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[魔物]
「兄ちゃん……」
死んだんじゃなかったの!? なんで兄ちゃん、ここにいるのよ!?
八年前より身体は大きくなっていた。だが、顔はあまり変わっていない。殴られて腫れあがってはいるが、床に仰向けに転がっている男は、間違いなく兄だ。
ビーナは、混乱していた。何がどうなっているのか、どうすればいいのかわからない。ビーナは、助けを乞うようにエルを振りかえった。
「おまえの兄はとうの昔に死んでいる。見た目にだまされるな、あいつは兄じゃない。おまえの兄を食った魔物……。我々の敵だ!!」
エルはそう言い放つと、床に転がった男を憎々しげににらみつけた。その視線を追って、ビーナも兄そっくりの男にもう一度目をやる。
エルの言うとおりなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。兄が生きているはずはない。だけど、殺されたところを見たわけじゃない。もしかしたら……、
「本当に魔物なの?」
「確かだ。何人も同じようなヤツを見てきた」
「でも……」
「この貧弱な小男が完全武装の兵を五人、素手で殴り殺した。そう言えば信じるか?」
「元には……」
「戻らない。死んだ者は二度と生きかえらない。おまえにできるのは、兄の身体を奪った魔物を殺すこと……、それだけだ」
そう静かに告げたあとで、エルはビーナの顔をまじまじと見つめた。そして、訊ねた。内容はさっきとまったく同じだ。
「おまえにやれるか? こいつの首を落とせるか?」
そう問われて、ビーナは思わず顔をそむけた。そのとき、ビーナの脳裏には兄の思い出が次々によみがえり、涙があふれそうになっていた。
ひとつ違いの兄だった。村には十人ほどの子供がいて、兄はそのガキ大将だった。幼い頃はいつも兄についてまわったものだ。口よりも手が早く、しょっちゅうぶたれて泣かされた。食べものの好みが似ていて、おかずもよく盗られた。だけど、優しいところもいっぱいあった。山犬の群れに追いかけられたときも川で溺れそうになったときも助けてくれたのは兄。弓を教えてくれたのも兄だ……。
その兄をあたしはこの手で殺せるのか?
「ごめん……。ムリ……」
ビーナは顔をそむけたまま、消え入りそうな声で我知らず応えていた。
「そうか……。そうだろうな。それが普通だ。気にすることはないよ。さ、ナイフを寄こせ。私がおまえの兄の仇を討ってやる。いいと言うまで目を閉じ…………おい、ビーナ? 大丈夫か?」
エルがしゃべっている途中で、その声が遠ざかり、いつの間にか何も聞こえなくなっていた。
ビーナは、エルにナイフを返さなかったし、目も大きく見開いたままだ。
エルの発した一言だけが頭の中にポツンとあった。その言葉が何度も繰りかえされている。
――兄の仇を討ってやる。
兄の仇を討ってやる。
兄の仇を討ってやる。
エルが兄の仇を討つ……?
ちがう。
エルじゃない――あたしだ。
兄ちゃんの仇を討つのは、
あたしだ。
他人にはやらせない……。
あたしがやらなきゃ……。
あたしがやってやる。
あたしがやるんだ!!
「ぶっ殺す!!」
突然口がそう叫んでいた。足は勝手に駆けだし、手はナイフを振りあげている。
ビーナは床に転がった男の腹に馬乗りになった。左手で男の顎を押して顔を見えなくした。そして、右手で男の胸にナイフを突き立てる。
途端に、ビーナの顔や胸、腕にも赤い血しぶきが飛びちった。だが、幾重にも巻かれた縄が邪魔をして、なかなか刃先が深く刺さらない。
ビーナは、ナイフに左手も添えて、何度も振りかぶり何度も振りおろす。
「うあ、うあ、うあ、うあああああ!! うあ、うあ、うあ、うあああああ!!」
女の泣き声と男の苦鳴【ルビ:くめい】が入り混じっている。どちらが自分の声なのかわからない。とにかく早く終わらせてしまいたかった……。
すぐに女の声も男の声もやんだ。呆気なかった。
――終わった。
頭の中が真っ白で、身体の芯にしびれるような感覚が残っている。まるで自分の身体ではないように力が入らない。振りあげたままの手をおろそうとしたが固まったように動かなかった。
ふと見ると、ナイフを持った血まみれのビーナの腕、その手首を誰かがつかんでいた。
その腕は、ビーナの下から伸びている。それは、縄が切れて拘束を解かれた男……兄の腕だ。
「ひッ……。うあ、うあああああああ!!」
兄が笑っていた。まだ生きている。そう気づいたとき、ビーナは再び絶叫した。その瞬間、視界が反転し身体が浮きあがる。ビーナは、片手一本で放り投げられていた。
床にたたきつけられ転がったビーナは、また手首をつかまれた。
「ひぃぃいッ!!」
「落ち着け、ビーナ。それと、今後は人の話は注意して聞け。私は首を落とせと言ったはずだよ……。まあ、いい。あとはヤトマたちに任せろ。あぁ、ところで……大丈夫か?」
エルに助け起こされると、ヤトマと屈強な大男たちが貧相な小男を取り囲んでいるのが見えた。
ヤトマは、刀身が三日月のように湾曲した鎌を逆手に持ち、他の四人も武器を構えている。各自の得意な武器なのだろう、槍、カギ縄、矛、倭刀【ルビ:わとう】と呼ばれる細身の刀、武器はバラバラだ。
それに対して囲まれた小男のほうは、縄はすっかり解いたものの、素手だ。戦う気がないのか両腕をだらりと垂らし、中腰でかがんでいる。それに胸は傷だらけで、今も大量に出血している。立っているのが不思議なくらいだ。
勝負は明らかに見えた。だが、違った……。
最初に動いたのは、槍をたずさえた男だ。疾風の速さで小男の背後から突く。
槍が痩せた背中を貫いた……、確かにそう見えた。
だが、後ろに目がついているかのように一瞬早く、小男が両膝をたたんで跳躍した。
小男が空中で身体をひねる。突きだされた槍の長柄に飛びのる。
大男があわてて槍を引く。その反動を利用して、小男が槍をもった大男に一気に躍りかかる。
悲鳴が聞こえた。
見れば、槍の男は顔を深々とえぐられ、四本の赤い筋から血を流している。
大男の首にしがみついた小男は、さらに大男の喉笛に食らいつこうと、ガッと口を開く。
そのせつな、空気を切り裂くような音をたて、横手からカギ縄が飛んだ。
それを、大男の首にぶら下がったまま、小男はクルリとその背に回りこんで避けた。
ただ、避けただけではない。
瞬時につかんだカギ縄を槍の男の首に巻きつけ、それを信じがたい怪力で引っぱったのだ。
急に縄を引かれ、カギ縄を投じた男の巨体が、まりのような軽さで二度三度と床をはずむ。
縄で首を絞められた男が泡を噴いて崩れおちると、小男はヒョイと床に下りた。
その瞬間を、ふたりの男が狙っていた。
小男の左右から、矛と倭刀が猛然と斬りかかる。逃げ道はない。
だが、この必殺のはさみ撃ちすら届かなかった。
小男は、足元に伏した男の背中を両手でつかむと軽々と放り投げ、矛の男にぶつける。
同時に、倭刀の男には“足で”つかんだ槍を投じた。
倭刀の男は、小男めがけてすでに飛びこんでいただけに避けようがなかった。
太ももを槍に貫かれて転倒。その顔を蹴りあげると、小男は簡単に倭刀を奪いとった。
瞬く間に、屈強な四人の大男たちが、ひとりの小男に倒されていた。
残るは、ヤトマひとり。
ヤトマは、小さな鎌の刃を小脇にかかえながら、エルの表情を横目でうかがう。
「やっぱ、魔物は半端なく強いっスね。エル隊長、どうしましょう?」
「任せる」
「了解っス!! 任されました」
場違いな明るい声で応えると同時に、ヤトマは右手を勢いよく下から振りぬいた。
その手から放たれたのは、三日月形の刃。
高速で回転する鎌は、さながら銀色の円盤のようだ。
緩やかな曲線の軌道を描き、床すれすれを飛び、とつじょとして浮きあがる。
そして、右斜め下から小男の首に正確に飛びこんだ。
だが、小男は顎を上げ、わずかに首をかしげただけで、あっさりとかわした……。
「あらまッ!! 大外れ」
ヤトマは大げさにそう叫ぶや、あわてて左に走る。それを小男が跳ねるようにして追う。
「おっととと!!」
血だまりで足を取られ、ヤトマが派手に尻もちをついた。小男はその隙を見逃さない。ヤトマのそばに立ち、逆手に持った倭刀を振りあげる。
ビーナは、思わず弓を手にとり矢をつがえた。だが、その弓をエルの手が横に軽く押す。
「心配ないよ。ヤトマは食わせ者だ。見てればわかる」
エルがそう言ったとき、銀色の光が小男の左後方を斜めに横切ったように見えた。
そして、その光は小男の首に吸いこまれるように一瞬で消えた。
倭刀を振りあげた手がだらりと垂れさがり、心棒を失ったように小男が前に倒れる。
ヤトマのすぐそばに横たわった小男の胴体から、ビーナの兄に似た首がコロンと離れた。
どこかに飛んでいったはずの鎌が、なぜか転がった首のすぐそばの床に突き刺さっている。
ビーナは、一部始終を見ていたはずなのに自分の目が信じられない。
「い、今のなに? 精霊のいたずら?」
「いや、あれは確かブーメランとかいう、外れると戻ってくるおかしな武器だ。で、ヤトマはその戻ってくる場所でわざと転んで、獲物の足を止めたというわけだ。しかし、まったく解せんのは……私が『任せる』と言うと、あの男、必ずあの手のふざけた小細工を仕掛けてみせるのよ。普通にやったほうが確実で手っ取り早いだろうにね……。ヘンなヤツ」
エルはため息をつくと苦笑した。その控えめな笑い声に別の笑い声が重なる。
「へへへ、そらあ、エル隊長を笑わせるためなら、俺ら、命くらいなんぼでも賭けますぜ」
顔に四本の爪あとを刻まれた大男がのっそりと立ちあがっていた。血まみれの凄まじい顔でこちらを見ながらニヤニヤ笑っている。
見れば、床に倒れていた他の男たちも次々に起きあがっていた。槍が太ももに刺さった男も、少し眉をひそめていたものの、あっさりと槍を抜きさり、持ち主に放り投げている。
「くだらん冗談を言う暇があれば、さっさと治療しろ。爪に毒をもつ魔物がいることくらい知ってるだろう。日暮れには出るぞ。さあ、ヤトマ以外は準備を急げ!!」
エルが号令をかけると、ヤトマが不審な面持ちで、おずおずと顔の横に右手を上げる。
「オレは何を?」
「おまえは、遊んだ罰にこの部屋の掃除」
エルの笑顔にヤトマはがっくりと肩を落とした。その様を大男四人が笑いをこらえて見ている。
「了解しました!! ヤトマ以外、急ぎ出立の用意を整えます。では御免」
扉の前でそろって敬礼し、足早に退室していった男たちを、ビーナは唖然として見送る。
「あの……あの人たち、平気なんですか?」
「あれくらい、連中にはケガのうちに入らないよ。それに、ヤトマがあの妙な武器を使うときは、なにしろどこから飛んでくるかわからないからね、敵の近くにいる者は伏せる決まりなんだ」
ビーナの質問にエルが平然と応えたとき、壁際でわざとらしい咳ばらいが聞こえた。
ロウザイだ。あいかわらずの仏頂面で、元の長椅子に座っている。驚いたことに、このハゲオヤジ、騒動の間中タバコをふかしながら、のん気に観戦していたようだ。
エルは、ロウザイに気づくや、やや芝居がかった調子で天を仰ぐ。
「あああッ!! すみません、実は少々取りこんでおりまして。ロウザイ殿、お待たせして恐縮です」
「けッ、こっちは、おまえと違ってずーーっと暇だから、別にいいけどよ。しかし、やっぱ、女がやることは中途半端でダメだな。詰めが甘いつーか、目先の勝ちしか見えてないつーかよ」
ロウザイはタバコを床でもみ消すと顔を上げた。イヤミったらしく口の端がつりあがっている。
「私に落ち度があれば何なりと」
「いやね、おまえ、忙しさにかまけて忘れちまってんじゃねーかと思ってよ。首をはねただけじゃ死なねえ魔物がたんまにいることくらい、エル隊長ともあろうお方ならよーーくご存知だろうに。あいつにとどめを刺しとかなくていいのかねえ? ほーれ、あそこ」
ロウザイが顎を上げて指示したほうを見れば、何かが椅子の下を移動していた。
それは、ヤトマに切り落とされて床に転がっていたはずのビーナの兄の頭だ。その頭からは、さまざまな得体の知れないものがウジョウジョと湧きだしている。
首の切り口からはえているのは、針金のような八本の細長い脚。それをカサコソと動かしてゴキブリのごとき素早さで走っている。
口と鼻の穴からは、猿の尻尾に似た毛むくじゃらの黄色い縄状のものが四本。
そして、両の耳の穴から突きでたものが、見る間に大きく開きバタバタとはばたく。
大コウモリの黒い翼を左右につけた人間の生首がふわりと宙に浮く。
飛んだ先は、オロロチ河に面した全開の窓だ。
(明日は一章6[エルの決断])
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