだけはやっていますよ。いつも満足したことはありませんけどね」

 自分が最善を選ぶように、無力なののみの最善は善行に頼むことだったのだと、善行は思ったのだった。 怒られることは覚悟で言ったのかもしれない。それでも最善を選んだのだろう。まったく誰も彼も、痛みを避けようとするのに 痛みからは逃れられないものだ。

「若宮。他のメンバーは」
「今、教官2名が見えました。走ってきます……あの顔腫らした二人も生徒でしょうな」
「……中村はともかく、あとは士魂号の二人だけか……どうしました?」
「ご立派です」

 若宮は、善行に顔を寄せると尻尾を振る大きな犬のような表情で言った。顔を離す。
善行は自分の指揮ぶりではなく、ののみに対しての態度を誉められたのだと考える。

「貴方に教えられたんですよ」

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 瀬戸口との通話が終って静かになった士魂号のコクピットの中では、速水は自己嫌悪に陥っていた。

「……ごめん。その、僕が気を逸らしていたせいで、こけそうになって……ごめん」
「私が未熟だっただけだ」
「ごめん」
「謝る必要はない」

 速水は、自分はまるで頼みにされていないのではないかと、思った。
心が苦しくなる。

 一方舞は考えを完全に切替えていた。己の未熟さを恥じて後で訓練するのはいいとして、 今は幻獣をどうにかしなければならないはずであった。切換えの速さこそが戦いを制すると徹底して教育を受けていた。

「ごめん」
「速水、演習用データによると敵はケンタウロス。旧式の中型幻獣だ」
「ケンタウロス……授業では習ったことないよ」
「だろうな。1945年が初出だ。当時傑作と言われた存在だが、相当の古株だ」

 舞は捜索レーダーと火器管制レーダーを切替えながら、不評で名高い位置に配置されているペリスコープを覗き込んだ。 身をひねって使う必要があるため、普段はまったくと言っていいほど使われないものである。初期型の早い段階から 撤去されたものだったが、もっとも初期に生産されたこの練習機には、残っていた。

ペリスコープを覗きながら、舞の目が細くなる。

 速水は、自分の気持ちをコントロールできずに、饒舌になっていた。少しでも頭のいいところを見せようと考える。
「……それでも火器のない戦車に勝てるかな。そもそもこれが戦車かどうかもあるか……」

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 落ちているサツマイモを集め、頬ぼったニホンザルは、檻に張りつく仲間を見た。

「そろそろ我々も行くか……どうした?」
「絶望の悲しみの声をあげる巨人が、黙った」
「なんだと」
「黙った。何がおきた?」
「瞳だ。瞳を見ろ。目を見ればどちらについたか分かる」
「駄目だ、兜をかぶっている」
 士魂号の頭部を見上げながら、ニホンザルは口々に言った。檻に手をかけ、キーと言った。

「サトリケが払われた。神格があがるぞ!」

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ペンギンは煮干しをくわえようとして、手羽を休めた。
 下を向く。

「誰かが怒っているな。ああ、怒りの匂いだ。純粋で誇り高い、久しぶりのいい匂いだ」

ペンギンは目をつぶった。
「奴が帰ってきたのか。いや、それも違うな」


遠い場所で、兎はぼそぼそと言葉を続けた。

「……このどことなく悲しい怒りには覚えがある。……人神族だ。人神族にも生き残りがいたのだな。 いや、まだ神には程遠いか。……この匂いは、稲羽の気多の前で我々素兎を助けたあの男と同じ匂いだ。 そうか、そうか……」

伝説では泣いたために赤い目になったという兎は、瞳を青くして天を仰いだ。

「あの老猫が来たということは、そうだったのか」

 壬生屋につかまり、隣の檻に入れられた山羊が言葉を続けた。子供たちとの交流コーナーで、 兎と共に生きてきた山羊だった。

「猫でありながら狛犬だってやってのける猫だ。人神族を造るくらい、やるかもしれん」

別の山羊が檻に角をぶつけながら口を開いた。

「客人神は違うのだな。滅びの美がない。……なんと醜い姿、なんと醜い神よ。そしてなんと気高く強い」