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第16回 SIDE−C
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<序>
ブルガリアのある教会の時計板には、十二支が描かれている。
違うのは、虎ではなく、本来のあるべきところに、本来の生き物が、つまり猫が描かれていることであった。
遠い昔に中国や日本では廃れていたが、そこではまだ、猫が善き側の六干の長として、竜が率いる悪しき側の六干と激烈な戦いを演じていた。
本来の姿は、竜虎相打つではない。猫竜相打つである。
強そうな竜に同じように強そうな虎が戦うのでは、救いがない。それは合理的な正解ではあっても、神話的な正解ではない。
神話では竜と戦うのは、猫である。竜ともっとも離れ、竜にはとても適わないように見える膝の上でごろごろしている生き物が、
世界の命運をかけて誇り高く戦うから、神話なのである。
その時計盤に、火が灯った。
文字盤の裏、時計塔に住み着いた反幻獣派の人間達が、人類の証である火を灯したのだった。ヨーロッパは幻獣支配下にあり、
そこで灯りを灯すことは、自殺行為だった。
それでも火を灯さずにはいられなかったのだ。恐い闇を払おうと、人は火を手にしたのである。
猫の瞳の所に蛍光燈がともされ、青く光りはじめた。
続いて、鳥と兎の瞳にも光が戻った。
猫と鳥と兎の灯す光に導かれ、散り散りになっていた人間達が教会に集まり出す。
その日、20年ぶりにミサが開かれた。
ぼろを着た神父は言った。
「東の果てでは、まだ人類が文明を守って戦っています。祈りましょう。彼らが勇敢に戦えるように。彼らに少しでも恵みがもたらされるように。
我々の救済ではなく、彼らの元にこそ多くの幸運をと、祈りましょう」
そして顔を歪めて力一杯言った。
「たとえ我々が死に絶えても、まだだ。まだ人類は負けていない。デウスも、我々が築いた文明も、負けてはいない。それはこの地に帰って来るのだ。
いつか、必ず」
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東の果て。テントの上に猫が鈴なり。
夜明けが来るのを待っている。
岩田とウサギ、一羽づつ。
空には無数の鳥が円を描いている。
反撃の時は来たと、誰かが言った。
戦争だ。戦争だ。
我ら神々は滅び、彼女の愛した世界は残る。
良い未来だ。良い未来だ。良い未来に違いない。
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猫達はデタラメに歌った後、前足をさしあげた。鳥達は翼をあげた。
瞬く間に無数の歌声が調律され、夜に輝く星のように、闇夜に無数の青い瞳が輝きはじめる。
一際巨大な猫が遠い昔を思い出した。
黄金に輝く猫達の背を抜けて、黒い髪と、太い眉の少女が、今まさに猫達をかき分けて現れる昔を。
多くの神々が、遠い昔を思った。今もその草葉の陰から、にれの樹の木影から、伝説が歩いて戻ってくるのではないかと、そう思った。
全員がその肩に優しい手が触れることを思った。それは言うのだ。アラダ達よ。武楽器をとりなさいと。
「我が姫君に」
ブータが言うと、神々は一斉に歌いはじめた。猫の神々も、兎の神々も、鳥の神々も。
異なる言葉で、同じ歌を歌いはじめた。
それはどれだけ離れていても、光り輝く黄金のすばる。
それは我らが得たる最後の絶技よ。
星の輝きを我が胸に。貴方を想う喜びを。
絶望の海への航海も、今なら怖れずできるだろう。
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いとかしこきメイデアの姫君、何も持たず、ただ弱者のため涙を流したる無力な女なり。
されど、いとかしこきメイデアの姫君は心に耳を傾ける器量あり。
心に耳を傾けるを恥といい、いとかしこきメイデアの姫君は恥を知る。
無力を恥じ、同情の涙を恥じ、裸足のまま山々を駆け、闘争をはじめたり。
世の姫君が百万あれど、恥を知るものただ一人。民草に歌われし伝説の者。
かの姫君、踊る者、黒き暴風の神を従え、敢然と戦いし。
その後裔こそ英雄なり。
神々は前足と翼と手を叩いて華々しく歌った。
生きたものと生きているもの、幾千万もの歌声とともに、神々は歌う。
その後裔こそ英雄なり。我は英雄のはらからなり。
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一方その頃。
滝川はその日、一人新市街アーケードの路地の隅で座り込んでいた。
滝川は、夜を自宅で過ごすことは、あまりない。自宅では身の安全が保障されないからだった。
滝川の母は、夫である滝川の父を亡くしてからこちら荒れ気味であり、その荒れ模様はしばしば子供である滝川にも及んでいた。
社会保障や人の情にすがって生きる母、社会的な弱者が、その怒りの矛先をさらに弱いものに向ける時がある。滝川はそういう時の、例である。
滝川は、家で寝るよりも路上で寝るほうが安全だと思っている。今では狭いところが息苦しいほどであった。
一緒に遊ぶ友人もこの時間には誰もおらず、滝川は一人で膝を抱いて顔をうずめている。
憲兵が来たら、走って逃げなければならない。ラーメン屋のじいさんに聞けば、自分では戦争のない世の中を経験したことはないのだが、
大昔は憲兵が外を出歩くこともなかったと言う。いい世の中だ。平和ならきっと父もいなくなることはなかったろう。母も、いつも優しいかもしれない。
それだったらきっと俺も、もっと別のなにかになったかもしれない。平和、平和。親が子を傷つけない夢の世界。
んなのがあるかよ。
滝川は顔をうずめながら自分を嘲ると、TVアニメのヒーローを思った。ハードボイルドペンギン、格好いい。
こういう路地で身寄りのない少年が座っていると、ペンギンは言うのだ。白いマフラーを緩めながら。もう勝負はやめたのか、坊主。
滝川はTVアニメが好きだった。なによりも無料というところがいい。
無料なのはオモチャを売るためだと、誰かが言ったが、滝川は信じていない。信じるわけにはいかないのだった。世の中には一つくらい、
損得を抜いたところに子供の味方がいてもいい。
滝川は空を見上げた。星々が輝きだしていた。
この時間、ごみごみした周囲の風景を見たくなくて、滝川は毎日空を見ていたが、これははじめてのことだった。
銀河が、見える。何千の星が瞬いて、滝川は不意に遠い大地をポンコツ車で旅するペンギンを見たように思った。
滝川は立ち上がると、視界の隅を邪魔するビルを排して、銀河の果てを見たいと思った。銀河の終る先に、ハードボイルドペンギンが
銀河をたどって日本に戻ってくる姿が見えると思ったのだった。そう、パリについたペンギンは、遠い故国の危機を聞いて、平和な生活を投げうって
また旅に出たのだと、そう幻視した。
そうするとたまらなくなり、滝川は朝も暗いうちに自転車を漕いで、銀河を追って移動を開始していた。
朝になれば銀河は消えてしまう。滝川は銀河を追いながらそう思った。地平線が見たい。
見るために考える。高いところに行きたい。朝までは、もう少し。
この近くで自分が立ち入りを許される高いところといえば、そういくつもない。具体的に言えば、一個所しかなかった。
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空が紫色になる。
滝川は、間に合ったと思った。
自転車を止め、整備テントを見上げる。
紫色の空に、まだ暗い整備テントが浮き上がって見えた。
いくつも鳥の影も、いくつもの、ぞわぞわも。
……ぞわぞわ?
整備テントの上をふわふわで柔らかい毛が覆っているように見えて、滝川は目を丸くした。
そのまま目をこらし、滝川は口を開いて、自転車が倒れたことも忘れてしまった。
紫色の空に鳥達が円を描き、テントの上に、黄金色の草原に見える猫の背が並ぶ光景。
一際大きな風が吹いた。滝川のゴーグルが風で飛び、額の古い傷口が現れる。
滝川は、それを隠すことすら忘れた。傷口が、黄金の風で癒される。
それは、魂までは傷ついてはいないことだと、足元を旅する兎が言った。人族のおとこしよ、そなたもまた、運命を決める宝剣に導かれたのだろう。
そこで見ているといい。我らの姿を。我らの生き様を。そなたは証。我らがあって戦ったことを残す証。そなたの血が永代に残るよう祝詞を授けよう。
子々孫々まで我らの生き様を語られよ。
滝川は大口を開けて、傷の浮いてない我が身を見て、今まさに滅びの戦争をはじめようとする神々を見上げた。
人には理解できようもない、不可解な美しい秩序に触れて心が震える。
猫と鳥達が整然と並ぶだけで、なぜここまで不可解に美しく見えるのだろう。
世界は行儀良く座る猫と鳥を並べただけで、容易に異形の様相を示しはじめる。
また風が、近づいてくる。風は思い出だった。何年も先まで思い出す優しい風だった。
滝川の肩に、優しい誰かが手を置いた。
士魂号の肩にも、手が触れた。
滝川の目の前、3mの所に少女がいた。草の蔓で髪を結わえ、世界を呑みこむような稀有壮大な青色の瞳が印象的な、眉の太い少女だった。
それは言うのだ。絶望の真中で。
<全てをなくしたその時に、これはその者の胸に燦然と輝きだすのよ>
耳元で剣鈴を抜く音が聞こえる。
<心、震えました。我ら兄弟、貴方の騎士となりましょう>
遥か遠くで魔王のような男が、優しく言った。
<それは夜が暗ければ暗いほど闇が深ければ深いほど、燦然と輝く一条の光だよ。ラスタロロス>
鼓杖を持った絶世の美女が、善行に見える。
<ブータニアス卿、ビアナオーマはたった今決めた。参戦する! いくぞ!>
<猫前進! 姫を守れ>
<にゃーぁぁぁ!> 猫神族80万がときの声をあげる。
滝川は思念の輝きに飲まれ、その輝きの中で我が身を見失った。
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