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 場面は、猫の目のように変る。

 速水厚志は、いや、速水の名前を奪ったものは足をとめて、ぼんやりと我に帰った。
そこは公園だった。どれだけ走ったか、分からない。

 空は晴れていたが、心はどしゃぶりだった。

 どしゃぶり? なんで?

 ものは思う。そのものは、まだ気持ちというものを自覚することを覚えていない。
覚えるような生き方はしていない。代わって与えられたのは、痛みと苦しみだった。


 なんでどしゃぶり? なんでこんな気分になる?


 痛みや苦しみから逃れるため、ものは、無自覚に感情を切り捨てて演技し、生きる技を身につけていた。 生き延びるためなら胸を貫かれていても笑えたろうし、悪意と屈辱の中で愛想をふりまくこともできたろう。

 だから、なぜ自分が走ってきたのか、よくわからない。
 ただ今度の演技が失敗したということは自覚している。すぐ戻って、取り繕うべきだとも。……速水厚志は、 サボったりはしない。

 でも、足がすくんで動かない。舞を見たくない。

 ものは、こういう気持ちに慣れていなかった。耐久試験とか言って、水も食事も与えられなかった時とも、違う。

 速水は顔を両手で覆った。

 俺は速水。俺は速水厚志。僕は速水厚志。
 ずっと前から自分は速水厚志だと、錯覚しかけていた自分に気付く。
いや、錯覚ではない。嘘と、欺瞞だ。僕は自分を騙したかったのだ。俺は速水になりたかった。長い苦しみの中で 自分の名前を忘れてしまうことは恐ろしい。番号では呼ばれたくない。それを無かったことに、したかったのだ。

 なのになぜ、戻れない。戻らなければ、不審がられる。正体を知られれば、何もかも終りだ。


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 滝川はのれんをくぐった。

 フロアマットには訳の分からない絵。それを踏みつけて中に入る。
 主人によれば、その絵は東の国、子供たちを守護する踊る神のものだという。
それは踏めば踏むほどに色鮮やかに鮮烈になる絵。話によれば、商売繁盛の御利益があるとかないとか。

 主人はこれを、伝説の大陸豆腐料理フテーノヤーカラのレシピ捜索の途中で、ある寺院から貰ったらしい。

 見れば無国籍に置かれた謎の置物。なぜかスカンクや鹿の剥製。いずれは滝川達が食うことになるだろう魚が入った 水槽がある。あやしいその店は、滝川の知る現実と非現実の境にある店の一つだった。

 店の名前を味のれんという。

 主人は滝川の姿が見える前に口を開いた。
「お、来たね。今日はうまかガラカブが入っとるばい」
「ごめん、今日は食べに来たんじゃないんだ」

 はちまきをした初老の主人は、そんなことは先刻承知しているという風に、姿の見えた滝川に笑ってみせた。

「なんね。おっちゃんに話してみなっせ」
「いや、あのさ、俺のダチがいま家出してさ。いや、ここに居ると思ったわけじゃねえんだけど」

 主人はうなずいて、それ以上の深い理由も何も尋ねなかった。
「あー、そりゃいかんね。分かった、ここ来たら連絡しよたい」
「さんきゅ。じゃあ、俺、また別のとこ行ってくる」
 滝川は説明が苦手な性質なので、その心遣いがありがたかった。

「待ちなっせ。忘れ物」
 主人は笑うと袋を投げてよこした。
「え?」

 はちまきをしめてもなお隠せない、どこか遊び人の風体の主人は、笑ってみせた。
「おっちゃんの新作」
「なんだいこれ?」
「アップルパイ。最近は若かもん向けば作らんといかんけんねぇ」
「この店に若い客なんて来るもんか」
 滝川は自分達のことを棚に上げて言った。この店は主人の機嫌で値段が変るので、安いときは本当に安いのである。

「さてねえ」
 主人は腕を組んで面白そうに笑ってみせた。
「これから来るかも知れんじゃにゃあや。運命って奴は、読めんから運命ばい」
(このオヤジ、今日はパチンコで勝ったな)
 滝川はそう思った。いや、競輪かもしれない。主人は無類のギャンブル好きだった。

 主人は頭悪そうに口を開けて滝川の心の声を退けると、放胆に言った。
「ま、それ食って元気だしなっせ」

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 森はとりあえず1時間ほど全速で走ってこけて、またこけた後、立ち上がりながらこれでは駄目だと今更思った。 森は走るのが苦手だった。苦手だからと言っても走るのが嫌いではないところが破滅的な性格である。

 森は呼吸を整えながら考える。そう、論理なく探すのは効率が悪い。推理しながら走ろうと考えた。

 前髪が目に入らないようにオレンジのバンダナを締め直す。
 こけても怪我しないようにつけていた軍手は、新しいものに付け直した。

 一人心の中でがんばろうと考え、また走りはじめた。

 推理、そう推理だ。

 森は漠然と速水を思った。
 気が弱そうで優しそうな人。いつもしないでいい苦労をさせられているように見えた。
きっと、心労が溜まったのだろう。森は速水に同情的だった。世の中にはストレスが多い。悪魔のような弟が できたのかもしれない。

 彼はどんなところに居るのだろう。
森は考えた。ゲームセンターとか、不良のいそうな所、うるさい所にはいないだろうと考える。

 図書館か、公園か、自分の家か。

 森は図書館に行こうとして、道を間違ったことに気づいた。
走って戻るのも恥ずかしいので、公園に行くことにする。速水の家の場所は知らなかった。

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 一方その頃。

 芳野は嬉しそうに授業をしている。1週間ぶりに国語の授業ができるのであった。
「はい、それでは芝村さん、そこを読んでみてください」

 舞は、面白くなさそうに腕を組んでいる。

 芳野は顔を傾けて、舞の顔を覗きこもうとした。

 舞は気にしていない。芳野は手を振ったが、舞は無視した。芳野は泣きそうになる。

 舞はふん。と鼻息。

 ……まったく速水という人物はなにを考えているのかわからない。一体家令と家出になんの因果関係があるんだ……

 考えると、腹が立ってきた。あまりに可哀相な顔でこちらを見たのを思い出す。

「あのう、先生、教科書読んでくれると嬉しいなあ、なんて……」
「私は悪くないぞ!」

 舞は机を叩いた。
 ひっくり返る芳野。

 壬生屋が呆れ顔で席を立った。
「いいえ、悪いのは芝村さんです」
「なんだと?」
 睨み返す舞。

 先ほどから机に靴下を丹念に並べていた中村が、ため息をついた。
「まて、芝村よ、目、さませや。ノートが取れんじゃにゃあや」
「なんのことだ」
「お前さっきから先生の言うこと無視しよったばい」

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 騒ぐ壬生屋と舞にほっぽりだされ、ののみはゆーうつだった。ため息をつく。
「きょうはみんなねえ、たいへんなのよ」
「だからってなんで僕のところに言いに来るんだ」
 狩谷はののみを見ないようにして口を開いた。
困ったように狩谷を見る加藤。
「まあまあ、ええやない。ねー?」
「ふん」
 狩谷はそっぽを向いた。加藤はののみの頭をなで、ののみは加藤に抱きついた。
微笑む加藤。

「ふん。僕じゃなくて加藤に話しかけていたという訳か」
「なっちゃん……」
 加藤はののみが困った顔をする前に笑顔になって、元気良くののみに言った。
「どれ、手ぇみせてみ」
「ふぇー?」
 ののみは素直に丸い手を見せた。大事そうにさわる加藤。
「あー、あかん爪の間にドロはいっとるで。昼ごはん食べる前に洗わんと」
「えー? でもののみはねえ、きょうはねえ、すなばであそんでいないのよ」
「それでもどこからともなく汚れは出るんや。ちゃんと手ぇ洗わんと、バイキン入ってこわい病気なるで」
「……びょー。き?」
「そう、病気。何日も寝込むんやで」
 ののみはショックを受けた顔になった。おごそかにうなずく加藤。直後に笑う。

「もう授業終ったみたいなもんやし、手を洗いにいこか」

 ののみは大きな目を一杯にあけて、大変なことを思い出した。
戦争の行方より大事なことに思えた。

「どうしたん?」
「いそがないといけないの」
「はあ?」

 加藤をさしおき、ののみはたいへんたいへんと駆けだした。

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 一方その頃。

 滝川は、調べてようやくたどりついた、速水の住むアパートの前に立っていた。
学校の寮では足りずに、軍がまるごと借り上げた、安いのだけが取り柄の、みすぼらしい場所だった。
 ドアの前に座りこみ、速水が戻ってくるまで待つことにする。


 座ってしばらくした後、昼飯をぬいていたことを思い出した。

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 走る森は、お腹が鳴った音に赤面した。
そして今更ながら、昼ご飯を食べてないことに気づいたのだった。

 お腹が減っている時はろくでもないことを考える。というのが森家最大の権力者である母の格言であった。 だからというわけではないだろうが、母はいつもTVを見ながら煎餅を食べている。

 きっと速水君もお昼ご飯は食べてないだろうから、ろくでもないことを考えているに違いない。

 急ぐ必要がある。森は強い使命感で思った。
 思い込んだら森は一直線である。すぐコンビニに入って食べ物を買い求めた。

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 速水は、未だ公園で、のろのろと考えている。

 これまでも毎日舞のことを考えていた。これ以上はないと思うほどに。
でも今日はどうだろう。今日は彼女のことを考えたくない。考えたくないのに、多分これ以上はないというほど 彼女のことを考えている。
 速水は、舞が自分を迎えに来るのではないかと、そうも思ってみた。そんなことはあるはずがない。

 結局あの女は、僕が生き残るための踏み台の一つなのだと、そう思ってもみた。
そしてみただけで、終った。
 生き残るためになんでも割り切れるつもりだった。あそこから逃げ出せば、絶対にマシになるとも、思っていた。 だが実際はどうだろう。今こうして座っている自分と、身体を切り刻まれるのと、どちらがマシだろう。
 これまでは、痛い痛い、なんでもやります、そう懇願するだけで、人は好色そうに笑って許してくれた。 飽きられる前に新しい手腕を手に入れる。それだけ考えれば良かった。人の排泄物を食べるなど、どうということもない。 同じことをすれば、あの人は振り向いてくれるだろうか。

 決まっている。そんなことをすれば、あの人は僕を哀れむだろう。
どこか冷たいあの切れ長の瞳で見られたら、それを考えるだけでも怖い。