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 森が玄関のドアを開けると、そこには目つきの悪い少女と、壬生屋がいた。

「速水を迎えに来た」
「速水くんを迎えに来ました」

 森は背筋を伸ばして敬礼した。
「はい」
 隣にいる弟が、金色の前髪をわずらわしそうにはねのけながら言った。
「早く連れて行ってくれ。狭い家がこれ以上狭くなったらたまらない」
「大介! もう今度という今度は!」
「プロレスで僕に勝つつもりかい、姉さん」

 森は先制した。急に沸き上がった場外乱闘を、右に左に見た壬生屋は、独り言のように口を開いた。

「……なかなか楽しそうな家ですね」
 舞は頭を振った。勝手に上がりこむ。
 壬生屋は慌てて舞を追った。

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「速水を迎えに来た」

 その声を聞いて、速水は発作的に逃げだした。窓を開け、裸足のまま、いや、正確に言えば靴下は履いていたが、 そのまま走って塀を乗り越え、逃げだしたのである。
 今、顔を合わせれば、嘘が、嘘で作りあげられた仮面がはがれると思ったのである。
この訳の分からない感情が内側から溢れてきたら、このままではいられなくなる、速水はそう思った。

 それに、それに芝村には思い人がいる。

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 開け放たれた窓からの風が、舞の髪を揺らした。
 全速で走っていく速水の背中を見ながら、舞は、舞にしては大変珍しく、呆然とする。

 同じく呆然とした壬生屋だったが、立ち直りは当事者でないだけに早かった。舞に詰め寄る。
「……一体何を速水くんにしたんですか?」
「私か!?」
「そうです。貴方以外に何が考えられるんですか!?」
「私は断じてそこまで不器用ではない!」
「何を訳の分からないことを言っているのですか! どうするんですか!」
「決まっている」

 舞は助走をつけて窓から飛び出した。

「そうですね」

 壬生屋も飛んだ。ひっつかんだ舞の靴を投げてよこす。
着地するまでに靴を履く舞。着地と共にポニーテールが揺れる。

「男という奴は……」
「絶対貴方が悪いと思いますけど」

 舞と壬生屋は並んで、すさまじい速度で速水を追いはじめた。

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 一度振り向いた速水は、鬼のような形相で追ってくる舞と壬生屋を見て、こちらも全速で逃げはじめた。

 人混みの多い所に行き、小さな路地に身を躍らせた。

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 舞と壬生屋は並んで髪を揺らした。

 周囲を見る壬生屋。
「見失った?」
「奴は私の追跡を振り切れるのか? 慣れた逃げ方だったが、専門訓練でもしているのか?」
「何を馬鹿なことを……道は二つあります。どうしますか」
「私は左だ」
「私は右です。二手に分かれましょう。……約束してください。速水くんに暴力は振るわないと」
「当たり前だ」
「……それを聞いて安心しました。貴方は、約束だけは守りますから」

 壬生屋は少し笑って走り出した。
 無表情のまま、舞もまた走り出す。

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 舞は頭の中で追跡のセオリーを考えていた。走りやすさからいけば左。暗いのも左。
普通なら走りやすいほうを走る。逃げる奴は暗い方へ行こうとする。
だが速水は、裏をかく。

 舞は速水の人物像を脳裏で修正しながら、そう考えた。

 奴の逃げ方は相当場慣れしている。迷わず逃げた所と、靴を捨てて逃走する点から考えて、間違いない。 おそらくここから先も優秀なことをやってくるだろう。
 まったく実用的なことを親から習ってこなかった舞だが、非常時にはまことに役に立つ数々の教えを父親は残していた。 危険になればなるほどに、非常時になればなるほどに完璧に対処する知識を叩きこまれていたのである。

 舞の目が爛々と燃え上がった。
 眠そうな半眼をやめ、世界そのものに挑みかかるような目つきになる。それはハートのエンジンがかかった証拠。

 舞はヘアピンを取り出して鍵を開け、土足のまま民家に侵入すると、横切り窓を開け、ショートカットして速水の すぐ後ろに出現した。

「見つけた!」
「芝村! 来ないでよ! もういいんだ!」
「もはや知ったことか!」

 もはや舞にとって問題はそういうことではない。挑戦されれば相手が神々でも必ず勝て。
私はこれを挑戦と認識する。舞は目でそう語った。

 舞は速水の腕を掴んだ。引き倒される速水。
雨に打たれながら、舞は静かに言った。
「私の勝ちだ。ついでに言えば、私は壊滅的に不器用なわけでもない」


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 引き倒された速水は、雨に打たれながら舞を見た。

 思わず舞は手を離した。
 その隙にのろのろと逃げ出す速水。

 遅れて追ってきた壬生屋が、舞の前に立った。

「なぜ逃がしたんですか」

「な……」
 舞は、己の拳と拳をぶつけると、な、なぜ泣く、と思った。

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 一方その頃。

 瀬戸口はののみを肩車したまま、ため息を一つついた。ののみがそれを覗き込む。
「うんとね、えっとね、どーしたんですか?」
「いや、参ったなと。速水に用があったんだが、あいつ、休んでやがる。いや、家出か………勘のいいやつだ。なるほど、 うまいやり方だ」
「ふぇ?」

「ん? いや、俺も探そうかなってね」
「うんっ。ののみもね、てつだうのよ」
「そうか、じゃ、一緒に探すか」

 瀬戸口はどこか皮肉そうに、優しく笑った。

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 そして、3時間後。


 速水はのろのろと家に、アパートの前に帰ってきた。飼っている猫に餌をやらなければならないし、 トイレも片づけないといけないと思ったのである。
 いつのまにか日は暮れ、暗くなっている。

 今に至るまで、善行は多目的結晶で呼びかけてこない。記録が残る方法で接触してこないということは、 隊内で処理する意志の現われでもある。速水は、ぼんやりとそう思った。

 明日は、隊に戻らないといけない。
 善行が隊内で処理すると温情を示している間に、謝らないといけないだろう。

 階段を昇る速水。


 速水は、最後に見た舞の表情を思った。
 真剣な、そして僕にだけは分かる、優しい瞳。あの瞳は今ごろ他人に向けられているのだろうか。
そう考えると速水は頭をぐしゃぐしゃにして、うめいた。涙が落ちる。今日中にこの気持ちに決着をつけなければならなかった。 でないと厄介なことになる。

 速水は、顔をあげる。

 滝川が居た。

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 滝川は立ち上がって速水を見ると、頭を掻いた。一度そっぽを向いて、結局速水を見た。
「猫、鳴いてるぜ」
「あ、うん、ごめん。餌やらないと」
「それがいい」

 滝川と速水はすれ違った。いや、並んだところで、速水の脚がとまった。
下を見て、上を見て、表情が崩れる。
「……ごめん。その、僕はこういう時なんて言うか分からなくて。ごめん……僕に何か言いたいことあるんじゃないかな」

 滝川は、この時少しだけ大人への階段を昇った。目をそらしたのである。
「……お前の顔見たら忘れたよ。ほら」
「これは?」
「味のれんの親父の新製品だって。あそこの親父、これからガキがあの店に来るってトンチキ言ってたぜ」
「そうなんだ」
「まあ、味は悪くないけどな」

「滝川……」
「明日は出てこいよ」
「……うん」
 滝川は勢い良く階段を降りた。うまく物が言えない日は、空を飛びたくなる。あれで速水は元気になったのか 滝川には自信がなかった。

 そしてふと、ロボットもいいが、飛行機もいいなと思った。飛行機に乗れば、空を飛べるだろうから。


第15回(前編) 了