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舞は口元に両手を合わせるようにして、かわいいくしゃみをした。
ののみが風邪? とたずねる。舞と話をしようと、縄梯子をのぼって士魂号の戦闘室ハッチまで来ていたのだった。下の方では、
速水と滝川と若宮が話している。
「いや、噂だろう」
舞はそう言った後、真面目な顔で、こういう時は兎が噂しているのだ、いや、速水かもしれんと、言った。
ののみは、ふえぇ、舞ちゃんは物知りだねえと言った後で、うれしそうにヨーコの絵本を見せた。
「うんとね、えっとね、いぬさんはながいきなのよ」
「ふむ、そうか」
舞は珍しく微笑んだ。その本には見覚えがあった。幼い時に、父に作って貰った絵本だった。娘が猫好きなのにわざわざ犬の絵本を作ってきたのだ。
その者は人外とも言えるひねくれ者だった。
舞は苦笑いする。さらには死んだ後で戦闘を前にした娘を見舞うことまでやってのけたか。つくづくあらゆる世の理に反逆せねばすまぬ男だ。
そして、父は遠い昔に死んだが、心は今もここにあるのだろうと思った。
元々うさんくさい人物だったが、今は本格的にうさんくさい存在、つまり妖精だかなにかになって大気を飛びまわり、子らを守る存在となったのだと
納得する。そして透き通った羽の生えた父を想像し、あまりの不似合いさに笑った。なんとまがまがしい妖精だろう。見つけたらハエ叩きで迎撃しようと
思った。
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壁に押さえつけられ、前には至近距離の瀬戸口と来て、壬生屋は思わず手で胸をかばい、目をきつく閉じた。
上を見る瀬戸口。一歩離れる。どういう女だと、さげすんだ。俺が何かするかだと!? 自意識過剰にも程がある。
瀬戸口は壬生屋がまた嫌いになった。この女は嫌いだ。見るたびに自分が一番大事にしている聖なる偶像が汚される気がして、無性に腹が立つ。
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瀬戸口のまぶたの裏で、黒い髪が広がる。
絶対なる優しさと、透徹した観察眼、揺るがない意思、その身に刻まれた理不尽。
瀬戸口は怒る。世界を敵にまわしてやる。彼女をこんな目にあわせた奴を、おでは全部殺してやる。
だが彼女は言うのだ。理不尽の最たるものとして、鬼よ、世界を守りなさいと。
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気づけば瀬戸口の目からは一筋の涙が流れており、壬生屋が心配そうに自分を見ていた。
意識を現実に戻す。
壬生屋から差し出されたハンカチを拒絶し、瀬戸口は手で涙をふいて口を開いた。
「あのな、伝令に文句言うのは筋違いだ。それくらいも分からないのか」
「……でも、味方が戦って」
涙をどう思ったのか、消え入りそうな声でつぶやく壬生屋を、瀬戸口はすみれ色の瞳で見下した。
「でもじゃないだろ。お前がやっているのはただの嫌がらせだ」
「でも」
瀬戸口はいらいらして口を開いた。
「若宮は歩兵部隊出身なんだ。お前さんより、もっと言いたいことがあるだろうさ。……だが、命令は命令だ。奴に何が出来る?
委員長には考えがあるんだろうさ。あの人だって歩兵の出だ。そもそも知っているのか。委員長の実家は小倉にある。熊本で俺達を率いて戦うくらいなら、
実家を守って戦いたいと思っているはずだ。それでもな、委員長は指揮を執っているんだ」
瀬戸口は言った。
「お前は何様なんだ? 何の権利があって人を非難できる? お前はそんなに偉いのか?」
今度は壬生屋が泣く番だった。口に手をあてて、走って逃げ出した。
瀬戸口は俺が悪いのかと逆上し、舗装された地面を蹴った。
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その頃、新井木は原から平手で殴られ、起き上がったところを脚で蹴り上げられていた。
原は、冷たい目でのろのろと動く新井木を見下した。
「弾をちゃんと見ろと、言ったわよね?」
「は、はい」
新井木は滝川から骸骨女と陰口を叩かれるほどのやせぎすで背の低い女である。
髪は短く、肌は少々浅黒い。世の中を、自分以外の全部を小馬鹿にして生きてきた。
原は新井木の返事が生返事だと思った。二度三度蹴る。
「不良弾で装弾不良になったら、それでパイロットと戦車が失われるのよ? この馬鹿。ここで貴方を事故死させた方が、味方の損害が少ないって、
そう思わないの?」
これ以上蹴られると死ぬかもしれない。新井木は口から反吐を吐きながら原の脚にすがりつき、泣きながら許してください許してくださいと言った。
岩田くんと比べて蹴りがいないわね。原は思う。これが出来る奴と出来ない奴の差か。
「汚いわね。すがりつかないで。貴方は言われた仕事をやればいいの? 全身全霊で」
「はい……はい……」
原はとどめにもう一度蹴った。十分な敢闘精神が注入されたろうと考える。生身につま先が入る感覚は気持ち悪いので、今度は精神注入棒を
手に入れようと思う。
そして振り向いた。
「森さん、悪いけどこの馬鹿につきあって、また最初から弾薬チェックして。30分で」
「え、はい」
森は速水の機体を整備する名目で、速水の所に行き、お守りを渡す予定だったから、これには情けない声で返事した。
原はため息をつき、もう一度声を出す。
「弾のチェックが25分で終わったら、5分休憩をあげる。その間にやることやりなさい。急いで」
「はい!」
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壬生屋は自分の機体のところに戻ると、ハッチを閉めて無線入力を切り、大声で泣いた。
自分の兄が歩兵で、幻獣に殺されたことや、ばらばらになったその死体を母が拾い集める姿を見たことなど、自分にだって悲しいことが一杯あったのに、
それをうまく伝えられなくて、瀬戸口に軽蔑されて、それでそれで……
壬生屋はすがり付いて泣く友達もおらず……加藤は留守番だった……一人でコンソールを叩いて泣いた。
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一方その頃、善行の所に報告に来た原は、弾のチェックが遅れていることを伝えた。
あと30分必要ですと言うと、原の予想に反して善行はうなずいて見せたのだった。
「ええ。丁度いい時間になるでしょう」
そう言った後で、善行は原の目を見て、そして服の下を見透かすように口を開いた。
「それと、私の部隊では部下への私的制裁はやめてください」
原は頬を赤らめた。どうしてこの男は仕事となると、透視能力者のようになんでもかんでも見透かして言うんだろう。そして口を尖らせた。
「整備は私の預かりよ。貴方にも口は出させないわ。……ただでさえ故障するのに、この上整備不良で損害出すわけにはいかないのよ」
善行は周囲に人が居ないことを確認した後、眼鏡を取って言った。
「では個人として言いましょう。貴方が暴力を振るうのを見るのは忍びない」
原は善行のネクタイを右手で引っ張って離すと、口を開いた。
「……では個人として答えてあげる。貴方の輝かしい戦歴を傷つける訳にはいかないのよ」
皮肉そうに笑う善行。
「輝かしい? 死んだ部下の数ですか?」
原は憎らしい顔をすると、善行のあご髭を引っ張った。
「それと、貴方のそういう態度が、私、大っ嫌いなの。貴方は私を案じるふりをして、そうやって私を自分の所から遠ざけるのよ」
そして一歩離れると、崩れた敬礼を見せて背を向けた。
その背に善行が声をかける。
「男として当然です。戦場には馬鹿で愚かな種族だけが来るべきだ」
原は振り返った。
「その感覚が親父なのよ。馬鹿。それとあご髭くらい剃りなさい。今度見たらむしるわよ」
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「あと30分だそうです」
今度は善行の個人的な部下である宮石が伝令に来ていた。隻腕である。
「そうですか、ありがとうございます」
宮石に対し、速水はそう答えると、立ち上がってのびをした。
「じゃ、お昼でも食べましょう。僕、みんなの分のサンドイッチも作って来たんです。ねえ、芝村! 芝村!?」
速水が士魂号に声をかけると、ののみと舞が同時に背面ハッチから顔を出した。
「お昼にしようよ」
「分かった」
「うんっ」
速水は滝川と若宮を見て微笑むと、壬生屋にも声をかけようと、縄梯子を昇って、ハッチをノックした。
ぽややんだ。
ぽややんがいる。
周囲の視線を無視し、速水は優しく、そしてにっこり笑った。
1区画先は戦場で、30分後には戦場に立つ男とはとうてい思えない、優しい笑み。
「壬生屋? お昼ご飯を一緒に食べよう」
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戦闘室の中の壬生屋は涙をふくと、すぐ行きますと答えた。
速水くんが気を使ってくれたのだと思った。
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ぽややん、と呼ばれた速水には速水の言い分があった。
どうしようもない時は、どうしようもない。
戦闘は来るのと同じくらいに、確かに今は昼食時なのだ。どうしようもない。昼食時に昼飯を食べる以外に何をしろと言うんだ、というものである。
開き直りでもなんでもなく、そう思っていた。そもそも速水としては、別段戦闘前だからといって緊張はない。それまでの人生はそれぐらい
死や恐怖は身近であり、そして速水は士魂号の戦闘室で舞とともに居る間は、死をも許すことが出来た。
速水はこの日のためにたくさんサンドイッチを用意していた。
昼時になると不意に姿を消す舞と食事するには、このタイミングしかないと、ずっと考えての計画的行動だった。舞が物を食べる所を、
一度でいいから見てみたかったのだ。
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そして皆で食事した。車座である。速水は、思いもかけず舞とののみに挟まれて、うれしかった。
「うまそうだな。俺、全部食べるかもよ?」
と言っていた滝川は、ほとんど食べることが出来ず、戦闘の時刻が近づくにつれ、頭をかきはじめていた。
若宮と宮石は、死んだ後に腹からサンドイッチが出てくるのは、どうもまぬけですなぁと言って食べず、お茶だけを飲み、壬生屋は少し悲しそうに
微笑んで、申し訳程度に食べた。ののみは普通に食べたが、元からあまり食べるほうではない。
残る結果、たくさん食べたのは舞と速水である。二人としては普通だったが、この席に限って言えば、突出して食べまくっているように見えた。
「味付けには結構自信あるんだけどな」
と言う速水。漢らしく食べる隣の舞を見る。
舞は食べる手をとめ、速水を見返した。
「なんだ、食べないと大きくなれないのだぞ」
舞は言った。
速水は、やっぱりかわいいなあ、食べるところを見れて僕は幸せだと考えた後、我に返って驚いた。
「ええ? それ以上伸びるつもりなの?」
「当たり前だ。リードは広げるに限る。ははは」
腕を組んで高笑いする舞。
「あんまり背が高いと、戦車に乗れなくなりますよ」
壬生屋は少し笑いを誘われて言った。
「そもそもリードってなんだよ」
左右を見てたずねる滝川。
「なんだ、知らぬのか? 私の方が速水より背が高い」
舞は、ない胸をはってそう言った。
「計測誤差だよ!」
速水はわめいた。兄弟のようだと言われるのは仕方ないにしても、せめて兄のようだと言われたかったので、この点は首肯しがたいところである。
「なんなら今一度勝負してもいいのだぞ」
舞の目は本気だ。血筋か性格か、勝負となればどんなことでも勝ちたがる。
「いや、まあ、今日はその、正確に測る機械ないし」
速水は視線をそらした。
「ふふん」
そして今日も勝ったと思う舞。自分の心の中の連勝記録を塗り替えた。
速水は舞に周囲の視線が集まるのを見て、舞が無骨な互尊…男性用ウォードレスを着ていて良かったと思った。壬生屋のようにボディラインが出る
女性用ウォードレスを着て視線を集めたら、すごく嫌だと思った。
「それにしても、初陣で大した度胸だ」
宮石は感動したように言った。
「ぽややんなんですよ、奴は。それと、芝村は芝村だから」
滝川が答えた。
先に食事を終えたののみは、絵本を広げて読み上げていた。
献身的な国語教師、芳野の指導の甲斐があり、この頃ののみは平仮名は読めるようになっていたのである。
<おおかみはひとをたべるさだめをうらぎり、なまえをかえて、いぬとなのるようになりました。>
何を思ったか、舞が吹き出したので速水はびっくりした。
シーズーのご先祖は狼だったということが、舞には大受けだったのである。
今日は一生分を笑ったかも知れぬと、舞は思った。そうか、速水は、昔は狼だったのかも知れぬと思う。そして狼のような速水の姿を想像し、
あまりの不似合いさに笑った。なんとかわいらしい狼だろう。そのようなものを見つけたら仲良くしようと思った。
舞は口を開いた。
「なるほど、そなたもまた、運命を裏切り、反逆する者なのだな」
「なんのこと?」
速水は尋ねた。
「我々のような関係を友人と言うらしいぞ」
舞は微笑みながら言った。
速水は、友人じゃ嫌だと思ったが、いやでも無関係よりは友人の方がいいかもしれないと思いなおした。この笑顔を見ることが出来るなら、それでも。
「空元気ですらない。すごい胆力だ」
宮石は感動したように言った。
それには若宮も同感だったが、一方で危うさも感じていた。速水は恐怖のあまり、自暴自棄になっていないといいんだが、と思った。
だが口に出したのは別の言葉である。
「そろそろ時間ですな。自分は相棒を探してきます」
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