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/*/ 善行の身の回りの世話をする女、石津萌という少女は、太陽が嫌いだった。 太陽は正しい。人は昼間に生きるべきだと。誰が決めたのか萌には分からない。 冬にホースで水をかけられたことも、髪の毛をむしられたことも、パンツを脱げと言われたこともないのだろう。 萌はそういうことを思う度に自分の顔をかきむしりたくなる。 /*/ 我に返ると、萌は悲しそうな目の善行に、腕を握られていた。 皮膚が破れ、血が出るまで自分の顔をかきむしろうとしていたところを、止められたのだった。 力を抜くと、善行は手を離した。今日は、いつもよりずいぶん早く善行は帰ってきていた。 善行が仕事に追われているせいかもしれない。自分は、善行の気を引こうとしているのかもしれない。そうも思った。善行は、 好きなタイプではないけれど、でも数年は一緒にいる。 周囲の誰が見ても誤解するが、善行と萌は、友達だった。 「まあ、でも大丈夫ですよ。気を長く持ちましょう」 「帰って……来……る……のが……はや……いわ」 善行は、そう言って笑ってみせた。萌から見ても変な制服で、首から下に重そうなカメラを下げている。 /*/ 一方その頃。路地裏で青い光が上がったかと思うと、数名の兵士が殴り倒され、転がされた。冗談のように吹き飛ばされ、
壁に頭をぶつけて意識を失う。 田代香織は、不良である。口より先に手が出るのだった。 「行けよ」 田代の髪はオレンジ色で、手入れがなってない。正確にはしようとしているのだが、がさつなので手入れが行き届かないのだった。 スカートは極端に長く、ライダーグローブは真っ赤である。 すでに市電で戦力を輸送できる段階まで戦線は後退しており、学生の身分のまま戦場に送られた学兵にも、損害は無視できない規模で発生していた。 否、技量未熟で年端も行かぬ者特有の戦意の高さゆえに、数少ない大人の軍人よりも損害ははるかに大きい。 軍人もただの人間である。そしてただの人間が一番規律と士気を低下させるのは、無残な死体、それも同僚のそれを見たときであるのは、 古今東西違いがない。士気が下がると最初に発生するのは、自暴自棄と略奪、暴行などの民間への犯罪行為と脱走である。守るべきものを守るべき存在が 害する。いかに愛国者が覆い隠そうと努力しても、そういう事態は後を絶たない。 田代が叩きのめした相手も、そんな人間の幾人であった。 暴力装置を持つ人間が暴力を振るわずにいるのは難しい。その通り。親父、あんたの言う通りだぜ。 田代はため息をつくと、またかけずり回ることにした。やらんよりはマシだ。そう考えている。 だがそれでも、黙っていられないのだった。 /*/ 場面は変わる。午後三時過ぎである。 猫の言葉と人間の言葉の両方で、最も新しい正義最後の砦と大書された看板の脇を通り、速水は整備テントに入った。 吊るされている士魂号複座型突撃仕様を見上げる。君もそう思うだろう。なんと言っても、半分はあの人に育てられたんだから。 士魂号は何も答えない。 「芝村、今日はもう帰っていいって」 返事は素っ気ない。舞は相変わらず愛機を整備していて、さらに整備するつもりのようであった。我が道を我が作る、地軸は当然我の上という
この人物には、滝川がありがたがる指示も関係ないようであった。 舞は口を開いた。 速水は笑うと、作業を行った。最初生き残りたい一心で始めた戦車整備だが、今はそうでもない。だがやることは同じ。今はもう、 目をつぶってもできる。それでも目を開けているのはこっそりと舞の姿を見るためだった。 「そう言えば、明日、委員長が皆に遺書を書かせるんだって」 「僕? いや、僕は、書く相手なんかいないし」 死んだ本物の速水には家族がいたかもしれない。速水はちらりとそう思ったが、舞は詮索などしなかった。そうか、と言っただけである。 もとより人の言うことを疑ってかかるようなことはない人物である。その寛容は速水の知る世界を畏れさせるに十分で、裏の事情も
洞察しようなどとはしない。物事を受けいれるようにできてはいても、拒絶するようには、そもそも精神ができていないようだった。 代りに少し顔を赤らめて早口で言った。 「僕が遺言を書きたい人はいるけど、たぶんその人は、僕が死ぬ時には死んでいると思うし、だから、書かなくてもいいと思う」 舞は速水の表情でどう思ったか、静かに言った。 舞は人工筋肉を刺激するための電流を調整しながら言葉を続ける。 「それに言っていた。残すものは結果で残せと。だから私は結果を残そうと思う。ささやかかもしれないが、やらないよりはマシだろう」 速水は舞が遺言を残したい人は誰だろうと思った。考えるにつれ、なんだか腹立たしい気がしてきたが、そのうち一番好きな人が死んでいるなら 僕にもチャンスが、いや、自分はなんと心が醜いのだろうと思った。 舞は速水に目をやると、子犬がしょげていると思った。速水は子犬に似ている。犬は良い。猫は逃げるが良い。 「まだだ、まだ何もかも決まったわけではないだろう。そして、決まっていないことは悪いことではない。速水、努力するがいい」 そして速水の視線を感じて、ない胸を張った。いつものように誰よりも自然に堂々と。 なんという傲慢。速水は笑みを浮かべた。それでこそ舞だと思った。悪びれもしないし、曲りもしない。不撓不屈に際限のない度量と努力、 究極の楽天主義が混在している稀有の人だと、速水は思った。 「そうだね。いいかもしれない。でも、なんで急にそんなことを言うの? それに、なんで僕?」 舞は考えた。 それは完全に舞の勘違いであった。速水は利己的で、ずるがしこい男だった。 「……そうか、そうなら仕方ないな。あぁ、うん。じゃあ、世界を守るよ。……うん。はい。イエス」 /*/ 一方その頃、加藤はどうにか予算をやり繰りして、明日の夕食は豪勢にしてやろうと四苦八苦していた。 仕事を熱心にやっていると、岩田に好かれているかもしれないという危険な考えから離れられると、そういう考えも少しはある。 すき焼きは死守や。 問題は肉だ。 加藤が腕組みをしていると、ののみがおっかなびっくり、近づいて来た。勲章置きにも使われる盆の上に乗せた湯飲みをひっくりかえさないように やって来たのだった。 「はい、お茶さんなのよ」 一休みしよう。加藤はそう思うと、髪を縛る輪ゴムを取った。 ののみは大きくうなずいた。決意したようだった。 ののみはしばらく考えた後、首を横に振った。真面目な顔だった。 ののみちゃんは、将来きっとすごい美人になるに違いない。 その清流は口を開いた。 足元で、旅をする兎ストライダーはののみを見上げると、その言葉にうなずいた。 そしてまた旅を再開した。 加藤は野良兎が木の切り株に頭ぶつけてすき焼きにならんかなと思ったが、ののみの表情を見てごめんと謝った。 そして言葉を続けた。 /*/ 善行が部屋着である作務衣に着替え、和室に座って緑茶をすするころには、萌はなんとか平静になり、このじじくさい軍人は、 やはり自分の好みではないと思った。 善行は自分をどう思っているのだろう。 善行にとっては、私は本当に人形と同じ。座っているだけでいい。実際、私に声をかけているわけでもないのだ。
/*/ その頃、田代は留置場にいた。 憲兵に事件を話し、殴ったことを認めるだけで留置場には簡単に入ることができた。 留置場のドアを開けながら、年寄りの憲兵は優しく言った。 皮肉に笑う田代。 なおも優しく、憲兵は言った。 田代は背筋を伸ばすと――憲兵よりも背が高かった――相手の目を見ながら言った。 田代は、この爺さんは結局それが言いたかったのだと納得した。感謝はするが、だが田代はあえて冷たい声を出す。 田代はもう話すべきことは終わったとばかりに、留置場に入った。口を開く。 そして隅に座った。 そして声をかけた。 田代はそう言って、目をつぶった。 /*/ 同時刻。 殺風景な家に帰り、母猫と食物を半分ずつにして食べた後、速水は目をつぶって舞を思った。娯楽など何ひとつない部屋だったが、 速水は今日見せた舞の笑顔を思い返し、誕生日が来たように幸せそうに微笑んだ。 そして考え、思いをめぐらし、そうか、芝村は僕を励まそうとしていたのだと、いまさら思いついた。 励ましが一緒に世界を守ろうというのはさすがスケールが違うと思い、そして嬉しさに一緒に同居する母猫を抱いて転がりまわった。 /*/ 夕食を済ませると、善行は決まって上座で緑茶を飲む。 甘いものに一切手をつけず、お茶を飲む若宮。まずい海兵隊のコーヒーが飲みたいと、今も発作的に思うときがある。あれには突撃錠の成分でも 入っていたのだろうか、とも思う。 若宮は善行が読むところのない新聞を几帳面に読むのを見て、口を開いた。 「もう一人の自分ですが」 なにもそこまでしなくてもと善行は思ったが、成体クローンは個性づけが人格安定上最重要だとどこかの本で読んだことを思い出し、
うなずくことにした。 家令の若宮はその考えもお見通しだと、うなずいた。 家令の若宮が萌を見ると、萌は静かにうなずいた。 善行に嫌われたくないのだろうか。善行にさして必要ともされていないのに? /*/ 加害者もいれば被害者もいる。だが世の中の複雑なところは、両方を兼ねる場合もある、という事につきる。 部隊の宿舎で支給の煙草を吸いながら、田代に殴られた学兵たちもそんな例であった。 「あの女、また出やがった。糞っ」 「幻獣より憎らしい奴だ」 どうしようもない人間には、どうしようもない人間が集まる。 「3、4人じゃ勝てねえから、人数で攻めよう」
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