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[再会]
梯子【ルビ:はしご】と見まがうばかりの急傾斜なのに、その階段には手すりの類が一切なかった。もしも落ちたらケガではすみそうもない……。
ヒヤヒヤしながら、高さにして三階分ほど階段をのぼった先には、下にあったのと同じような両開きの扉があった。少し違っていたのは、左右の扉に縦長の紙が一枚ずつ貼られていたことだ。
その紙には文字らしき記号がびっしりと書かれていた。大半はなじみのない記号だが、見覚えのあるものもいくつか混じっている。
×、◎、◇、V、И、△……それはビーナの全身に今なお残る傷あと、精霊の名前を表す印だ。
「これは? 魔物が入ってこれないようにするお札か何か?」
「それもあるけど、どっちかといえば逆っスかね」
「どういう意味?」
ビーナの質問に、ヤトマはあいまいに笑いかえすと扉を開けた。
その瞬間、モワっと押しよせてきたのは透明の魔物……ではなく、思わずあとじさるほど濃厚な男くさい空気だった。
窓が少ないのかもしれない、昼間だというのに中は薄暗い。
左右と正面に長い廊下が続いている。廊下の左右には、入口にすだれをかけただけの小さな部屋が、見えるだけでも二十近く並んでいる。
太い梁が何本も通り、天井が斜めに傾いているところから考えて、この空間は倉庫の天井裏だろう。
「ンおおおお……!! ンああああ……!! ンむむむむ……」
突然、右手のほうから獣がうめくような奇声が響き、ビーナの身体がビクリとした。後ろからは、ハゲオヤジのいかにも不快そうな舌打ちが続く。だが、ヤトマは、まるであの声が聞こえていないかのようにスタスタと歩いていく。その表情はあいかわらずだが、あの奇声については質問されたくない雰囲気がありありと見えた。
ビーナは、ヤトマのあとについて歩きながら、すだれが上がっている部屋の中をチラチラとのぞいた。木製の簡素な二段組の寝台と横長の机と椅子が二脚、縦長の引き戸がついた物入れも見えた。どうやら全室とも家具の種類と数は同じだ。
たまに脱ぎっぱなしの下着が寝台の上に放置されたままの部屋もあったが、だいたいは整理整頓されている。
すだれが下りている部屋のいくつかからは、寝息が聞こえていた。
ここで数十人の男たちが常に寝起きしている様子だ。
正面の廊下を少し進み、左に曲がった突きあたりの部屋の前で、ヤトマが立ち止まった。
この部屋だけは、入口にすだれではなくしっかりした扉がついている。この扉にも、先ほど見たのと同じお札が貼られている。しかも、こちらは扉の取っ手が埋まるほど隙間なくおおっている。
その執拗さを目にしたとき、ヤトマがさっき言った“逆”の意味がわかった気がして、背中がひやりとした。
これは入るのを防ぐのではなく、出るのを止めるお札なのだ。つまり、この扉の向こう側には、とんでもなく危険なものが封じられている。
――いったい何があるの?
ビーナの不安をよそに、ヤトマは躊躇なくその扉を拳の先で二、三度軽快にたたき、中からの返事を待たずに扉を開いた。
その瞬間、ビーナは目がくらんだ。
正面の大きな窓いっぱいに見えたのは、オロロチ河だ。船の帆柱がすぐ近くに見え、午後の強い日差しを反射した水面がキラキラと輝いている。
その清らかな光と窓から入るそよ風のおかげだろうか、この部屋には男くささを感じない。
「ヤトマ、戻りました。ロウザイ隊長をお連れしました。それと懐かしいお客さんも」
ヤトマに手招かれ、ビーナはおそるおそる部屋に入った。
思った以上に広く横に長い部屋だ。ここには壁だけでなく天井まで先ほどのお札が雑に貼られている。壁際には真っ黒で人の背丈ほどもある大きな祭壇がズラリと並んでいた。まるで立てかけられた棺おけだ。その一つひとつに果物と花がていねいに供えられている。
「懐かしい…………客…………?」
やや口ごもった声がしたほうを見れば、部屋の隅でがっしりした体格の大男が四人、頭を突きあわせるようにして、円卓を囲んでいた。すぐそばに椅子があるにもかかわらず誰も座っていない。
全員が今すぐ出陣できるような出で立ちだ。帷子【ルビ:かたびら】の上に使いこまれ黒光りする革の鎧を身につけ、かたわらの床にはさまざまな武器が無造作に置かれている。
その輪の中にひとりだけ女がいた。歳は三十半ばだろう。細身だが、背丈はまわりの男とそう変わらない。女としてはかなりの長身の部類だ。
女も胴体の前面と腰の部分にいちおう革の鎧をつけていた。だが、肩も首も手足も背中も青白い素肌が露出している。ようするに下着のような薄っぺらな鎧以外、女は何も着ていない。武器はといえば、腰にさげた大振りのナイフ一本だけだ。
短く切った頭髪は、前の部分だけ色が抜けていた。その白い前髪のかたまりが左眼を隠すように垂れている。女は、思索に集中するようにうつむいていた。
「エル?」
ビーナは、無意識に声に出して名前を呼んでいた。
その声に顔をあげた女は、なぜか左手に大きな丼、右手に朱色の箸を持っていた。その箸でビーナを指している。
「エルは…………私だが…………あなたは…………?」
そう訊ねたエルの口元から赤い物がはみだしていた。しゃべるたびに跳ねるように動いているのは、ゆでたエビの尻尾だ。
どうやら昼食の真っ最中だったらしい、よく見れば男たちも丼と箸を持っていた。
食べていたのは、魚介類のぶつ切りをのせた茶漬けご飯。卓上には、大皿に盛られた根菜の煮物も見える。そういえば、下の寄り合い所で同じものを食べている人を見た気がする。
「ビーナです。お久しぶりです。お食事中、すみま……」
「ごめん、覚えてない。…………誰だっけ?」
挨拶の途中でエルに言葉をさえぎられ、ビーナはとまどっていた。
チグル村の名前を言おうかどうか迷っていたとき、目の端にヤトマが見えた。こちらを見ながら、何度も鼻の頭を指先でかいている。
鼻の頭をかいているということは、
――うそッ!? なんで!? エルが怒ってるってこと? あたし、何かまずいことした?
ビーナには、エルが怒っている理由がわからなかった。せっかく会えたのに泣きたい気分だ。
エルは、とくに怒っているふうでもなく、ビーナにチラリと目をやる。
「ビーナ。悪いが、少し待っていてくれ。食事も打ち合わせもじきに終わる。そのあとに話を聞こう。あぁ、ロウザイ殿も申し訳ないが……」
そう言うと、エルは箸の先で壁際の長椅子を指した。そこに座って待てという意味らしい。
ロウザイは、例によって品のない舌打ちをしたものの、指定された長椅子に向かった。腰の青龍刀を外して脇に置くと、長椅子の真ん中に脚を大きく広げてどっかりと腰をおろす。
ビーナは、腰にさげた面を外し弓を手に持って、ハゲオヤジからできるだけ離れた長椅子の端に身を縮めて座った。
ハゲオヤジは座った途端、落ち着きのない貧乏揺すりをはじめていた。おまけに妙なものを懐から取りだし火をつけて煙を吸っている。刻んだ葉を細い筒状に紙で巻いたものだ。
「ねえ、それ、なに?」
「けッ、タバコも知らねえのか。半年前からミットナットで生産されはじめてな、今じゃ一番人気の輸出品だ。なかなか手に入らないんだぜ」
自慢げに言うと、ハゲオヤジは、ビーナの顔に向かって容赦なくくさい煙を吐きかけた。
頼りのヤトマはと見れば、いつの間にか円卓の輪に加わり、こちらを振り向いてもくれない。
――最悪だよ。
ビーナは、膝に置いた面の縁を両手で握りしめながら、エルのほうを見つめてため息をついた。
円卓の中央には牛の革が広げられ、その上に貝殻や魚の骨がいくつも並べられている。その食べかすを、エルとヤトマが議論しながら、箸でつまんで場所を移したり向きを変えたりしている。
――あの人たち、何をやってるんだろ?
目を凝らすと、牛革にはなにやら細かな絵と文字が描かれているようだ。それにふたりの会話の端々に聞き覚えのある地名が出てくる。たぶんチグル山脈にある山や谷の名前だ
――地図? 卓上に広げられているのは、きっと地図だ。じゃあ、あの食べかすは何だろう?
それが気になってしょうがない。ビーナは、たまらず隣のハゲオヤジに小声で訊ねる。
「ねえ、地図の上の貝殻や魚の骨。あれ、何やってるの?」
ハゲオヤジは、さも面倒くさそうに背筋を伸ばして、卓上を一瞥【ルビ:いちべつ】する。
「貝殻がキルゴラン軍で、魚の骨は我らがチャンタ王子率いるナンミア軍の布陣ってとこか。ちーと魚の骨のほうが旗色が悪いな。さてさて、こっからが見ものだ」
ビーナは、その答にギョッとした。ハゲオヤジからまともな答が聞けるとは、まったく期待していなかった。それに、このハゲオヤジ、チラッと見ただけなのに……。
ビーナは軍隊の布陣など知らない。だけど、コバじいさんとふたりで獲物を追いこむときの配置なら頭に描ける。
確かにハゲオヤジの言うとおり、貝殻と魚の骨が敵味方に分れて対峙しているように見えるし、貝殻が魚の骨を囲んでいるようにも見える。
――このハゲオヤジ、ただのスケベで口の悪い酔っ払いじゃないかも?
隣を見ると、ハゲオヤジは素知らぬ顔で、まだ卓上をながめている。
そのとき、「では、ここだな」とエルの凛とした声が響いた。
エルは、口にくわえていたエビの尻尾を人さし指と中指ではさむと、それをずらりと並んだ貝殻の一番端に置いた。つまりキルゴラン軍の側面を突く位置だ。
円卓を囲んだ男たちはエビの尻尾を凝視し、息を呑むばかりで誰も声を発しない。
だが、ひとりだけエルが置いたエビの尻尾の場所に異を唱える者がいた。
出し抜けに立ちあがったのは、ビーナの隣に座っていたハゲオヤジだ。
「おい、そのエビ小隊。兵糧に火をかけるだけなら、もうちょい下げとけ」
「なるほど。珍しく私とロウザイ殿の読みが一致しましたね。これは吉兆かもしれません。おかげで策に自信がもてました。では、もう少しだけ……」
エルは、ロウザイの顔を見ながら小さく微笑むと、エビの尻尾に手を伸ばす。
「いまだに私の身を本気で案じてくださるのは、ロウザイ殿おひとり。心から感謝しています」
だが、その言葉とは裏腹に、エルはエビの尻尾をさらに前に押しだし、貝殻の左翼を崩す。ロウザイの提案とは完全に逆だ。
「けッ!! クソ尼が。勝手に死にやがれ!!」
ロウザイは胸の前で腕を組むと、またどっかりと腰をおろした。椅子の背に身体を預け、憮然とした表情のまま目を閉じている。
ビーナには、ふたりのやりとりの意味がさっぱりわからない。小声でまたハゲオヤジに訊ねる。
「ねえ……、あのエビの尻尾は何よ? 敵? 味方?」
「死にたがりなんだよ、あいつは……」
ロウザイは目を閉じたまま、円卓のほうに向けて顎を上げた。そこには、何ごともなかったかのようにテキパキと男たちに指示を与えるエルの姿があった。
(明日は一章4[もうひとつの再会])
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