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 整備テント。

 ブータは、92mmライフル砲弾倉の上で寝そべっていた。
 ののみが、走ってくるのを、耳だけ立てて確認する。目の前にののみが立つと、目を開けてそれを見た。

「ねこさんねこさん。そのふくをかしてください。あのね、あのね。せんたくしてあげるのよ。きれーになるの」

 ブータは首を振った。

「だめ? たくさんおもいでがあるの?」

 ブータはうなずいた。

「うんとね、えっとね、でもね。きれーなほうがいいのよ。ばいきんはあぶないの。むかしはただのおもいでなのよ。 いまはただのこしかけなの。おもいではたくさんいらないのよ。ここからさきがみえるだけでいいの」

 ブータは、だがわしは歳を取りすぎたと言った。

 ののみは悲しそうな顔をした後、亜麻色の髪を振ってブータを抱き上げる。
「めー。めーなのよ。ひとつだけいっておくのよ。めをとじたらいけないの。ねむるときだけなの。それがいきることなのよ」

 それは多分意味が違う。

 だがそんなブータの反論も聞かず、強制的にののみはブータを持って一生懸命に走り出した。
ブータはフーと言ってじたばた暴れる。

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 シーンは、飛ぶ。

 悩み深い中間管理職善行が、弾薬が足りない、パイロットは家出、ああ、困りましたねえと歩いていると、 猛獣と珍獣が格闘しているような盛大な音が聞こえてきた。なんだなんだと頭をひねり、顔を出す善行。

 窓から顔を出した所は足洗い場だった。古い学校についている設備である。
そこに置いた大きな金ダライに身体を突っ込むようにして、ののみが暴れていた。
助けようと窓から飛び出て腰をつかみ、引き寄せる善行。
 洗剤の泡を鼻の上につけたののみがにっこり笑った。

「なにをやってるんですか……」
「うんとね、えっとね。ねこさんのふくをあらってあげるのよ」
「私には猫ごとタライでばたばたしてるように見えましたが」
「ねこさんがぬがないの。だからねこさんもあらうのよ。でもいやがるの」
「それは……野良はいやがるでしょう」
「のらじゃないの。ブータさんなのよ」
「いや、そういう問題ではなく」

 ののみは自身も泡だらけになりながら、うにゃーと言いつつ大猫に躍り掛かった。
飛沫で洗剤を浴びる善行。フーと言うブータ。珍獣と猛獣の対決。

 眼鏡にかかった飛沫を親指で押しのける善行に、両手を広げて猫と戦うののみがいつになく真剣な声で言った。

「いいんちょもてつだわないとめーなのよ」
「……まあ、私もこうなったからには手伝った方がいいような気もしましたが……手伝いますよ」

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 思い出が、思い出が……ワシを置いて飛んでいく。
 結局二人がかりでじゃぶじゃぶと洗われ、ヒゲもしおしおの情けない顔にジョウロで水をかけられたブータは、 うらめしいジョウロを見上げた。

 ジョウロは詫びを入れる気か、水を撒いた端から虹を作っていた。
 小さな小さな、虹。

「わぁ! にじだー。にじにぃ、てがとどくなんて、ゆめのようだねぇ」
「理科の時間にやりませんでしたか? スケールが違うだけで空と同じことが起きたわけですね」
「ふぇぇ、すごいねぇ。いいんちょはぁ、なんでもしってるねえ」

 善行は肩をすくませたが、何も言わなかった。そう、この子を着替えさせないといけない。素子はまだ戻ってないか?  誰に頼もう。

 善行はそこまで考えた後、泡だらけの自分とののみを見、ぶるぶると水切りするブータを見て、急に愉快な気分になった。 傍に若宮がいないのが残念だった。

 市電で前線に兵力を輸送できるような戦況なのに、我々は何をやっているのだと思ったのだった。戦時中にしては 豪華な時間の使い方じゃないかと考える。自分以上の苦労人、若宮にもこれを味わせたいと、そう考える。

 善行の歪んだ審美眼は、自分を嘲笑った。
そして、実際声に出して笑った。
ののみもひっかき傷だらけで、笑った。

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 あれ、ワシ、こういう場面知っている。

 濡れ鼠ならぬ濡れでぶ猫のブータは、ヒゲが早く乾くようにリューン達を使う歌を謡いながら、そう思った。
 あれはいつだったか。シオネが笑い、アーが誇らしげにカドルトを使っていた頃。

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 冒険にして自由の天地である銀河を行く冒険艦。
全長43m。重量わずかに180tのその空飛ぶ船は、大逆転号と言った。

 ブータは一等航海士として、遠くオリオンアームの向うまで駆け巡っていた。
そう、それなのに。

 操舵手、エルンストがブータの姿を見て笑っている。

「今度という今度はやられたようだなぁ」
「シオネ・アラダに100年の呪いあれ」

 ブータがそう言うと、宙に浮きながら無重量空間にリューンの息吹を感じた。
細くて白い腕をひっかき傷だらけにしたシオネが宙を泳いでくる。完全に怒っていた。

「ありゃあ、親父さんをブラッシングするまで許さない勢いだと思うね」
「させはせん」
 ブータは壁を蹴って逃げ出した。宙に浮かぶタヌキのごときその様が面白かったのか、鼓杖を浮かせて瞑想に入っていた イニン・ヨシアが調子を崩した。
艦が姿勢を崩し、ガスジャイアントのリングに異常接近した。

 後方に吹き出す船の推進剤が水の塊を跳ね上げる。そこに恒星の光が当たって虹の環を作った。

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 ブータは丸い目を真ん丸にして、黒目の面積を最大にした。

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 ブータはそのまま、ののみを見て、善行を見る。


 あの頃とまったく同じだった事に、気付いたのだった。
なぜあの髪の色を忘れていたのだろう。真面目一辺倒の人間が急に調子を崩す様を忘れていたのだろう。

 ブータはとても大事にしていた思い出を、物にすがるあまり、自分が忘れていたことを自覚した。


 ののみに貰った安っぽい青いペンダントが、水に濡れて輝いていた。

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 天候は徐々に悪くなり、忌々しいことに、雨まで降りだしていた。
滝川は、雨をぼんやりまちながら、座り込んだままドアに背を預けた。

 思い出して、袋からアップルパイを取り出した。
かじる。枕みたいな形のアップルパイは不格好で、滝川は、今の自分にはお似合いのように思えた。


「……これ、うめえな」

 滝川はそうつぶやいた。