/*/

 一方その頃。教室外の廊下。

 岩田が目を醒ますと、首筋を引っ張られていた。
坂上は岩田の首筋を掴まえて、引きずりながら歩いている。足首を引きずって歩いていたのでは、 歩き難いと思っていたようであった。

 岩田は、首が絞まる感覚を甘美に思いながら虚空を見上げる。

「フフフ、僕のギャグはどうです!? 最高だったでしょウ!」
「それについては論評ができません。それよりも、狩谷君はどこにやったんです?」
「車椅子が壊れているから、家から出れないんじゃないですか。フフフ。ああ! 不良に絡まれているかもしれません!」
「……ひどい人だ」
「面白ければなんだっていいんですよ。なんなら世界が滅んでも構わない」
 岩田はその瞳に巨大な虚無を映して、そう言った。

不意に笑い出す。

「ああ、そうだ。大家令として末姫様にご挨拶しなければなりませんネ?」

/*/

 猫の目のように、一方その頃。

 高級そうな屋敷の中。

 瀬戸口は赤みがかかったすみれ色の瞳を輝かせると、大袈裟な身振りでベッドに眠っている少女の傍らに膝をついた。

「化学物質過敏症なんです」
「へえ」

 遠坂と呼ばれる総髪の少年は、瀬戸口が少女の頬に触れるのをつらそうに見た。

「……このままでは、ずっとこの部屋から出れないんです。一生、ずっと」
「気持ちは分かるよ。……幻獣共生派のほとんどが、重病人か、重病人を抱えた家族だ」
「え? では、あなたは、共生派なのですか?」
「いや、逆だ。俺は、芝村の手先」

一瞬だけ喜んだ遠坂は、蒼白になった。
 軍閥の芝村と言えば、共生派は誰もが怖れる憲兵の元締めである。

 遠坂の表情変化を楽しむように瀬戸口は眺めて、心のどこかで、悲しげな瞳の壬生屋を想った。考えを振り払う。 なんであの馬鹿を思いだすのか。そうか、目の前の奴も馬鹿だもんな。瀬戸口はそう思った。

 幻獣共生派は人の弱みに付け込んで自分達の武器にする。その上で同族同士、争わせる。
馬鹿な話だ。馬鹿な現実だ。まったく救いがない。

「ビラ配りに、地下集会での詩の朗読。ああ、重罪だな。10回死んでもお釣が来る。重罪でなくたって、分かるだろ?  憲兵は重罪人を作るのが大好きだ」
「……そんな……」
「ははは。まあ、あんまり心配することはない。主に痛めつけられるのはお前さんの家族だ。幻獣共生派には、 それが一番きくからな……なんてね」

 瀬戸口は脚本を朗読するように言った。実際、大家令の書いた脚本通りにしゃべっていた。
「だが、少し協力すれば、お前さんと、お前さんの家族は助かる。なあに、お仲間に連絡して、一個所襲ってほしいんだ。 悪い話じゃない。お前さんのところに知らないセルから指令が来た。お前さんはそれを伝える。以上、終りだ」

「……どうやって、どうやって僕を知ったんですか……」
「いやね、別の裏切りを調べるために網を張ってたのさ。動物園で。……肉親の情は、いつだって人の冷静な判断を 狂わせるからな。まさかその網に、幻獣共生派も引っかかるとは、思ってなかったがね。それでパチリ、パチリ」

 瀬戸口は、懐から写真を遠坂に渡した。指名手配の幻獣共生派活動家と共に親しげに話している遠坂の姿を映している。 おそらくは写真を元に、全部の活動家が調べられたのだろう。
 瀬戸口は、軽く歌うように言った。

「あー、もう駄目だな。お前さんの人生」

/*/

 時は飛んで場所も飛ぶ。
 今度は整備テントである。
テントの外で原は一度深呼吸すると、にっこり笑ってテントに入ることにした。

「ただいまー」
「あ、先輩。どうでしたか、隊長は」
「最悪。すね毛でてたわ」
「うわっ、ホントですか!」
「そうよ。新井木さん。今度見てみることね」
「変態なんですね」
「それは言いすぎ」
 自分が善行の悪口を言うのはいいが、他人が言うと腹が立つ原は、そう言って新井木をたしなめた。
 女性ばかりの部下を見る。

「さ、それでは展開と整備をはじめましょうか。しばらくすれば、パイロット達も来るわよ。たぶん」
「パイロットって、先輩が連れていった子ですか?」
「ええ」
 女性ばかりの整備士は、俄然もりあがった。
「小さいですよね」
「男、ハートでス。サイズないでス」
「というか、ハンサムがいいー」

 笑う原。口を開く。
「ここでも楽しくやっていけそうじゃない。田辺さんがいないのが残念だわ」
「役立たずが増えても、意味、ないと思いますけど」
「あら、だからかわいいのよ。そう言えば、その田辺さんのかわりに来た、岩田君はどうなの?」
「行方不明でース」
「……あらら」

 原はどうしてやろうかと思ったが、とりあえず問題を放置した。
あのくねくねは、最初からあてにしていない。役立たずを役立たずと交換しても影響はないと割り切っていた。
 それよりも、使える人間の士気を上げたほうがいいと考える。
「ねえ、それよりあのパイロット、速水くん。どう? かわいいって思わない?」
「うかつな人なだけだと思いますけど」
「そう? 貴方にぴったりだと思うんだけど。今度、告白してみたら?」
 森は、顔を真っ赤にして原を見た。
「な、なったらこと!」
「ホントにそう思うのよねえ。貴方、はっきり言って奥手なんだし、そのうえ人より上じゃないと安心できないんだから。 そうなると弟みたいなのがいいんじゃないかなぁって」

 森はそうかもしれないと一瞬考えたが、恥ずかしさがそれを上回った。
オレンジのバンダナを取って目から下を隠した。
深呼吸して、標準語標準語と考える。

「絶対違います」
「今の間は何よ、今の間は。結構そうかもって思ったくせに」
「違う!」

/*/

 ブータは、うるさくなってきたなと、古い巨人を見ながら思った。
巨人は何も答えなかったが、ブータは口の端を笑わせた。

ブータが鎮座する弾倉の下では、なんとか話題を変えようと、森が原に話し掛けていた。
「そう言えば先輩は、表の看板、見ましたか? 正義最後の砦、ですって」
「うわ、ダサー」
 反応したのは、森ではなくその隣の小柄な少女、新井木であった。

 いや、いいものは永遠にいい。毛繕いしながら、ブータはそう考える。
地上に王道はただ一つ。それが永遠の平凡、すなわちスタンダードだ。

「テントだし、猫も住みついているし、もう最低。なにここ、地の果て?」

 砦を護っているのだと、ブータは思った。そしてあくびをした。
猫神族がいない砦など、大豆の入っていない豆腐のようなものだ。

「いいじゃナイでスか。テント、エキゾチックでス。猫、可愛いのでス」
「ヨーコさんはそー言うけどね……」

 そう言いながら新井木は、ブータと目があった。

ブータは新井木を見ながら、考える。
 だったらずっと、お前は不平不満ばかりを言いながら生きていくのか?

 新井木は口を開いた。
「でもずっと、文句ばっかり言えないか」

 ブータは満足そうに目を細めた。
原は笑って新井木とヨーコを抱き寄せた。
「そうよ、戦争なんだから。文句言わないで仕事しなさい」
「はーい」
「はいデス」

ブータも、笑った。

/*/

 一方プレハブ校舎では、本田がやかましく階段を駆け上がっている。
教室のドアを開いて、生徒達に声をかけた。

「よーしお前ら、戦車が来たぞ。新しい奴だ」

 滝川と中村がおおと顔をあげた。
「本当ですか!」
「おうとも! よし、てめーら全員駆け足、整備テントに野次馬いくぞ」
「はい!」
「……野次馬って、あからさまです」
「壬生屋! なにか言ったか!」
「はい、いいえ。なんでもありません」

 本田はにっこり笑った。
「よし!ついでに手伝うところがあったら手伝おう。急げ!」

/*/

 本田に速攻でついていった中村と滝川の背を見ながら、速水は舞を見た。
自分が動く前には必ず舞を見るのが、この頃の速水の癖であった。

「僕たちも行こう」
「そうだな」
「うんとね、えっとね、しつもんです。せんしゃさんはおおきいですか」
「そうだな」
「おおきいとあるきにくくないですか」
「代りに高いところに手が届くな」

 舞はののみの質問にそう答えると、まだ何かを探すように周囲を見ている壬生屋の手を取った。

「いくぞ、壬生屋」
「分かってます! ……あ、ごめんなさい」
「あやまる必要はない。音量で謝る必要があるなら、本田は大変だろう」

 速水は壬生屋に微笑んだ。この人は、こんな風に僕にも声をかけたのだろう。
世界で一番速い好意は、分かり難いのが欠点だと思う。
「心配事があるなら、聞くんだって」
「心配事なんて……いいんです。思い過ごしですから。行きましょう」
 壬生屋はそう言った。恥ずかしくてとても殿方には聞かせられないと思う。

/*/

 本田を先頭に、クラスは2列縦隊で駆け足した。
豪放磊落の中に何事にも規律を求めるのは体育会系というよりは軍隊系である。

「よーし! ついたぞ!」
「いっちばーん!」
「馬鹿、先生が一番に決まってるだろうが!」
「俺も俺も」

 争ってテントに入っていく人々を横目に、速水は舞を見た。
「どうしたの?」
「傷がついてる」

見れば、舞が大書した、正義最後の砦と書かれた看板のすみに、引っ掻き傷があった。

 舞が難しそうな顔をするので、速水は笑った。
「猫だよ。たぶん。ブータがやったんだと思う」
「……ね、猫か」
「うん。敵の攻撃じゃないと思うよ」

「……ね、猫では仕方ないな。猫では」
「そうだね。さすがにどうしようもないもんね」

 舞は頭を振って、可愛らしい妄想を振り払うと、……背伸びしてにゃんと言いながらかりかりしたのだ、きっと。 意味もなく胸を張った。

「仕方がない。ではテントに入るか」
「はいはい」
「私は壬生屋に言ったのだ。いくぞ壬生屋」
「……はい」

/*/

 舞は、壬生屋の腕を掴んで行ってしまった。

速水は、頭を掻いた。からかったと思われたのだろうか。

 見れば、隣にののみが居た。ののみはにっこり笑った。速水もつられて笑う。
「よしよし。まいちゃんはねぇ、はずかしがりやさんなのよ。すきなものをすなおにいえないの」
「好き? え、ええ? 僕のこと?」
「ううん。べつのものなの。きみつなのよ」
 速水は肩を落した。いや、当然といえば当然だが、がっかりするのを押えられない。
ののみは背伸びしてよしよしと、速水の頭をなでた。

「でもこのねこさんのひっかきはふしぎだねえ。なんでおなじところをかかないのかな?」
「そうかな。猫もそういう気分があるかもしれない。……どれどれ」

 速水は看板を見た。そして自動的に口を開いた。

「最も新しい、正義最後の砦」
「うわー。うわー。すごいねえ。あっちゃんは、すごいねぇ。猫さんの言葉が分かるんだねぇ」

 速水は、あれ? と目をこすった。確かに読めたような気がした。もう一度猫がひっかいた傷を見る、何度見ても、 最も新しい以外には、読めそうもなかった。

 速水は首を振りながら舞の後を追った。ののみの手を引く。
ののみの質問の山に生返事しながら速水は考えた。答えは出ない。
まあ、そういうこともあるだろうと考え、そのまま深く考えることはしなかった。