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傷だらけのビーナ 試し読み6
桝田 省治

http://www.alfasystem.net/a_m/archives/283.html


[もうひとつの再会]


「ふぅ、まあ、これで三日もあれば片づくだろう。さてと、ヤトマ……、次はなんだっけ?」
 卓上の地図から顔をあげたエルが正面のヤトマに助けを求めていた。
 ――あ~ぁ、やっぱりこの人、忘れてるよ。
 エル隊長は、いつもこの調子だ。誰よりも頭がキレる。その作戦は、常に過不足なく緻密にして大胆、神がかっているとさえ言える。
 だが、直面する問題にあまりに集中するためか、それ以外のことはしょっちゅう忘れてしまう。
 そして、それをとくに恥じるでもなく、必ずヤトマに訊ねるのだ。
 エルのそんなチグハグさが、年上のこわい上司であるにもかかわらず、ヤトマはかわいらしくてしょうがなかった。それに自分に訊くということは、たぶん信頼されている証だ。勝手な思い込みかもしれないが、ヤトマにはそれが嬉しかった。
 ヤトマは、おとぼけ上司の顔を優しくにらんでから、ゆっくりとビーナのほうを振り向く。それにつられてエルもビーナに顔を向けた。
 ビーナがあわてて立ちあがる。その拍子に膝の上に置かれていた魔物の面が床に落ちた。
「あ……、そうか、そうだった。待たせたな、ビーナ…………だっけ?」
 エルは、そう言いながら、ビーナの前まで大またで歩いていくと、
「で……、この娘【ルビ:こ】は、なんだっけ?」と、後ろから追いかけたヤトマにまた訊ねた。
 ヤトマは腰を折り、床に落ちた異形の面に手を伸ばす。
「よりによって正月に、それもひどい雨の中で、例のチグルっスよ。ほら、傷だらけの子供……」
 そう説明している途中、たぶん“チグル”の名を出したあたりだ、エルのすらりと伸びた足がいきなりビーナに駆けよるのが見えた。直後に「ひッ」というビーナの声が続く。
 ヤトマは、拾った面をビーナに渡そうと顔をあげた。だが、面を返すのは少しあとになりそうだ。おそらくさっきビーナの口から出た短い悲鳴は、いきなりエルに抱きしめられたせいだ。
 よほど感激したのだろう、ビーナがエルの胸で声をあげて泣いていた。エルは、子供を寝かしつける母親のようにビーナの白黒の頭をいとおしげに撫ぜている。
 ――よしよし、ここまでは順調。でも、ここからのほうが大変なんスがねえ。
 ヤトマは、エルとビーナ、変わり者の女ふたりを見つめながら、ほくそえんでいた。
 ビーナは、エルに促がされ、円卓のそばの椅子に腰かけた。エルはビーナが座った椅子の左右に二脚の椅子を引き寄せると、右側にビーナの弓と矢筒をていねいに置き、自身は左側に座る。
「あれから何があった? つらかったか? なんでもいいから、私に話してごらん。あ、それともう泣くな。あ、えっと、それから、お腹は減ってない? 何か食べるか?」
 エルが発したどの問いかけに応えたものか、ビーナがコクリとうなずいた。それを見るや、エルが矢つぎばやに叫ぶ。
「何をボンヤリしている。下に行って何かビーナが好きそうな物をかっぱらって来い。グズグズするな!! さっさと行けッ!! とっとと行けッ!! 行けッ!! 行けッ!! 走れッ!!」
 いきなり脛を蹴られた大男が、あわてて部屋を飛びだしていった。
 ――あらま。あいつ、あれでも十人からの部下を率いる、泣く子も黙る突撃隊の班長なのに。あ~ぁ、かわいそ。
 それにしてもメチャクチャな注文だ。“ビーナが好きそうな物”と言われてもわかるわけがない。
 ヤトマは、こんなにはしゃいでいるエルの姿を初めて見た。他の部下たちも同様らしい。十倍の敵を目の前にしても平然としている歴戦の猛者たちが目を白黒させている。

 どうやらビーナは、本当にお腹が減っていたようだ。泣くことも忘れ、山と積まれたさまざまな食べ物を勧められるままにどんどん平らげている。その豪快な食べっぷりを、エルは頬杖をつきながら目を細めて楽しげに見つめていた。
 ヤトマには、エルの気持ちが手にとるようにわかった。
 軍人だから、敵をたくさん殺せば手柄になる。金にもなるし出世もする。だが、それよりも誇らしいのは、自分の力でひとりでも命を救えたときだ。それが子供なら、なおのこと。ましてその救った命がしっかりと育っているのを見るのは、子供が産めないエルにはこの上ない喜びだろう。
 ビーナは、食べ物をほおばった口で、八年間の暮らしをエルに話していた。ここにビーナを案内する道すがらヤトマが聞きだしたのとほぼ同じ内容だ。とりとめのない話ぶりだが、エルはときおり質問をまじえながら熱心に耳を傾けている。
 驚いたことに、自分には見せるのをためらっていた身体の傷を、ビーナはズボンの裾までめくって、大笑いしながらエルには見せている。
 ――あらま、かなわねえな。やっぱ、女は女同士ってことっスかね。
 ヤトマは、ふたりの会話を聞きながしながら、ビーナに返しそびれた魔物の面をまじまじと観察していた。
 八年前、ヤトマはエルに命じられてビーナの傷に応急手当をほどこした。裏技も含めて、あの場でできることはすべてやった。傷そのものは、いずれ治ると確信していた。
 だが同時に、この子は長くは生きられない。そうも思っていた。
 なにしろビーナの身体は、いわば差し押さえられた借金のカタ。傷は、借金の証文。それが全身をおおっていた。そして、借金の相手は、強欲な魔物。さらには一匹や二匹ではない。
 いずれどんな手段を使っても取り立てにくるに決まっている。
 かわいそうだが、この子はそれまでの命だ。そうあきらめていた。
 なのに、ビーナは八年も生きていた。
 そればかりか、あの意地汚い食べっぷりからして、間違いなくここにいる誰よりも健康だ。
 ロウザイの大将じゃないが、お尻だって今どきの若い娘の中では十分にでかい。たぶん、元気な子供をいくらでも産める申し分のない身体だ。
 ありえないことだ……。運がよすぎる……。ビーナは、何か強い力に守られている。
 ――だとしたら、この迫力満点の面かなぁ。とくに変わったところはなさそうだけど、他に考えられないっスもんね。
 だが、たとえそうだったとしても問題は解決していない。今まで大丈夫だったからと言って、これからも安全な保証などどこにもない。
 見たところ、ビーナは頭に血がのぼりやすい性質【ルビ:たち】だ。そもそも、ビーナに限らず、あれくらいの年齢で自分の感情を制御できるヤツなんていやしない。
 怒り狂ったとき、絶望したとき、その心の隙を狙って無数の魔物がビーナに群がるだろう。もしも王都でそんなことが起きたら、どれだけの人が巻きこまれるかしれない……。ビーナの傷あとを見たとき、ヤトマはその凄惨な様が脳裏に浮かび、冷や汗が出た。
 ビーナの身体に傷をつけた片目野郎には貢物以上の意図はなかっただろうが、今のビーナは、勝手に動きまわる生きた“爆血【ルビ:バッケツ】”。いや、万爆血【ルビ:マンバッケツ】かもしれない。
 だったらいっそのこと、目の届くところに置いたほうがいい。たとえ、どちらに転ぶにせよだ。
 それが迷った末に出したヤトマの結論だった。
 ――さ~て、エル隊長はどう出るか? まッ、何ごともなるようにしかならないっスがね。
 もしもダメなら……。
 そのときはビーナをここに連れてきた自分が始末をつけるべきだろう。だけど、せっかく助けたんだし、今日まで健気に生きてきたんだし……、できることなら、

 ――殺したくはないっスね。

 そう思いながらも、ヤトマの手は、背中に隠している鎌の位置を確かめていた。同時に普段どおりの笑みを絶やさず、ビーナの止まらないおしゃべりに聞き耳を立てている。
 ビーナも、ロウザイとの珍騒動に関しては、少し後ろめたかったのか、話題にしなかった。だが、その代わりに怒りの矛先を向けたのは、志願兵の登録所で受けた扱いだ。
「それでね、エル。聞いてよ、ひどいの!! 話もろくに聞かずに受付のおっさんたら『女には無理!!』って決めつけるんだよ。あたし、頭にきた!!」
「まあ、そうだろうね。兵役経験がない女が、紹介状の一通も持たず、フラリと出向いて採用されるわけがない」
「えッ、あれ? そうなの? そうなんだ……。知らなかった……」
 本当に採用されると思っていたのだろう、ビーナはガックリと肩を落としてうつむいた。これには、さすがのエルも苦笑いするばかりだ。
「で、ビーナ、これからどうするつもり?」
「あたしを雇って。エル隊長の下で働かせてほしい」
 ビーナは即答すると、面【ルビ:おもて】を上げた。その頬は決意に満ち紅潮している。それとは逆に、真っすぐに向けられたビーナのまなざしに、エルの顔色がみるみる曇っていく。
「あ、ああ……、そうだな」
 エルの声は暗かった。だが急に、人が変わったように明るく甲高い声でまくしたてる。
「ああ!! そうだ、ちょうど下の詰め所で女給を募集していたよ。おまえならすぐに看板娘だ!! 慣れてきたら厨房の手伝いもやればいい。料理人になれば一生食うに困らん。食い意地が張ったヤツほど、いい料理人になるというしな!! そうだ、そうしろ、それがいい。私が親代わりだ。身元引受人になってやろう」
「違う!! そうじゃない!! ごまかさないで!!」
 ビーナのはじけるような勢いに、エルが気おされてうなだれる。
「ビーナ……、やめろ。それ以上、頼むから言わないでくれ」
「聞いて!! あたし、エル隊長みたいに強くなって、それでいつか、あの片目の男をやっつけて、父ちゃんや母ちゃんや兄ちゃんの仇を討ちたい!!」
「私……? 私のようにか……? おまえ、私が何と戦っているか、その目で見たろう」
 エルの様子を見て、ヤトマは鼻先を何度もかいた。だが、ビーナはぜんぜん気づかない。
「ぶっ殺す!! 魔物をぶっ殺す!!」
 そう叫ぶや、ビーナは椅子を蹴って立ちあがった。
「ふざけるな……。魔物を相手に戦うことの意味がおまえにはわかってない」
「できるよ、あたしだってやれる!!」
「いや、わかってないわよ……」
 エルの口調は、あくまで穏やかだった。おまけに口元に薄っすらと微笑みまで浮かべている。こういうときのエルは本当にヤバイ。きっと、とんでもないことをやらかすつもりだ。
 ヤトマは、鼻をかくのも忘れて、エルの一挙一動を見守った。
 エルは顔をあげ、四人の部下を見まわしたあとで、その中のふたりを指さす。
「おい、おまえたちふたりで、アレをここに連れて来てくれ」
「アレって? まさかあいつのことですか?」
 エルの命令に、元から強面【ルビ:こわもて】の男ふたりが、さらに顔を強ばらせていた。
「ふたりでは足りぬか?」
「い、いえ、大丈夫、ですが……」
「では、グズグズするな。さっさと行けッ!! とっとと行けッ!! 行けッ!! 行けッ!! 走れッ!!」
 エルに怒鳴られ、男ふたりがあわてて部屋の外に飛びだしていった。しばらくすると、大きなうめき声と男たちの怒声が廊下に響きわたった。さっき廊下で聞こえた声だ。どんどん近づいてくる。
「ビーナ、おまえはさっき、魔物を殺せると言ったね?」
「やるよ!! やってやるよ。あんたの仲間にしてくれるなら、なんだってやる!!」
「そうか……」
 エルが独り言のようにそうつぶやいたとき、奇声と怒声が部屋の前までやってきた。まるで扉の外で猛獣が暴れているような騒ぎだ。
 先ほどの男のひとりが少し扉を開けて顔を出す。
「隊長、本当にいいんですか?」
「かまわん。私が責任をもつ」
 扉が開け放たれた。大男ふたりが前後を抱えて部屋に運び入れたのは、巨大な頭陀袋【ルビ:ずだぶくろ】だ。その袋は、身をよじるようにモゴモゴと蠢いている。獣のようなうめき声はその中から聞こえた。
「出せ」
 エルに命じられ、袋の口を縛っていた縄が解かれ、ひっくりかえされる。
 袋の中から大きなかたまりが、ドサリと床に投げだされた。
 それは貧相な小男だった。部屋の真ん中で、のたうちまわり大声でうめいている。
 荒縄で芋虫のように何重にも縛られ、さらに縄の上に何枚もお札が貼られている。
 口に猿ぐつわをかまされているにもかかわらず、凄まじい声だ。
 それをたくましいふたりの大男が、必死の形相で押さえこんでいた。
 その様を悠然と見つめたまま、エルがビーナに声をかける。
「あれは、キルゴランの密偵だ。雇った人足に混じっていた。おそらく子供のうちに魔物に乗っとられたのだろうね。外側は人間だが、中身はもう完全に別のものだ」
 エルは椅子からおもむろに立ちあがると、腰にさげていたナイフをビーナの手をとって握らせた。
 そして、ビーナの耳もとに頬を寄せてささやく。
「これが魔物と戦うということだ。あいつの首を落とせ。おまえにやれるか?」
 ナイフを握ったビーナの手が震えていた。暴れる小男を、真っ青な顔で見つめて放心している。まるでエルの声など聞こえてないかのようだ。
「兄ちゃん!? 兄ちゃんだ!!」
 ビーナが突然そう叫んだ。
 ――兄ちゃん?
 あ~ぁ、ウソだろ。よりによって実の兄貴とは、つくづく運のない娘っスね。いくらなんでも、こりゃ、きついわ。残念ながら採用試験は落第かぁ。ちょっと期待してたんスけどねえ。
 ヤトマは、手に持っていた面をビーナの弓と一緒に椅子に置いた。空いた手を背中に回すと、半てんの裾をめくり鎌の柄を握りしめる。


(明日は一章5[魔物])
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