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/*/ その夜。 速水は一人、薄暗い自室で猫と夕食を分け合って食べていると、ドアをノックする音がした。 猫と仔猫を隠す速水。アパートはペット禁止だった。 どうか、舞じゃないように。 「よっ」 「瀬戸口くん」 電灯の白い灯りに照らされた瀬戸口は、どこか幽鬼めいて見えた。 瀬戸口は小声で陽気に言った。 瀬戸口は遠慮なく上がりこんできた。周囲を見る。 「……それにしても寒々しい部屋だな。一つの立ち鏡以外には、なにもない」 速水の動きがとまった。何か言おうとして、別のことを言うことにする。 瀬戸口はそう言いながら優しくののみを畳の上に置くと、自分の上着をかけてやりながら静かに言った。 部屋の隅でブータが耳を立てている。 瀬戸口は皮肉そうに笑うと、ののみの栗色の髪に触れた。 「そう、生きていれば嫌なことばかりだ。……この娘は、死んだほうが幸せじゃないかな」 速水が不意に顔を上げると、瀬戸口は声もなく笑って、眠っているののみから手を離した。速水の顔を見る。 「それが、ほんとのお前さんかい?」
「はいはい」 「そうじゃないかなと思っていたんだ」 「お前は……」 /*/ 速水がそれとなく唯一の出入り口である玄関のほうに移動することを冷静に見ながら、瀬戸口は口を開いた。 「なあ、交換条件といこうじゃないか」 黙る速水。静かに棚に手を伸ばす。昆虫採集セット。 瀬戸口は、数を数えるように淡々と口を開いた。 「俺と同じような奴が投入されたという話は聞いていない。それに、会津はあのお姫様が出奔したことをまだ知らない。 別の芝村がついてることもない。あのお姫様はひとりぼっちで、後ろ盾なんかいないことは、この仕打ちを見ればすぐ分かる ……お前さんはフリーだ。誰にも雇われていない。……そうだな」 速水は目を細めた。意外なところで正体がばれたなと思う。いや、ばれてはいない。奴は俺を、 工作員か暗殺者かなにかと思っているようだった。速水は考えながら、芝居を打つことにする。 「お前もプロなら分かるだろう。雇い主が仮に居ても、言う奴はいない」 「なあ、お前さんは今潜伏中で、身分を知られたくない。そんなところじゃないか。いいさ。俺も役目さえ果たせばいいんだ」 話が読めず、黙って考える速水の態度をどう思ったのか、瀬戸口は微笑んだ。 「よかった。じゃあ、これで商談成立だな。もちろん、この娘は置いていく。俺だって殺しは好きじゃない。実際の所、 人質だって好きじゃないんだ。ホントさ」 /*/ あえて急がず、のんびりと去っていく瀬戸口。 一応、家を徹底的に調べて盗聴機の有無を調べる。 頭の中に勢い良く血が流れてくる。 芝村は一族の争いで命を狙われている。そうか、あの動物園、あれはそれか。 その中で、なんらかの原因で俺が邪魔をしていると瀬戸口は考え、あたりをつけてきた。 前と同じ手、つまり幻獣で来るなら、被害を局限するつもりなら、どう出る? 朝方か。芝村は早い。それしかあるまい。 多目的結晶で善行に連絡を取ろうとする。そして速水は、手を、止めた。 /*/ 僕はどうするつもりなんだ? /*/ ブータはとりあえずののみの安全が確保されたので、部屋を出ることにした。 ブータは爪をひっかけて押し入れを開けると、速水が飼っている母猫と仔猫達を見た。 /*/ 母猫と仔猫達は、猫の王様であり、神様であるブータを見た。 「おめもじすることを光栄に存じます。猫岳の王、宝剣の使徒、アルゴーナウタイ、猫の神様」 母猫と仔猫達は速水の身に起きていることを謡うと、狭い額を地面にすりつけて速水の心の安堵を願った。 「猫の神様、どうかあの人族の勇気をお守りください。勇気が誇りを支えるよう、すこしだけの助力をお授けください。 あの人族こそは誇り高き青のおとこし。慈悲を知る者、古に謡われる天と地の交わりにより生まれし英雄族、 メイデアの姫君の子孫に違いありません」 「そなたも古の盟約は知っておろう。人は人が、猫は猫が決めること」 ブータは尻尾を力なく揺らす仔猫達を見た。仔猫達は小さな声で、それぞれ祈りを声にして鳴いた。 「あと少しの勇気があれば、あの者はそれでいいと?」 /*/ 速水は目をつぶり、自分はどうしたいのかを考えた。 今、自分は危ない。そして彼女も、ほどなく危機にさらされるだろうと考える。 しばらく考え、上を見た後で思った。 今、自分は危ない。そして彼女も、ほどなく危機にさらされるだろうと考える。 そして考える。単純なことだ。深く考えるまでもない。 あと2時間半。 芝村なら、いやあの娘ならどうするだろう。速水は考え、愚問だと思った。 では僕はどうだ。僕が純真でないのは分かっている。そんなことは、今日という日につくづく思った。僕は醜い。 僕には顔を合わせる勇気もない。だが、……だが。 だが問題なのはただ一つ。僕の勇気が、長続きするかどうかだ。 速水は、論理をねじ伏せて立ち上がった。それまでも度々論理をねじ伏せて行動してきた彼だったが、今度は特別だった。 俺は間違っているという自覚のまま動き出したのだった。 僕は醜い。今、俺は何よりも彼女に軽蔑されることを怖れて戦う。 /*/ (猫の神様、どうかあの人族の勇気をお守りください。勇気が誇りを支えるよう、すこしだけの助力をお授けください。 あの人族こそは誇り高き青のおとこし。慈悲を知る者、古に謡われる天と地の交わりにより生まれし英雄族、 メイデアの姫君の子孫に違いありません) アパートを出たブータはひとりでに笑った。 「聞いたか。シオネアラダよ。そなたを見たこともない者が、わしにそなたのことを教えたぞ。運命を定める宝剣は 皮肉が好きと見える」 ブータは月も見えない夜の中で、屋根に乗ると、夜と向き合うように、心の中の闇とも対峙した。 「似ても似つかぬ者がそなたの子孫と言いおったわ。……だがしかし」 皮肉そうに笑うブータ。 「だがしかし、そなたの嘘ほど雄大ではなかったな」 伏せたブータの瞳から、青い光が漏れた。星が見えないこの夜に、星が戻って来る。 「それは夜が深ければ深いほど、闇が濃ければ濃いほどに、燦然と輝く空のともしび」 ブータは厳しい表情のまま、歩きながらつぶやくように謡う。 アパートから速水が出てくる。まだ、バスも電車も、何もでていない時間。 ブータは髭を揺らし、歌を続ける。 「それはすべてをなくしたときにうまれでる。それは無より生じるどこにでもある贈り物。それは悲しみを終らせる為に 抜かれた刃。偉大なる魔法の女王が残した最後の絶技。世界のどこにあろうとも、かならずさしのばされるただの幻想。 失われそうになれば舞い戻り、忘れそうになれば蘇る、最弱にして最強の、ただ一つの聖なる力」 ブータは夜空に背を見せてぼそぼそと歌った。ブータは我が胸を叩く。 大猫は伏せていた目を天空に向けて輝かせた。 「それは偉大なる嘘の歌。誰もがまだ見ぬおとぎ話。されど"それ"はいつか来る」 そして少しだけ、大きな声で歌った。 「あしきゆめよ。それは今日だ。今日それは、この胸に」 /*/ ブータはついに堂々と歩きだした。 ふりかえれば、死んでいった戦友達がうなずいているような気がした。 いくつもの幻の手に押されるように、大猫ブータは歩き始めた。 鈴の音が鳴るたびに猫達が集まり始めた。 猫神族の英雄にして光の軍勢の最後となった老猫は、ついに優雅に歩き始めた。 /*/ 屋根から塀へ。 一匹の大猫が、地上の人間を睥睨するかのように塀の上に居た。 二十四匹の猫を率い、緋色のチュニックに袖を通し、まるで独裁官のごとく歩いていた。 肉球で優雅に塀の上を叩きながら、大猫は目を細めた。 そして静かに速水に言った。 「アラダが一度決めたのだろう。ならばもはや迷うにあたらない。疾走れ」 ブータは言った。堂々と。 「戦え。人でも神でも命を賭けて戦う時がある。我こそ最後と思うなら、戦え」 速水は顔をあげて、周囲を見た。猫しか居なかった。 大猫は息を吸うと、大声で言った。 「貴様は恋をしているのだろう?」 速水は、心臓を強弓で射抜かれたように目を開くと、空耳を自分の声だと思った。 大猫は口の端をゆるめると、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎた。
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