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第15回(後編)
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 その夜。

 速水は一人、薄暗い自室で猫と夕食を分け合って食べていると、ドアをノックする音がした。

 猫と仔猫を隠す速水。アパートはペット禁止だった。

 どうか、舞じゃないように。
 速水はそう思いながらドアを開ける。

「よっ」
 そこにいたのは瀬戸口とののみだった。ののみは、瀬戸口に抱かれたまま眠っている。
足元には大猫ブータ。ブータは素知らぬ顔で部屋に入っていった。

「瀬戸口くん」
「家に居てよかったよ。お前さんに会えて良かった。灯り、つけてないのかい?」
「あ、ごめん。今、つけるから」

 電灯の白い灯りに照らされた瀬戸口は、どこか幽鬼めいて見えた。
肌が、異様に白く見える。

 瀬戸口は小声で陽気に言った。
「悪いな。それと、一度この娘を下ろしていいかな。手が疲れて、痺れてきた」
「あ、うん。あがって」
「すまないな」

 瀬戸口は遠慮なく上がりこんできた。周囲を見る。

「……それにしても寒々しい部屋だな。一つの立ち鏡以外には、なにもない」
「引っ越してきたばかりだから。……それに、お金も余りないし」
「そうか、俺には、個性を押し殺しているように見えるがね」

 速水の動きがとまった。何か言おうとして、別のことを言うことにする。
「……今日は、ごめん」
「俺に謝る必要はないさ。どっこいしょっと」

 瀬戸口はそう言いながら優しくののみを畳の上に置くと、自分の上着をかけてやりながら静かに言った。
「生きてれば、いやなことばかりだからな」

 部屋の隅でブータが耳を立てている。
 黙って瀬戸口の動向を観察しはじめる速水。舞のことではないとなれば、まだ冷静に考えることができた。なんだ。 なんのためにこいつはここに来た?

 瀬戸口は皮肉そうに笑うと、ののみの栗色の髪に触れた。

「そう、生きていれば嫌なことばかりだ。……この娘は、死んだほうが幸せじゃないかな」

 速水が不意に顔を上げると、瀬戸口は声もなく笑って、眠っているののみから手を離した。速水の顔を見る。

「それが、ほんとのお前さんかい?」


 速水のにらみに、瀬戸口は笑って両手をあげた。
「おいおい、やめてくれ。俺はそういうの趣味じゃないんだ。降参だ。降参。俺の任務は殺しじゃない」
「その子から離れろ、今すぐ」

「はいはい」
 瀬戸口はののみを起さないように離れながら、速水を見つめつづけた。

「そうじゃないかなと思っていたんだ」
「なんのことだ」
「慎重な性格なこった……プロだな。いや、プロで良かった。話が早いからな」

「お前は……」
 瀬戸口は、なにもかも優しく嘲笑って言った。
「芝村の犬だよ。もっとも、あのお姫様とは別の芝村だがね」

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 速水がそれとなく唯一の出入り口である玄関のほうに移動することを冷静に見ながら、瀬戸口は口を開いた。

「なあ、交換条件といこうじゃないか」

 黙る速水。静かに棚に手を伸ばす。昆虫採集セット。
 瀬戸口は速水が、それとなく武器に手を伸ばしたなと思った。
相手は思っているより慎重で狡猾だ。俺を騙しつづけるほどに。なあ、あんたは俺を殺してくれるのかい?

 瀬戸口は、数を数えるように淡々と口を開いた。

「俺と同じような奴が投入されたという話は聞いていない。それに、会津はあのお姫様が出奔したことをまだ知らない。 別の芝村がついてることもない。あのお姫様はひとりぼっちで、後ろ盾なんかいないことは、この仕打ちを見ればすぐ分かる ……お前さんはフリーだ。誰にも雇われていない。……そうだな」

 速水は目を細めた。意外なところで正体がばれたなと思う。いや、ばれてはいない。奴は俺を、 工作員か暗殺者かなにかと思っているようだった。速水は考えながら、芝居を打つことにする。

「お前もプロなら分かるだろう。雇い主が仮に居ても、言う奴はいない」
「まあ、フリーならそうかもな。生憎、俺は専属でね。ついでに言えば隠さなきゃいけないほど飼い主は弱小でもない……」

「なあ、お前さんは今潜伏中で、身分を知られたくない。そんなところじゃないか。いいさ。俺も役目さえ果たせばいいんだ」
「……どういうことだ?」
「あのお姫さんから手を引いてくれないか。あんたにとっちゃ、見ていられないから手を貸した。 間違って良心の欠片を捨てるのを忘れていた。どうせそんなことだろ? 明日だ。あの娘の傍から離れてくれるだけでいい。 ……それでお前さんのことは、俺も忘れる。これまで邪魔してきたことも、それでチャラだ。どうだ?」

 話が読めず、黙って考える速水の態度をどう思ったのか、瀬戸口は微笑んだ。

「よかった。じゃあ、これで商談成立だな。もちろん、この娘は置いていく。俺だって殺しは好きじゃない。実際の所、 人質だって好きじゃないんだ。ホントさ」

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 あえて急がず、のんびりと去っていく瀬戸口。
 速水は灯りを消すと、闇に目が慣れるのを待って、周囲をうかがいだした。
誰も居ない。奴は自分を信用させるために、わざと監視を置かなかったのかと、そう速水は考えた。

 一応、家を徹底的に調べて盗聴機の有無を調べる。
 盗聴機もない。念のため、速水はののみの服も調べた。寝息も確かめる。寝息は本物。薬が使われているかどうかは分からない。 ののみがグルという可能性もあるが、いや、それはない。速水は舞の判断を信じた。

 頭の中に勢い良く血が流れてくる。

 芝村は一族の争いで命を狙われている。そうか、あの動物園、あれはそれか。
速水は舞と瀬戸口が交わし合っていた場面を思い出した。

 その中で、なんらかの原因で俺が邪魔をしていると瀬戸口は考え、あたりをつけてきた。
腕に埋め込まれた多目的結晶を点灯させて時間を確認する。夜明けまであと3時間。

 前と同じ手、つまり幻獣で来るなら、被害を局限するつもりなら、どう出る? 朝方か。芝村は早い。それしかあるまい。

 多目的結晶で善行に連絡を取ろうとする。そして速水は、手を、止めた。

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 僕はどうするつもりなんだ?

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 ブータはとりあえずののみの安全が確保されたので、部屋を出ることにした。
控えめな猫の鳴き声。押し入れから音がする。

 ブータは爪をひっかけて押し入れを開けると、速水が飼っている母猫と仔猫達を見た。

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 母猫と仔猫達は、猫の王様であり、神様であるブータを見た。
深々と頭をさげる母猫。

「おめもじすることを光栄に存じます。猫岳の王、宝剣の使徒、アルゴーナウタイ、猫の神様」
「面をあげよ。母なるものよ。汝の用向きはなにか」

 母猫と仔猫達は速水の身に起きていることを謡うと、狭い額を地面にすりつけて速水の心の安堵を願った。

「猫の神様、どうかあの人族の勇気をお守りください。勇気が誇りを支えるよう、すこしだけの助力をお授けください。 あの人族こそは誇り高き青のおとこし。慈悲を知る者、古に謡われる天と地の交わりにより生まれし英雄族、 メイデアの姫君の子孫に違いありません」

「そなたも古の盟約は知っておろう。人は人が、猫は猫が決めること」
「古の盟約は相互扶助を禁止までしておりません。また英雄族は特定の母体種族を持たぬゆえに内政干渉の禁に抵触しないはず。 そして古の歌は謡っております。聖なるかな 聖なるかな それは偉大なる 最強の力 ……猫神族は聖なるを守るのが 勤めのはず」

 ブータは尻尾を力なく揺らす仔猫達を見た。仔猫達は小さな声で、それぞれ祈りを声にして鳴いた。
ブータは視線を逸らし、髭を揺らすと、チュニックを翻した。

「あと少しの勇気があれば、あの者はそれでいいと?」
 母猫は言った。
「その胸に星は輝いております。あと一呼吸分の勇気が続けば、伝説にもなりましょう」

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 速水は目をつぶり、自分はどうしたいのかを考えた。

 今、自分は危ない。そして彼女も、ほどなく危機にさらされるだろうと考える。

 しばらく考え、上を見た後で思った。

 今、自分は危ない。そして彼女も、ほどなく危機にさらされるだろうと考える。

 そして考える。単純なことだ。深く考えるまでもない。

 あと2時間半。

 芝村なら、いやあの娘ならどうするだろう。速水は考え、愚問だと思った。
彼女は迷わない。彼女は、炎よりも純真だ。どういう立場でどうあろうとも、轟然と胸を張り、剣を取って 弱者を守って戦うだろう。炎が人の形をして幻獣と戦うために現れたようなものだ。

 では僕はどうだ。僕が純真でないのは分かっている。そんなことは、今日という日につくづく思った。僕は醜い。 僕には顔を合わせる勇気もない。だが、……だが。

 だが問題なのはただ一つ。僕の勇気が、長続きするかどうかだ。

 速水は、論理をねじ伏せて立ち上がった。それまでも度々論理をねじ伏せて行動してきた彼だったが、今度は特別だった。 俺は間違っているという自覚のまま動き出したのだった。

 僕は醜い。今、俺は何よりも彼女に軽蔑されることを怖れて戦う。

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(猫の神様、どうかあの人族の勇気をお守りください。勇気が誇りを支えるよう、すこしだけの助力をお授けください。 あの人族こそは誇り高き青のおとこし。慈悲を知る者、古に謡われる天と地の交わりにより生まれし英雄族、 メイデアの姫君の子孫に違いありません)

 アパートを出たブータはひとりでに笑った。

「聞いたか。シオネアラダよ。そなたを見たこともない者が、わしにそなたのことを教えたぞ。運命を定める宝剣は 皮肉が好きと見える」

 ブータは月も見えない夜の中で、屋根に乗ると、夜と向き合うように、心の中の闇とも対峙した。

「似ても似つかぬ者がそなたの子孫と言いおったわ。……だがしかし」

 皮肉そうに笑うブータ。

「だがしかし、そなたの嘘ほど雄大ではなかったな」

 伏せたブータの瞳から、青い光が漏れた。星が見えないこの夜に、星が戻って来る。

「それは夜が深ければ深いほど、闇が濃ければ濃いほどに、燦然と輝く空のともしび」

 ブータは厳しい表情のまま、歩きながらつぶやくように謡う。
桜の樹の下の詐欺師の少女が、自分に言い聞かせるように謡っていたことを思い出す。
 ブータは思い出を心に浮かべて闇を退けた。今、やらなければならないことと、心からやりたいことが一致したのである。 年老いていたが、心はまだ、少女の傍にあった。

 アパートから速水が出てくる。まだ、バスも電車も、何もでていない時間。
速水はゆっくり歩き出した。

 ブータは髭を揺らし、歌を続ける。

「それはすべてをなくしたときにうまれでる。それは無より生じるどこにでもある贈り物。それは悲しみを終らせる為に 抜かれた刃。偉大なる魔法の女王が残した最後の絶技。世界のどこにあろうとも、かならずさしのばされるただの幻想。 失われそうになれば舞い戻り、忘れそうになれば蘇る、最弱にして最強の、ただ一つの聖なる力」

 ブータは夜空に背を見せてぼそぼそと歌った。ブータは我が胸を叩く。
「それはここに、この中に」

 大猫は伏せていた目を天空に向けて輝かせた。

「それは偉大なる嘘の歌。誰もがまだ見ぬおとぎ話。されど"それ"はいつか来る」

 そして少しだけ、大きな声で歌った。

「あしきゆめよ。それは今日だ。今日それは、この胸に」

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 ブータはついに堂々と歩きだした。

 ふりかえれば、死んでいった戦友達がうなずいているような気がした。
だがブータは振り返らず、前を向いた。進む道の先にこそ、友と再会できると信じた。

 いくつもの幻の手に押されるように、大猫ブータは歩き始めた。
肉球で屋根を踏むたびに、その歩みが確かなものとなり、堂々としたものになる。
鮮やかな火色のチュニックがはためき、猫神族の王を示す首輪から澄んだ鈴の音が鳴った。良く見れば、 その鈴が剣の形をしていることに気づくだろう。それは猫ながらにしてオーマの長老たる誇りであった。

 鈴の音が鳴るたびに猫達が集まり始めた。
まだ年若い猫神族だった。見上げるほど巨大なブータを見つめては、その後を、その前を、その横を歩いていく。

 猫神族の英雄にして光の軍勢の最後となった老猫は、ついに優雅に歩き始めた。

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 屋根から塀へ。

 一匹の大猫が、地上の人間を睥睨するかのように塀の上に居た。

 二十四匹の猫を率い、緋色のチュニックに袖を通し、まるで独裁官のごとく歩いていた。

 肉球で優雅に塀の上を叩きながら、大猫は目を細めた。

 そして静かに速水に言った。

「アラダが一度決めたのだろう。ならばもはや迷うにあたらない。疾走れ」

 ブータは言った。堂々と。

「戦え。人でも神でも命を賭けて戦う時がある。我こそ最後と思うなら、戦え」

 速水は顔をあげて、周囲を見た。猫しか居なかった。
空耳かと思った。

 大猫は息を吸うと、大声で言った。

「貴様は恋をしているのだろう?」

 速水は、心臓を強弓で射抜かれたように目を開くと、空耳を自分の声だと思った。
急いで駆け出す。

 大猫は口の端をゆるめると、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎた。