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 速水は耳まで顔を真っ赤にすると、走りながら考えた。

 こんな事態に巻き込まれて、俺は、いや、僕は不幸せだろうか。

 そして歯を見せて笑った。さらに速度をあげる。

 否。断じて否。

 今悟った。僕の幸せは、不運の中にあった。
今からでも遅くない。帰ろう。僕の故郷は不運に脚をとられ、腰まで沈むあの暗くどろどろした処。今更あそこに戻るのに、何の恥辱もてらいもない。

 あそこで昼の明るさを夢に見ながら生きるのが、僕にお似合いで幸せだった。
今なら、まぶたを閉じれば昼がどういうものか思い出せる。そこにいる黄金の翼を持った少女の姿も。

 僕は幸せだ。


 大丈夫だ。今までもばれなかった。今、多少無理しても、ばれない。
ばれてたまるか。

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「よろしいのですか、人族に介入して」
「あれは介入ではない。独り言だ。それに考えを変えさせた訳でもない。ただその身の誇りを守れるよう、勇気が長続きするように計らっただけだ」

 ブータは楽しくて楽しくてしょうがないという風に目を細めると、堂々と言った。

「それに、シオネアラダも、恋愛に関しては何も言わなかった。自分自身、種族違いの恋をしていたからの」

 傍らを歩く、まだ仔猫の気分が抜けていない小さな猫神族が言った。
「でも、いいんでしょうか」


 ブータは、前だけを見ながら言った。

「人でも神でも命を賭けて戦う時がある。そしてそれはあの人族だけに限った話ではない。誰も彼も、戦う時が来る。……神々もわしも、な。 絢爛舞踏祭が来るのだ」


 ブータは咳いた。

「自分の心に嘘をついて生きるのは、つらいことだ。それを納得するのは、もっとつらい。あの少年は他の全てを耐えることができても、 あのつらさは耐えられんだろう」

 ブータは横顔をあげた。

「あのシンボルを持つということは、そういうことだ。すべてをなくしたものだけが、あれを手に入れ、あれを身につける」


 ブータは血を吐くと、嬉しそうに喉をならした。そして上を見た。空に穴が空いてないかと。穴は空いてなかったが、 だが老猫はあきらめたりはしなかった。

「それはすべてをなくしたときにうまれでる。それは無より生じるどこにでもある贈り物。それは悲しみを終らせる為に抜かれた刃。 偉大なる魔法の女王が残した最後の絶技。世界のどこにあろうとも、かならずさしのばされるただの幻想。失われそうになれば舞い戻り、 忘れそうになれば蘇る、最弱にして最強の、ただ一つの聖なる力」

 口から自然に歌が流れ出た。それは偉大な嘘の歌だった。
 ブータは明けはじめた空を見上げたまま、笑った。

「全てをなくしたその時に、それはその者の胸に燦然と輝きだすのだ」

 若い猫神族の目の前で、余命幾ばくもない老猫の胸にかけられた小汚いペンダントが、燦然と青く輝きだした。若い猫神族の目が見開かれる。
 ただのガラス玉が、なによりも希少な青い宝石のように見えた。ブータは驚愕するその視線に気づいてはいない。

 ブータは神々を集めようと思った。今ふたたび、正義最後の砦に光の軍勢を集め、華々しく絢爛舞踏祭をはじめようと。年老いた猫の心に、 永遠の幻想が舞い戻っていた。

 立派な髭を揺らし、ブータは口を開く。

「今まではわしが死ぬまでのことを考えていた。これからは、わしのいない明日のことを楽しみに生きよう。散り散りになった善き神々に伝令を。 ブータニアス・ヌマ・ブフリコラは正義最後の砦に戻ったと」

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 朝が来る。速水は、息が切れるのも身体が酸素を欲しがるのも無視して、走った。多目的結晶で舞を呼び出す一方で、瀬戸口を追いはじめる。


 ベンチに座り、始発のバスを待っていた瀬戸口は、太陽の昇る方角を見た。

 そこには逆光に照らされた男の影があった。
 背が低い、華奢な身体から、アドレナリン全開の男の臭いがする。


「そこまでだ」

 ゆっくりと歩み寄りながら、速水は静かに言った。
それは後に、その少年がもっとも多く使うことになる登場の言葉だった。
その最初の一言は、猫に背を押されて言うことになる。

「そこまでだ。……ここからは好きにはさせない。舞から手を引け」

 瀬戸口は、優しそうに笑った。
「正体をさぐられても、いいのかい?」


 速水は笑った。舞には絶対に見せようとは思わない、ただ生きるために生きてきた、肉食獣の笑みだった。
 次の瞬間には一気に間合いを詰める。瀬戸口が動くより先に、その顔に己の顔を近づけた。

「君が死ねばいい」
「死ねば次が来る。もっと優秀で、慎重な奴が。賢いお前さんなら、分かるだろう。もうどうしようもないのさ」

 速水は笑った。堂々と。

「賢いのは返上したんだ。たった今」

「へえ」
 瀬戸口が腰の拳銃を抜くよりも早く、速水の拳が瀬戸口の顔面に入った。
鼻っ柱を叩き折るように狙い澄ました一撃だった。

 盛大に倒れる瀬戸口を前に、速水は堂々と言った。


「武器に頼ると、そういうことは良くある、中型幻獣より鉄の棒が、銃よりも新聞紙が強い時があることを忘れる。武器が戦うんじゃない。 武器を使う人間が戦うんだ」

「はっ、坂上教官の受け売りかい?」

「実体験さ」

 速水は、踵で瀬戸口の手を踏みぬいた。瀬戸口が短く叫ぶ。声に気づかれる前に、急がねばならなかった。

「次から次に来るならそれもいい。一人づつ殺していくだけだ。まとめてくるなら、俺が死ぬそれまでに大騒ぎしてやる。 誰も彼も振り向くようにしてやるさ。秘密にできないくらいに」

 地面にはいつくばって自分を見上げる瀬戸口に、そして速水はやさしい表情を向けた。
速水の中にいる俺と僕が、手に手を取って舞を守ろうと考える。

「とはいえ、僕は君を殺したいわけじゃない。ただ、彼女の安全を確保したいだけ」
「……それで?」


「君が嘘を報告すれば問題ない。あたりさわりのないことを報告すればいい。それで君の命は助かり、僕も殺す必要がなくなる。 あの子もあのままだ。誰も不幸にはならない」


 瀬戸口は、いつもと変わらない皮肉な笑顔を向けた。
「俺の職業意識はどうだい? ぼうや。ひどく傷がつくような気がするが」

 速水は相手が交渉に乗ったと確信した。緊張を悟られないようにポケットに手を入れる。
ポケットの中で、事故死に見せかける為のニコチンが入った注射器を握った。

「君にも家族はいるんだろう?」

 瀬戸口は笑った。すみれ色の瞳で、すべてを見通していると言いたげに。鼻血を出しながら笑ってみせる。
「そんな脅迫をするということは、そう大した奴じゃなさそうだな。本物の悪党は、自分の身が害されることだけを怖れる。 他人にも大切な人間がいると思いつく、そんな奴は、しょせんえせ悪党、小物だ」

「君を殺せる小物だ」
「なるほど。そりゃ恐いな。で、俺のプロ意識って奴はどうしてくれるんだい?」


 報酬の要求か。まあ、進んで損する奴はいないな。あの娘以外では。
速水は何の財産も持っていなかった。だが、負ける訳にもいかなかった。
 もう少し痛めつけるかとも思ったが、ののみのことを思って、やめた。恐怖だけで人をコントロールはできないと、経験で知ってもいた。

「それを補う報酬があればいい」
「へぇ。そいつは魅力的だな。で、何を出すんだい?」

 速水の胸ポケットから、青い光が漏れた。
何かが煌いていた。それは速水の知らぬ間に、燦然と輝きだしていた。

 青く輝くその光に照らされる速水の横顔に、瀬戸口の目が細められる。

「誇りだ」

 速水は長い長い時間をかけた後、堂々と言った。
瀬戸口の視線にも、自らの胸元にも、気づいてはいなかった。


「対価は誇りだ。人としての。本物の悪党より小悪党を選ぶ権利をやろう」

 瀬戸口は、内心の動揺を隠しながら口から流れる血をぬぐい、笑うふりをした。

「ちと安いかな。俺のプロ意識は高いんだ」
「まけろ」
「分かった、まけよう」

 今度は速水が、あっさり引き下がった瀬戸口の反応に軽く驚く番だった。
こいつは何を考えている? 最初から殺されるのがいやだったのか?
 それともなんだ。別にあるのか。考えろ。速水。

 速水は表情を消した。
 賭かっているのは僕じゃない。あの娘の安全だ。考えろ。
俺は僕に、ほんの一瞬のミスも許さない。俺が決めたのだ。僕が守るのだと。
 小物、本物といい、プロ意識というプライドを引き合いに出す。相手が計らずしも教えてくれた。……そんな脅迫をするということは、 そう大した奴じゃない。わざわざ軽い振りして、意識してないように見えて、こいつは相当プライドが高い人間だ。 プライドの高い人間は美談と直接的な暴力に弱い。脅迫よりも取り引き、それも不利な取り引きに乗ってやったという気持ちを作る必要がある。 ここまではいい。問題はなんだ。なぜもっとじらさない。なぜ恩着せがましい行為を途中でやめた?


 瀬戸口は、速水を上から下まで見た。
そして目をつぶった。
 あれが中に入っているとは到底見えない、よりにもよって男だった。だがそれは言ったのだ。そこまでだと。

「あんたは昔のこと、どれくらい覚えているんだい?」
「なんのことだ?」

 瀬戸口は、よろよろと立ちがあった。

「いや、それならいい。じゃあ、契約は成立だ。俺は帰らせてもらうよ」


 速水は、注射器を取り出すと、瀬戸口の首に、狙いを定めた。
「見張られているということを、忘れずにね。僕は、多分、君を苦しめながら殺せる」

 瀬戸口は振り返らずに言った。
「胸に刻んどくよ」

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 そして瀬戸口は、駆けだした。角をいくつか曲がったところで、涙が出た。

「……ちくしょう、残酷なことしやがって。なにもかも忘れたのに、なにもかも忘れたはずなのに」

 速水の胸ポケットから、青い光が漏れていた。
何かが煌いていた。それは速水の知らぬ間に、燦然と輝きだしていた。

(全てをなくしたその時に、これはその者の胸に燦然と輝きだすのよ)

 涙を流しながら、瀬戸口はその言葉を鮮やかに思い出した。

「……なんであれが今更出て来るんだ。いまさら、いまさら!!」