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【試し読み2】夜鳥子5巻五章
桝田 省治

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五章 梅木戸山【ルビ:うめぎどやま】決戦

―4―

 どこにこんなにたくさん隠れていたのだろう。
 リビングルームのあちこちから青い液体が駒子に向かって押し寄せていた。
 まるでホラー映画でおなじみの人喰いスライムのようだ。
 あがけばあがくほど全身にべっとりとまとわりつき、どんどん動けなくなった。
 背中の大蜘蛛の脚にも青い液体が取りついている。まともに動くのは一本だけ。その一本もバタバタと音を立てるばかりで床を踏ん張ることすらできない。
 想像したくはないけれど、今の自分の姿は、粘着シートに捕らえられたゴキブリそっくりに違いないと駒子は思った。
 横向きに床に貼りついた顔の前に、陽が履いていた編み上げのロングブーツが見えた。目だけで見上げれば、胡蝶が少し腰を折り、こちらを見下ろしている。その背後には、真っ赤な蜘蛛の脚がせわしなく蠢いている。
「本物の三ツ橋はんはどこえ? あんさんなら、知ったはるやろ?」
 その声に向かって、一本だけ動く阿修羅の脚が突きだされた。だが胡蝶の手に難なく捉えられる。
「今さらつまらんこと、しんときて。痛い目ぇ見るだけ損どすえ」
 胡蝶は、駒子の右肩の後ろに片足を乗せて踏ん張ると、つかんでいた蜘蛛の脚をねじりながら左右に振った。そしていきなり引っぱった。
「ぎゃああああああッ!!」
 駒子は、我慢できずに泣き叫んでいた。
 修学旅行で阿修羅を用いて戦ったとき、胡蝶に大蜘蛛の脚を砕かれた。さらには邪魔になった脚を夜鳥子が自ら切断した。そのときは、少しも痛みを感じなかった。
 だが、今回は違う。背中の肉をえぐられるような痛みだ。
 目の前の床に駒子の背から引っこ抜かれた大蜘蛛の脚が放りだされた。
 おそらく駒子に見える場所に、胡蝶はわざと投げ捨てたのだろう。その根元に蜘蛛の白い神経の束と、蜘蛛のものではない赤い肉片がついていた。
「これ、痛いやろ? うちも昔やられたことあるんえ。葛城の衆に押さえつけられて一本ずつ引っこ抜かれてな。三本目ぇ、いかれたときは、『早う殺して』しか言えへんかったわ。せやのに、あいつら……」
 ミチミチと不気味な音がそばで聞こえ、背中の肉が引きつる。二本目の蜘蛛の脚を胡蝶がねじりながら、船頭が艪をこぐようにゆっくりと揺さぶっている。
 胡蝶は明らかに一本目を引き抜いたときより時間をかけていた。これからまたあの激痛が来ることを自分に教えて、苦しみを長びかせようとしている。その魂胆がわかっていながら、恐怖で歯の根が合わない。
「早う白状しいて。うち、ホンマはこないな回りくどい殺し方、好かんのや」
 そう言うと、肩を踏む胡蝶の足に再び力が入った。駒子は、思わず目をつぶり歯を食いしばる。だが、無駄だった。
「うぐぅ、ぎゃあああああああああああッ!!」
 それは、確かに自分の口から出た声だった。だが、途中で意識が薄らいだせいだろう、悲鳴が遠のき、視界が真っ白になった。最後まで残った感覚は味覚と嗅覚だ。喉か鼻の奥の血管が切れたらしい。口の中に特有の甘さと生臭さが広がっていく。
「な、ええ子やから早う言いよし。そしたらすぐに楽にしたげまっさかい」

【試し読み1】夜鳥子5巻一章
桝田 省治

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一章 Stammi bene【欧文:横組み/ルビ:スタンミ・ベーネ】――私のために元気でいてね【Q下げ】


―1―

「スタンミ・ベーネっていうイタリアンレストラン、魚介のパスタが美味しくて雰囲気もオシャレなんだって。ちょっとお高いらしいんだけど、一度行ってみたいな~。ねぇねぇ、Q、いつか連れてってよ」
 久遠にそんな話をしたのは、二学期が始まってすぐの頃だ。クラスで席替えがあり、たまたま久遠の後ろの席になった。その日の昼のお弁当のときだったと思う。
 でも、本気で言ったわけじゃないし、久遠もあまり関心がなさそうだったから、スタンミ・ベーネの話をしたのは、そのとき一回だけだったはずだ。
 なのに、久遠はそれをちゃんと覚えていてくれた。……嬉しかった。
 身体中の勇気をかき集めて、秘密の計画を久遠に打ち明けたのが十二月に入ってすぐ、三週間ほど前になる。その数日後だった。
「あのさ……、スタンミ・ベーネのクリスマス・ディナーコースの予約が取れたよ」
 下校途中、電車の中で突然に告げられた。
 真面目な久遠は、デートの予習でもしたのかもしれない。そのとき、スタンミ・ベーネというイタリア語の意味も教えられた。
 久遠は、ちょっと言いにくそうにしていた。というのも、スタンミ・ベーネは、日本語で言えば「元気でね」という別れの挨拶だったからだ。
「ウソ? そんなこと、知らなかったよ……」
 もしかしたら、ふたりの一生の記念になるかもしれないデートをするお店の名前が、よりにもよって別れの言葉というのはいかがなものか。不吉だよぉぉお……。
 とも思ったが「でも、この名前なら一生忘れないから」と言い訳した久遠の困った顔(予約するのが大変だったらしい)があまりに可愛かったので妥協することにした。
 それに「スタンミ・ベーネは、ただの『元気でね』じゃないんだよ」と続いた久遠の説明にいたく感激したのもある。
 スタンミ・ベーネは、正確に訳すと「“私のために”元気でいてね」という意味なのだそうだ。
「あなたが元気じゃなくなると私も元気ではいられない。それほどあなたのことを愛しています……。スタンミ・ベーネは、別れの言葉なんだけど、同時に愛を告げる言葉なんだってさ」
 久遠は、窓の外に顔を向けたままでボソボソとつぶやいていた。耳が真っ赤だった。
 その赤色を見た瞬間、なぜだろう、こっちまで心臓が破裂するくらいドキドキした。
 久遠に秘密の計画を打ち明けてよかった。将来どうなるかはわからないけど、この人が最初の相手になること、死ぬまで決して後悔しない。そう確信できた。
 それと「新婚旅行は、イタリアだあ!!」と心の中で勝手に決めた。
 ――スタンミ・ベーネ。なんて素敵な言葉なんだろう……。
「イタリア人って、きっと世界中で一番ロマンチストで、一番スケベだよね?」
「じゃあ、俺、その日だけイタリア人になろうかな。マリオって呼んでくれ」
「マリオ? その顔のどこがマリオよ、ば~か▽【▽:白抜きハートマーク、以降同じ】」
 そんな他愛ない会話を交わしたあと、どちらともなく手をつないだのを覚えている。

 スタンミ・ベーネは、一番町の南のほう、電飾でできた巨大なクリスマスツリーが空中に浮かんだ十字路を曲がってしばらく行くとすぐに見つかった。
 火災が起きた定禅寺通りからは、一キロほど離れている。ここからなら光のページェントのもうひとつの会場である青葉通り会場のほうがずっと近い。……予約したホテルも目と鼻の先だ。
 幸い、このあたりには天使も落ちてこなかったようだ。普通に営業していた。
 大きくて重い木の扉を押し開けると、大勢の話し声や笑い声に混じり、声変わりする前の少年たちが歌う賛美歌がときおり聞こえた。
 店内は、イタリアの農家を模したのだろうか、ゴツゴツしたレンガの壁と太い丸太の柱が暖かな間接照明に照らしだされている。
 ただし、天井は白く塗られたエアダクトが剥きだし。天井を造る段でお金がなくなったとも思えないが、なんともチグハグな印象だ。でも、こういう違和感が流行なのかもしれない。三〇ほどテーブルが並んだ満席の店内の誰ひとり気にする様子はない。
 他に目についたことと言えば、店の中をウロウロしている客が多いこと。ちょっと落ち着かない感じ……。
 あとは、カジュアルな服装の人がほとんどで、その点だけはホッとした。
「予約していた久遠です」と、求道が店員にぬけぬけとウソをついたあとに、
「定禅寺通りの火事に巻きこまれちゃって……、着替える場所、借りられますか?」と、駒子も少しだけウソをついた。
 引ったくるようにして求道から自分のスポーツバッグを取り返すと、駒子は案内されたスタッフの控え室に逃げこんだ。一秒でも早くひとりになりたかったからだ。
 バッグから明日着るつもりだった白いフィッシャーマンセーターを取り出し、ついでに下もジーパンに穿きかえる。
 覚悟はしていたが、身につけていたもので奇跡的に無事だったのは、下着を除けばマイクロミニのスカートだけだ。
 ダウンのベストには大きな鉤裂き。ティファニーの包み紙のような淡い青緑色のセーターには薄っすらと焦げ目。ピンク色のタイツの膝には丸い穴。ショートブーツは傷だらけ……。
 泣きそうだった。だけど、着替えている間中、駒子が考えていたのは別のことだ。
 ――求道は、なぜ、スタンミ・ベーネを知っていたのだろう? 今夜、Qと私がこの店に来ることは、ふたりしか知らないはずだ。なのに、なぜだ?
 だが、いくら考えても答が見つからないまま、着替えが終わった。
 店内に戻ると、隅っこのほうの席に案内された。すでに座っているはずの求道の姿は、ちょうど大きな柱の陰に隠れて見えない。
 駒子の目の前のテーブルには、三角に折りたたまれた白いナプキンがあった。その角には“Stammi bene【欧文:横組み。ルビ:スタンミ・ベーネ】”の刺繍が見える。
 ナプキンの前には、たくさんのナイフやフォーク、スプーン、割り箸までが入った籠が置かれ、テーブルの端では、赤いロウソクの灯が丸いガラス器の中で揺れている。
 だけど、スタンミ・ベーネの意味を恥ずかしそうに教えてくれた久遠はいない。
 代わりに駒子の正面には「Hするだけなら久遠の身体だけあればいいだろ」と言わんばかりに……いや、さすがにそんな破廉恥なことは口にしないだろうが……久遠の身体に納まった別の男が座っていた。
 おまけに、その男が着ていた服……。駒子は、偶然を呪う。
 求道は、さっきまで着ていた久遠のダッフルコートを脱いでいた。
 コートの下に着ていたのは、白いフィッシャーマンセーター。それにジーパン。
 なんと、駒子のセーターと格子状の縄のような模様までがそっくり。
 これじゃあ、まるでペアルックだ……。
 ひとつとして同じものがないと言われるフィッシャーマンセーターの模様が、偶然に一致するはずはない。これは明らかに陰謀だ。
 久遠家とは家族ぐるみの付き合いで、ことに母親同士が姉妹のように仲がいい。ふたりでバーゲン会場にもよく突撃しているようだ。きっとそのときに自分の息子と娘をからかうために示し合わせて買ったに違いなかった。
 このいたずらも久遠となら「私たち、気が合うね」くらいの笑い話になっただろう。
 だが、目の前にいるのは、外見は久遠でも中身は求道、夜鳥子の亭主だ。
 今はとても笑う気になんかなれない。なのに……、
「俺たち、気が合うね」
 求道は能天気に笑いながら、駒子のセーターをじろじろと見つめた。
「今朝、そのセーターを着たのはQでしょ。あんたじゃないわ!!」
「おッ、そりゃそうだ。じゃあ、おまえら、気が合うな」
 ――夜鳥子には悪いけど、私、この人、好きじゃないかもしれない。
 なんでこんな無神経な男とふたりで、食事をしなければならないのだろう。
 なんだかひどく惨めで腹立たしかった。こんなヤツとあまり喋りたくない。
 だから、駒子は単刀直入に訊ねる。
「ねえ、求道さん。なんであんた、この店のことを知ってるのよ?」