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第16回 SIDE−B
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 大テントの上に大猫が一匹。
夜明けが来るのを待っている。

 猫は胸を張っている。その胸の中に、黄金の太陽と比べても遜色のない、光輝く幻想が戻っていた。
だからもう、誰を前にしても下を向くことはないだろう。その胸にそれがある限り、明日、死ぬべき定めがあろうとも。

 猫は誇りを取り戻したのだ。痛みと共に戦いの中を潜り抜ける心とともに。

にゃーん。
 猫は猛獣のように朝日に声をかけた。大地のことごとくを揺るがす、それは声だった。

 大テントの上に猫が二匹。
王と共に夜明けが来るのを待っている。それは東西の副帝であり、白と黒の猫であった。
 猫神族はこの日この時より、組織だった反撃を開始する。

明日を呼ぼうと猫の王は言った。その声に副帝が声をあわせる。しかり、明日を取り戻そう。王は帰還せり、猫族は戦いを再開すると。
声は反響し、家々の猫神族が復唱した。しかり、明日を取り戻そう。我が命、我が血をもって地上に光を取り戻そう。シオネがやったそのように。

大阪で、宮城で、静岡で、台湾で、レバノンで、アフリカで、暗い路地裏から、明るいベランダから、猫は旅に出た。
 猫岳へ、猫岳へ。

その牙にあしきゆめを捕らえ、再びひなたぼっこを、永遠の怠惰を取り戻すのだ。

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夜明け前の天空に星が一つ蘇る。
 光は弱く、雲は厚く、夜は暗かったけれど、それは星だった。紛れもなく。

星は戻ったのだ。あるべき所に。それは神々の復活であり、王道物語への回帰である。

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猫が鳴いている。
遠く遠く、地の果てまでも届くように。

 この日、早く起きて窓を開けて歯を磨いていた滝川は、猫の声を聞いて涙を流していた。

まだ神々の声が聞こえるほどには純朴だった幼い滝川は、声に感応して意味が分からないながら泣いていたのである。

 暗い目をした母親が不審そうにこちらを見るので、滝川は涙を拭きながら、涙に論理的な理由をつけようとした。

「なんだ、畜生。目にゴミが入りやがった」

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翌日。

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 大テントの上に猫が五匹。
夜明けが来るのを待っている。
 その頭上では燕が空を飛んでいる。

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 登校してきたののみは、整備テントに入って来た。
そこは怖い声のする怖いところだったが、この時間だけはそうではなかった。

舞がいて、速水がいる。その時だけは怖い声も鳴りを潜め、代わって清浄な風が吹いていた。
 猫さんのぶーちゃんがお腹を見せて寝ているときは安全だ。ののみはそう学習している。

 舞が顔をあげて喋るとき、その言葉を微笑んで聞く速水がいる間、そこは砦であり、熊本城よりも堅固な城であった。ののみはそう信じている。

 ののみは舞達の邪魔をしないようにテントの隅で一人遊ぶのが好きだった。
最近のお気にいりは、季節のせいか時折、蝶が舞いこんでくることだ。羽根を止めて休んでいる蝶の姿を、ののみは息をとめて観察し、 きれいだねーと思うのが常だった。

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上を見た、ののみは目を丸くして表情を明るくした。
 テントの中に、燕が巣を作っていた。

 ののみにとってそれは大発見だった。今、取り残され、孤軍奮闘する人類と、国からも捨てられようとする九州という小さな島に 援軍が到着することと同じくらいに、ののみにとってそれは大発見だった。
 すぐそのことを周囲に伝えにいったが、原は寝不足の顔で寝不足は肌に悪いと言い、森は速水を見るのをやめて、顔を真っ赤にして 静かにしてくださいと言った。

ののみは、どうして周囲が騒がないのか、不思議で仕方がない。
大発見なのに。ののみは父親から、燕が来たらそれは大発見だ。周囲に伝えなさい。と教わっていた。聞くものが聞けば、それが反撃を開始する合図だと 気付くだろうと。

 ののみは整備テントの外で、無線機の整備をする中村のところへ走った。
みっちゃんはいいひとだ。ののみはそう思っている。ののみの場合、ちゃんと話を聞いてくれる人は誰だっていい人なのだった。

 ののみの想像にたがわず、中村は作業の手を止めてののみに笑ってみせた。
ののみは意気込んで言った。
「うんとね、えっとね、つばめさんがすをつくったのよ」
「お、そりゃ早かねえ。まだ四月始まったばかりばい」

 中村は水筒からカップに水を注いで飲むと、上を見て、どう言えば子供に喜ばれるかなと考えた。

「これはいい事があるかもしれんね」
 中村は笑って堂々と嘘を言った。ののみは嬉しそうに笑った。


 軍人としての中村は、その最後の経歴を、善行の下で華々しく戦った下士官と記録して終ることになると思っていたが、 その馬鹿な行為にこの子までも付き合わせる気はまったくなかった。たぶん、善行もそうだろうと思う。
 あれは割にあわないことをやりつづけてきた男の顔だ。同じオスとして尊敬に値する、愚かで間抜けな苦労人の顔だ。
 中村はそう思っている。男として軍人としての誉れは、ああいう男の下で理想の部下をやることだ。母親を悲しませることになるだろうが、 だがな。残る母親の人生は、胸を張って生きられるはずだ。

 適当なところでこの子を遠いどこかにやろう。そう、Bに頼むのもいい。中村はそう思っている。
それは誰のためでもない、自分のためだ。善行や自分のような人種の人間が悪鬼羅刹のように闘うためには、遠いどこかで誰かが幸せに暮らしている、 そう心から信じる必要があるのだった。身勝手もここに極まる男の理屈である。

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翌日。

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 テントの上に猫が7匹。
夜明けが来るのを待っている。
 その頭上では燕が空を飛んでいる。
ウサギも一羽、一緒に並んだ。

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 暗がりからウサギの脚が見えた。歩いてくる。
黒猫のハンニバルが、口を開く。

「ストライダーか」
「そうだ。王が帰還したのだろう」

迷彩服のジャケットをつけたウサギは、青い瞳を輝かせた。
 前脚を差し出した。
「また共に戦う日々を、待っていた。ずっと」

 大猫が前脚を差し出す。
「わしもだよ、戦友よ」

前脚と前脚が交差する。

 ウサギの胸中を、数々の冒険が去来する。
朝鮮戦争、カンボジア内戦、ベトナム戦争、熊本動物園、飼育係のお兄さん。

最後に立ち寄ったのは、古い知り合いのいる場所だった。
 ビルの屋上にある小さなバーはまだ開いていて、そこでは相変わらず、自分の武器を預かっていた。 銃を置いたその日のように、整備されていた。

「また、こういう日が来ると思っていた」
 主人は手の平で涙をぬぐいながら言った。
「知り合いが死ぬということが、こんなに嬉しかったことはない」
「俺も自分が死ぬことが、こうも晴れがましいとは思わなかった」

主人はホルスターから銃を回転させて取り出すウサギに言った。
それは銃を置いた日と、同じ質問だった。

「誇りは、今どこに?」
ウサギは銃に接吻した。
「今は俺の左胸の中に、あるいはこの銃の弾に」