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傷だらけのビーナ 試し読み4
桝田 省治

http://www.alfasystem.net/a_m/archives/281.html


[港の秘密基地]


「その後、あんときの傷はどうっスか?」
 ヤトマの唐突な質問に、ビーナは困惑した。
「だ、大丈夫だよ。あとが少し残ってるけど」
「イヤじゃなければ、ちょっとだけ見せてもらって、いいっスかね?」
 本当はイヤだった。それに本当は“少し”じゃない。だけど、ヤトマは命の恩人だ。それに全部知っている。
 ビーナは、弓を持っていた左手の袖口を右手でつまむと、肩のあたりまで一気にめくりあげた。
 陽に焼けた小麦色の二の腕に、白っぽい桃色の線が×のカタチにくっきりと浮きでている。パッと見た感じは、すすけた板の上を指でなぞった印象だが、
「なんだよ、こりゃ。ミミズみてえだな」
 勝手にのぞきこんだロウザイが言うとおり、土の上を這いまわるミミズのほうがずっと似ている。よく見ると、傷の一本一本が少しふくらんでいて、細かく引きつっているからだ。これが顔以外、ビーナの全身を今もおおっている。
 ヤトマは、考えごとをしているようにじっと傷を見つめていたが、やにわに顔を上げる。
「もういいっスよ。本当に申し訳ない。できるだけていねいに縫い合わせたつもりだったんスけどね、なにせ数が数だったから……」
「命を助けてもらってぜいたく言ってたらバチが当たるよ。大丈夫。気にしてないから」
 ビーナは、長い袖をさっと引っぱって元に戻し、ヤトマに向かって懸命に微笑んだ。
“気にしてない”はもちろんウソだ。この傷を気味悪がらなかったのは、コバじいさんだけだった。
「了解っス。じゃあ、エル隊長に会いにいきましょうか!!」
「ホント!? エルに会えるの?」
 ヤトマは、やや垂れたまなじりをさらに下げた屈託のない笑顔でうなずくと、ビーナの背中を軽く押した。
 並んで歩くビーナとヤトマのあとにロウザイがついてきていた。ぜんぜん懲りた様子もなく、とめどなく続く口汚い文句に混じり、左足を出したあとに右足を二度引きずる独特の三拍子がつかず離れず聞こえている。
 勇壮な兵たちの行進に沸きたつ大通りを左に折れると、独特の生臭いニオイが漂っている。
“マリーシャの胃袋”と呼ばれる市場通りだ。
 朝夕には色とりどりの天幕を張った無数の店が軒を並べ、自分の足が見えないほどの人出と真っ黒なハエでいっぱいになる場所だ。だが、昼下がりの今は、大通りの出陣式とも重なって拍子抜けするくらい閑散としていた。
 市場通りをしばらく歩けば、その先にオロロチ河の雄大な流れが見えてくる。
 王都マリーシャは、オロロチ河の下流に開けた交易都市だ。
 内陸に点在する農村や山村と、海に面した工業都市ミットナットをつなぐ陸路と水路のいわば交差点に位置し、大量の人と物が昼夜を問わず集まってくる。
 オロロチ河の港には、国内の船ばかりでなく海外から来た巨大な帆船も停泊していた。
 川に面してずらりと立ち並ぶ倉庫街は、広さだけなら王宮に匹敵するほどだ。
 どうやらヤトマが向かっているのは、その倉庫街の王宮に近い側の一角のようだ。
 ビーナは、道すがらこの八年間にあったことを、ヤトマに訊かれるままにしゃべっていた。人と話すのが久しぶりで楽しかったせいもあるが、ヤトマが稀代の聞き上手だったからだろう。

 ビーナは、十七歳になっていた。
 あの忌まわしい惨劇のあと、ビーナは親戚の間をたらいまわしにされた。
 最初の二年はひどかった。言葉を失い、こわくて家から出られず、ことあるたびにあの日の記憶がよみがえり、泣きわめきながら嘔吐と失禁と発熱を繰りかえすのが常だった。
 結局、最後にビーナを引き取ったのは、母方の祖母の弟、コバ。齢七十を超える寡黙な老人だ。
 山奥の狩人小屋での暮らしは、コバじいさんとビーナのふたりきり。とにかくなんでも自分でやらなければ生きていけない。朝から晩まで忙しく一年中厳しい気候だった。だが、あれこれ考えている余裕などない生活がかえってよかったのかもしれない。ビーナの心身は、日々ほんのわずかずつ回復していった。
 同時に、ビーナは、山で生きていくための知恵と技術をコバじいさんにたたきこまれた。とくに弓は、飛距離はともかく正確さなら誰にも負けない自信ができた。
 風邪をこじらせたコバじいさんがあっけなく亡くなったのが半月前のこと。
 ひとりぼっちになったビーナは、キルゴランとの大戦【ルビ:おおいくさ】が近々あるとの噂を耳にするや、弓兵に志願しようと王都マリーシャにやってきた。それが三日前だ。
 ビーナは張りきっていた。軍に入隊すれば、あの片目の不気味な男にきっといつか出会える。家族や友だちの仇を必ず討つ。大切なものをすべて奪いさっていったあの男を「ぶっ殺す!!」、再びそう誓いを立てた。
 初めて訪れた王都は、山育ちのビーナを驚かせるものばかりだった。
 まず人間の数と歩く速さ。街全体が軍隊バチの巣に矢を射たときのような喧騒に包まれていた。
 次に建物の数と規模。ビーナは、チグルの神木より高い物がこの世に存在するとは思ってもみなかった。ましてそれを人間が造ったなんてにわかに信じられない。
 三つ目は、店先まであふれでて、それでも足りず、うずたかく積みあげられた見たこともない物品の数々。とくに海産物の異様な造型と衣服の派手な色には度肝を抜かれた。
 だが、そんなことはどうだってよかった。王都の見物に来たわけじゃない。目的は別にある。
 ビーナは鼻息も荒く、王宮前の広場に設けられた志願兵の登録所に真っすぐに向かった。
 そこで、待っていたのは、当然のごとくいつもと同じあの決まり文句。
 久しぶりに聞いた気がした……、
「女には無理!!」
 何度かけあっても、自慢の弓を披露する機会も与えられず、話さえ聞いてもらえない。挙句には一方的につまみだされ……、
 ビーナは、目の前をただ通りすぎていく兵隊の行進を、爆発寸前のムシャクシャ腹でにらみつけていたというわけだ。
 そこにたまたま聞こえてきたのが、酔っぱらったいけ好かないハゲオヤジの戯言だ。たぶん言った本人は聞こえているとは思っていなかっただろう。だが、山では小さな音ひとつ、聞き逃しただけで身を危険にさらす。雑踏の中で人間の声を聞き分けるくらい、ビーナには造作もない。
 ハゲオヤジは、最初、お守りにしている精霊【ルビ:ボンゴロス】の面に、よりによって「縁起が悪い」と難癖をつけていた。
 ビーナは、この面を常に肌身離さず持ち歩いている。あの事件以来、精霊の姿が見えなくなったビーナが、故郷を思い出せる唯一の品、心のよりどころだったからだ。
 次に聞こえたのは「若い女のお尻を肴に飲む酒は格別」とかナントカ……。
 このハゲオヤジこそが、女をさげすみ「女には無理!!」と決めつける、わからず屋の男たちの権化に思えてきたら、もう我慢ならなかった。
 だけど、実のところは、うっぷん晴らしができるなら理由はなんでもよかったし、相手だって男なら誰でもよかった。ようするに八つ当たりだ。それは自分でもわかっていた。
 からかうつもりで弓を引いた。もちろん本気で射【ルビ:う】つつもりなどハナからなかった。
 だけど、ハゲオヤジときたら毛の先も反省の色がない。
 で、思わず、売り言葉に買い言葉。いつの間にか退くに退けなくなっただけ。
 正直「どうしよう?」と困り果てていた。
 だから、ヤトマが声をかけてくれたのは渡りに舟!! 感謝感激!! 乾季の雨!!
 それに「何やってんスか?」と「……だけっスよ」の“ス”の音。それを聞いた瞬間、胸の内に温かいものが込みあげ、力が抜けて自然に弓を下げていた。
 その温かいものの正体は、すぐにはわからなかったけれど、次に耳に飛びこんできたのは“エル”の名前。これでビーナの記憶は完全によみがえった。
 気がつくと「エルに会いたい!!」、大声でそう叫んでいた……。

 歩きながらしゃべっていたのは、もっぱらビーナだったが、ヤトマのほうからもひとつだけ話があった。それは奇妙な助言だ。
「きっと、あなたの元気な姿を見れば、エル隊長も喜ぶと思いますよ。あ~、でも、あの人を知るには時間がかかると言うか、付き合うのにちょいとしたコツがいると言うか……、極端に感情表現が下手なんスよねえ。そこがまた面白いんスけど。だから、こうしましょう。よくわかんないときは、こっちを見てくださいな。オレが頭に手を当ててたら、エル隊長は笑っている。鼻の頭をかいてたら怒っている、ということでいいっスか?」
 この注意が、本気なのか冗談なのか量りかねたものの、ビーナはとりあえずうなずいた。
 ちなみに、「泣いてるときは?」とビーナが訊ねると、
「エル隊長は、どんなときも泣かないっスよ」とヤトマが応えたあとに、
「けッ、あのクソ尼には血も涙もねえんだよ!!」と、ハゲオヤジが唾と一緒に吐き捨てた。
 つくづく心根の腐った最低のオヤジだ……。
 ビーナは腹立たしかったが、ヤトマはあいかわらず笑みを絶やさない。もしかしたら、エルよりヤトマのほうがよほど表情が読めないかもしれない。
 そんなことを思いながら、ヤトマの顔を振り向いたとき、ヤトマが足を止めた。
「あ、ここっス。近道なんで表から行きましょう。どーぞ、遠慮なく」
 手招く先にあったのは、チグル村がスッポリ入りそうなほど大きな倉庫の、ビーナの生家より大きな扉だ。中からにぎやかな話し声が聞こえている。
 扉の中をのぞき見ると、上半身裸のいかつい男たちが二百人くらいいた。
 ここは、港で働く人足たちの寄り合い所のようだ、
 地面から一段高い板敷きの広間に座りこみ、男たちがご飯を食べたりサイコロ遊びに興じている。横の壁には大きな黒板がかけられていて、そこに書かれた白い文字や数字を真剣な面持ちで書き写している人もいる。かと思えば、床でのん気に昼寝をしている者もいて、人を踏まないように歩くのが難しいくらいの混雑ぶりだ。
 入口に立つと、女が珍しいのか、何十人もの男の目がジロジロと見ているのがわかった。
 ――本当にこんなところにエルがいるのだろうか、あたしはだまされているのかもしれない。
 そんな疑念がビーナの脳裏をかすめたとき、ヤトマが部屋中に響くような大声をあげた。
「皆の衆、聞いてくれ!! 先に言っとくけど、この娘さんはエル姐さんの妹分だ。お尻に触ったりしたら、腕が飛んでも知らないっスよ!!」
 ヤトマの口から出まかせに大の男たちが飛び起きて道を作る。その中を「はいはい、ちょっとごめんよ」と、ヤトマはビーナの手を引いてどんどん奥に進んでいった。
 どうやらエルがここにいるのは本当のようだ。それにしても……
「ここ、どこ? エルはここで何をやってるの? ……料理人?」
 男たちがたむろする広間の奥には、大きな厨房があった。巨大な魚に巨大な包丁をたたきつける音、「急げ!!」と怒鳴る声、突如として天井近くまであがる炎。その喧騒の中で数人の料理人が片時も休むことなく動きまわっている。
「ご苦労さんっス!!」
 ヤトマは、料理人たちに笑顔を振りまきながら、ビーナを連れてさらに奥へ進んでいく。
 なかなか質問の答が返ってこないと思ったらヤトマの口はふさがっていた。厨房を抜けるとき、いつの間にかつまみ食いをしていたらしい。
 厨房の隣にあったのは食料庫だ。ビーナの背丈の二倍はありそうな棚が何列も並んでいる。その棚には、肉魚、野菜、米麦……、さまざまな食材や調味料が雑然と詰めこまれていた。
 ヤトマは、果物の棚から熟れたマンゴーをふたつ取ると、そのひとつをビーナに渡す。
「港の人足さんに仕事を斡旋して、船主さんや倉持ちさんから手間賃をいただいてんスよ。昨日までは軍事物資の荷降ろしでテンテコ舞いの大忙し。今日は、ちょっと暇みたいっスけど。あとは見てのとおり、食堂をかねた簡易宿泊所というところっスかね。オレはそこの番頭で、エル隊長は元締め……表向きは」
「表向きは?」
 ビーナが繰りかえしたとき、乾物を満載した棚の後ろにヤトマが隠れるように入っていった。そこには大きくて頑丈そうな両開きの扉があった。
「それは、エル隊長に直接お訊ねなさいよ。あなた、あの片目野郎を“ぶっ殺す”んでしょ? お国のためよりわかりやすいし、そういうのもアリじゃないっスかねえ。さッ、どうぞ」
 ヤトマはニンマリと笑うと、大きな扉を重そうに押しあけた。
 その先には、まぶしい光があふれ、天国まで続いていそうな長い昇り階段が見えた。


(明日は一章3[再会])
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