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傷だらけのビーナ 試し読み8
桝田 省治

http://www.alfasystem.net/a_m/archives/285.html


[エルの決断]


「しまっ……」
 半ば口から出かけた「しまった」の“た”を、エルは、かろうじて呑みこんだ。
 布陣を見られた可能性がある。いつもなら、作戦会議が終わると即座に地図を窓辺ではたいてコマに使った残飯をオロロチ河に捨てる。記録は一切残さない。だいたい作戦会議でもなければ、窓などめったに開けやしないのだ。
 ところが今日に限って、残飯を捨てるのを忘れ、地図の上に置いたままにしていた。私としたことが、おそらくビーナとの再会に浮かれていたのだろう。
 そこに敵の密偵を連れてきて、わざわざこちらの手の内を見せてやったのも、この私だ。
 ――くそッ、なんという失態!!
 窓の外には、コウモリの翼を生やした人間の生首がオロロチ河の上を悠々と飛んでいる。その奇怪な姿がどんどん遠ざかっていく。
 さらに、開戦に巻きこまれるのを恐れた外国船が出港準備を急いでいるのだろう、風をはらんだ大きな帆が次々に揚がっていく。あの帆の裏に回りこまれたら見失う。追跡はもう不可能だ。
「しまっ……始末しろ、ヤトマ!! 逃がすな!! アレを落とせ!!」
「そうしたいのは山々なんスけど……、すみません。抜けないんスよ」
 見れば、ヤトマはしゃがみこみ、床に刺さったブーメランを懸命に抜こうとしていた。だが、よほど深く刺さっているのか、三日月形の刃が抜けないようだ。
 ――くそッ、せめて四人の班長がひとりでも残っていれば、なんとかなったものを。
 いや、ロウザイ殿は、あの四人が出ていくのを待ってから警告したにちがいない。あの人は、私にしくじらせたいのだ。なにしろ、男の仕事場たる戦場に女がいるのがお気に召さないらしいから。とうぜん手助けしてくれる気などハナからないだろう。にやつきながら傍観しているだけだ。
 だが、布陣の情報もれの件は、確かに痛手だが、実際にはさしたる問題ではない。
 時間はまだある、白紙に戻せばいい。減俸処分を覚悟し、チャンタ王子に掛けあえば、今なら本隊自身の陣取りを変えることだってできる。あまり趣味ではないし戦線の維持費がかさむが、王子の元もとの作戦どおり、にらみ合いの持久戦という選択肢だってないではない……。
 ――問題は、ビーナだ。
 あの傷あとを見せられたとき、ヤトマの真意に気づいた。今のビーナは、極めて危険だ。ヤトマもそれを承知で、ビーナをここに連れてきたにちがいない。
 なにが「懐かしい客」だ……。ようするにヤトマのヤツは、私がどう腹をくくるかを試したのだ。上官の器を量るとは、まったくもって食えない男だ。
 いずれにせよ、ビーナが生きていることをランバに知られるのは、まずい……。
 今のビーナでは仇を討つどころか、自分の身すら守れない。魔物を召喚する媒介にでも使われたらとんでもないことになる。“爆血”どころの騒ぎではない。
 ――くそッ、くそッ、くそッ、何か手はないのか!?
 唇を噛んだエルの耳にキリキリという音が聞こえた。振り向けば、ビーナが弓に矢をつがえ、弦を引きしぼっていた。
 ビーナの弓は、携帯に向く狩猟用の小ぶりの弓だ。弓兵が用いる大弓より射程が短い。飛ばすだけなら三十尋【ルビ:ひろ】(約四十五メートル)は届くだろうが、的を狙うとなればせいぜい二十尋(約三十メートル)が限界だろう。
 だが、逃走中の“コウモリ首”との距離は、すでに三十尋を超えている。おまけに船の帆が丸くふくらむほどの強い横風が吹いている。
 それでもビーナはあきらめていない。普通は顎のあたりまでしか引けないはずの弦を、耳の近くまで引いている。その心意気は買うがムチャクチャだ……。
「ムダだ。当たるわけが――」
「兄ちゃんの仇を討つ。ぶっ殺す!!」
 言うが早いか、ビーナはエルの制止を聞かずに矢を放った。
 命中するどころか届くはずがない。そう思いながら、矢の行方をボンヤリと追っていたエルの目が次の瞬間、カッと見開き、その口は思わず「惜しい!!」と叫んでいた。
 ビーナの矢は、当たらなかったもののコウモリ首の翼をかすめた。そればかりか、その後方をゆく船の厚い帆を貫き、穴を開けたのだ。
「ビーナ、集中しろ、風を読め!! どんどん射て!! 必ず落とせ!!」
「うるさい!! 黙ってて!!」
 ――なんと? ひとまわりも若い娘に怒鳴られちゃったよ。
 エルは、丸くした目を細めながら、噴きだしそうになるのをじっとこらえた。
 ビーナは、次々に矢を放った。弓が小さいせいもあるが、矢をつがえる動作が驚くほど速い。さらによく見れば、二本の矢を同時に射たり、手前の船の帆柱をさけて曲軌道【ルビ:きょくきどう】で射つ芸当まで、同じ動きで難なくやっている。狙いも非常に正確だ。
 だが、当たらなかった……。
 コウモリ首は、予想しなかった一発目の矢には反応できなかったものの、それ以降の矢は、四本の黄色い触手を振りまわすように操り、次々にはたき落としている。
 それでも、ビーナはあきらめずに射ちつづけていた。だが、そろそろ矢が尽きるはず。
 ――さて、どうする、ビーナ?
 コウモリ首から目を移すと、ビーナはいつの間にか奇怪な精霊の面を顔につけていた。
「おまえ、何をやってるの!?」
 と問うも当然のごとく返事はなかった。ビーナの耳には、エルの声は聞こえていない様子だ。いや、人の言葉などもはや通じないかもしれない。今、目の前にいるのは、人間ではなくまさしく一匹の精霊だった。
 ――まッ、好きにすればいい。しかし、おまえ、本当に面白いヤツだね。
 矢筒はもう空っぽ。残すは、すでに弓につがえている一本のみ。ビーナもそれが最後だとわかっているのだろう、なかなか射とうとしない。息をつめ、彼方に浮かぶ一点に意識を集中している。
 張りつめた肩や腕の筋肉から、熱い闘気がユラユラと立ちのぼるのが見えるかのようだ。
 当たってほしいな。
 エルは心の底からそう願った。
 同時に、おそらく最後の矢も当たらないだろうとも思った。それでもかまわない。
 ――ビーナは、戦える。
 技術はまだまだ荒削りだし、血の気の多さもどうにかしないと使い物にならない。
 それでも、ビーナはいずれ戦士に成長する。それも優秀な戦士にだ。
 それが確信できただけで、今日のところは十分だ。
 ――いいだろう。こうなったら私もおまえに付き合ってやるわよ。
 あぁ、でも……、外国船を沈めた場合、どれくらい始末書を書かなきゃならないんだろ……。
 エルは、脳裏に浮かんだ書類の束にげんなりしながら、床に転がっていた血まみれのナイフを拾いあげた。窓際に立つと、オロロチ河の上に両の腕を真っすぐに突きだす。
 ――水の精霊【ルビ:セーマン】と河の精霊【ルビ:カラッパ】、どちらを召喚しようか。いっそ景気よく二体とも呼んで、ビーナを驚かせてやるのも一興かな。
 ……くだらない。私はいったい何を考えているのだ。
 エルは、緩んだ口元を引きしめると、右手に持ったナイフの刃先を左手の手首に当てた。
 顔を上げると、矢の雨がやんだ隙にコウモリ首が帆の裏にまわりこもうとしている。
「ビーナ、迷うな!! 射てッ!!」
 結果を恐れる必要はない。部下の尻ぬぐいをするのが上官の務めというものだ。
 再び、エルの口元がかすかに緩んだとき、ビーナの弓から最後の矢が放たれた。
「ほぉ」
 エルの口から、思わず感嘆の息がもれていた。
 今までで一番力強い。風を切りさいて一直線に飛んでゆく。
 だが、エルを驚かせたのは、矢自体ではなかった。矢の周囲の空気が陽炎のように揺れている。
 エル以外の誰にも見えないだろう、案外ビーナ本人にも見えていないのかもしれない。
 ――あれは精霊だ。
 まるでウサギを追う猟犬のように、無数の精霊がビーナが放った矢を我先に追っていた。
 はたしてあの精霊たちは、敵なのか味方なのか?
 矢が外れれば敵、コウモリ首に命中したなら味方……ということだろう。
 エルは、手首にナイフの刃を当てたまま、その答が出る瞬間を見逃すまいと中空を凝視した。
 だが、結局、答は出なかった。
 ビーナの矢が達する一瞬前に、コウモリの翼がついた頭が木っ端微塵に四散したからだ。
 それをやってのけたのは、黒々とした鉄の矢、二本。
 そう気づいたとき、下から大騒ぎする声が聞こえた。声は二種類だ。
 ひとつは、得体の知れない肉片がいきなり頭上から降ってきた外国船の乗員たちの悲鳴。
 そしてもうひとつは、岸壁に立つ大男四人があげる野太い歓声だ。
 おそらくすぐに騒ぎに気づき、武器庫から運んだのだろう、巨大な鉄の弩【ルビ:いしゆみ】がふたつ並んでいる。凄まじい威力だが、矢を一本つがえるのにさえ苦労する扱いが難しい武器だ。それをふたり一組で支えたまま、こちらを見上げて全員が無邪気に手を振っている。
「エル隊長ぉ!! 給料の査定、よろしくお願いしますよ!!」
「ああ!! おまえたちのさっきの無様な負けは帳消しにしてやる!! それと……、よくやった!!」
 エルは、ナイフを持った右手を引っこめ、左手で眼下に向かって手を振りかえした。

 どうにか床に刺さっていた鎌を回収できたようだ。ヤトマがやって来て、なにげなく隣に立った。エルと一緒に窓の下をのぞきこみ、手際よく解体される弩を眺めながら声をひそめる。
「どうにか大事にならずにすみましたね。ところで、もうひとつの厄介事の件なんスけどね」
「皆まで言うな。わかっている。あぁ、それと、先に言っておくけど、おまえ、今回は留守番だよ」
「え~ッ? なんでっスか?」
「掃除がまだすんでいない」
「いや、でも……」
「冗談だ。確たる根拠はないが、こたびの戦、何かにおう。キルゴランが大軍を繰りだした意味が読めん。だから、不測の事態が起きたときの用心に、自分の判断で動ける者を残しておきたい」
「なるほど。了解っス。ほんじゃ、張りきって床もピカピカに磨いておきますよ」
「万事任せる」
 エルはそう応えて、ビーナを振り向いた。
 自分で取ったのか自然に外れたのか、精霊の面が床に転がっていた。ビーナは、愛嬌のある素顔に戻っていた。先ほどまでの勢いはどこへやら、粗相【ルビ:そそう】を見とがめられた子犬のようにうつむいたまま、上目づかいでこちらの様子をうかがっている。
「首も落とせなかったし、あたしの矢、一本も当たらなかったし……。なんの役にも立てなくて、足を引っぱってばかりで……ごめんなさい」
「ああ、まったくだ。ひどいもんだよ。もしもここが戦場なら、おまえのせいで私の部隊は全滅していたろうね」
 エルは、わざと素っ気なく告げた。ビーナを少々からかってやろうと思ったからだ。だが、ビーナの表情は、なぜかさっきよりも明るい。その視線の先を見れば、ヤトマがあらぬ方向に顔を向けながら頭をかいていた。いかにもわざとらしいその仕草が気にはなったが、エルは先を続ける。
「まあ、気にするな。最初は誰でもあんなもんだよ。それに、おまえが矢を射つづけて魔物を足止めしたおかげで、弩が間に合った。それは事実だしね」
「じゃあ、あたしをここに置いてもらえるの?」
「ああ」
 エルは、ビーナに歩み寄りながら、床に転がっていた魔物の面を拾いあげて一瞥する。
「ただし、当分は訓練兵だ。それでいいな?」
「うん!! 雇ってもらえるならなんだっていい。でも、訓練兵って何をすればいいの?」
 不安げに訊ねたビーナに、エルは面を渡す。
「おまえはまだ半人前だ。これからたくさんのことを学ばねばならない。だが、案ずるな。幸い、私はいい先生を知っている。その先生におまえの実地訓練をお願いしてやろう」
「先生? ヤトマのこと?」
「いや、もっと経験豊富だ。指導は厳しいがそのほうが身につくのも早い。実は、私もその先生から、ついさっき手厳しい助言をたまわったばかりだ。ま、そう心配はいらん。なにしろ女性には、ことのほか優しい方だからね」
 エルはニッコリと笑うと、壁際の長椅子に目を向ける。ロウザイは、落ち着きなく貧乏揺すりを続けながら、苦虫を噛みつぶしたような面持ちでこちらをにらんだ。
「さて、ロウザイ殿。折り入ってふたつほど頼みごとがあるのですがね」
「けッ、おまえの頼みなんぞ、聞く耳もたねえよ」
「では、その頼みごとが割のいい儲け話だとしたら、どうでしょう?」
「けッ、はした金で買収か。俺も安く見られたもんだ。誰がそんな手に乗るかよ」
 エルは、ロウザイの悪態を聞き流すと、壁際に並んだ黒い祭壇のひとつの前に立った。両開きの大きな扉を開けて、中から二本の小瓶を取りだした。濃い紅色の液体が入った小指ほどの大きさのガラスの瓶だ。
「これが何かはご存知ですよね?」
「おい……、それ、まさか“爆血”か!? ず、ずいぶん量が多いな……」
「エル特製の“百爆血【ルビ:ヒャクバッケツ】”とでも呼んでください。念のため二本用意しましたが、一本は予備です。一本で足りた場合、たいへん物騒な代物ですから、処分はロウザイ殿にお任せしようと思います。あぁ、そうそう……、言い忘れてました。これ一本がユバルの死神横丁じゃ、五千万ギルの値がつくとか」
「ご、ご、五千万ギルだとお!?」
「傭兵の小隊なら、半年分の給料になりますかね」
 ロウザイは新しいタバコを口にくわえたものの、なかなか火がつかないようだ。見れば、貧乏揺すりのほうはいつの間にかピタリと止まっていたが、今度は指先が震えている。
「そういうことか……、ま、そういうことなら、今回だけは特別におまえの顔を立てて引き受けてやるかな。それで、頼みごとってなんだ?」

(明日は二章旅路1[馬車の荷台])
http://www.alfasystem.net/a_m/archives/287.html

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