●序章冒頭
序章 淫らな夢
桂木駒子【ルビ:かつらぎこまこ】は、その朝、男に抱かれている夢を見ていた。
朝日でいっぱいの自室のベッドで目を覚ましたとき、頬が焼けるように熱く、心臓が破裂しそうなくらいドキドキしていた。
夢の中で自分が抱かれていたのは、久遠【ルビ:くどう】だと思う。だが、どこか違う気もした。
久遠久【ルビ:ひさし】は、駒子の数少ない異性の幼なじみだ。
同い年の十七歳。家が近かったため、幼稚園から小学校中学校とずっと一緒。今も東北地方南部のS市郊外にある同じ私立高校に通っている。おまけに同じクラスで席も前と後ろ。
背が高く親切で勉強もでき、スポーツもそつなくこなす。それにわりとイケメン。
だから……と言うわけではないが、久遠は、駒子のファーストキスの相手だ。
いたしたのは三ヶ月ほど前、夜の八時過ぎ。場所は自宅の前の道だった。
子供のときからずっと好きだったから、ぜんぜん後悔はしていない。
と言うか、誘ったのは、こっちだった。
嬉しくて身体の震えが止まらなかったのを覚えている。
以来、久遠がそれ以上の関係を望んでいることは、なんとなく察しがついていたし、正直なところ自分も同じ気持ちだと、よーくよーく自覚もしている。
なのにだ。なのに、そこから先にちっとも進まない。
世間で言うところの、友だち以上、恋人未満の典型かも……。なんとも歯がゆい。
「原因はQ(駒子は久遠をそう呼ぶ)が優柔不断で消極的なせいだ!!」と、駒子は決めつけていたが、どうやらこっちに問題があるらしいと最近になって気づいた。
だから、舌を噛んで死にたくなるほどの恥ずかしさに耐えつつ、身体中の勇気をかき集め、乙女にあるまじき“秘密”の計画を駒子のほうからもちかけた。
計画を聞いた久遠は、目と口を大きく開けたまま固まり、それでもなんとか、張子の虎のようではあったけれど、何度も首を縦に振ってOKした。
その日がついにやってくる!!
冬休みの初日でクリスマス・イヴの前夜。あさってだ。
ふたりの大切な記念日になるはずのそのときを想像すると、駒子の小さな胸のドキドキは、さらに速まった。
ところで、駒子には、もうひとつ秘密がある。
もちろん今どきの女子高生ともなれば、親や友人にも言えない秘密のひとつやふたつ、あってもおかしくない。
だが、駒子の秘密は、他と比べられないほどユニーク、かつ相当に深刻だった。
信じられないだろうが、駒子の身体には、もうひとり別の人格が宿っているのだ。
と言っても、いわゆる二重人格とか、そういう類のものではない。
そんな生易しいものであったなら、どれだけ楽だったろうと思う。
はぁぁあ……。(今のは溜息)
駒子に宿るもうひとりの人格の名は、夜鳥子【ルビ:ヌエコ】。たぶん姓は、葛城【ルビ:かつらぎ】だ。
平安時代の女陰陽師の霊で、自分のご先祖に当たる、らしい。
夜鳥子が駒子の中に現れたのは、九月末。ちょうど三ヶ月前になる。
実は、久遠とのファーストキスのきっかけを作ってくれたのは、この夜鳥子だ。
その点では感謝していなくもない。だが、夜鳥子のせいで死にそうな目に何度も遭ったし、被った苦労も多々多々多々ある。縁結びの借りくらいはチャラのはずだ。
夏休みに駒子たちの通う高校に新校舎が完成した。その工事で地中を掘り返したせいだろう、数匹の鬼が封じられていた塚が崩れたらしい。
「校内に解き放たれた鬼どもを放っておけば、次々に先生や生徒が食われる。奴らを倒せるのは儂だけ。ついては貴様の身体を貸せ」
夜鳥子は、夢の中でそう迫った。で、駒子は、それを了承してしまったのだ。
夜鳥子の仕事は“鬼切り”。
八つの式神を使って人に憑いた鬼と戦い、これを滅することを使命としている。
夜鳥子は、この式神たちを刺青【ルビ:いれずみ】のカタチで身体に飼っていた。
そして“なぜか”夜鳥子の出現とともに、その刺青が駒子の全身に現れたのだ。
百足【ルビ:むかで】、蜘蛛【ルビ:くも】、大蛇、蟹【ルビ:かに】、毒蛾、烏【ルビ:からす】に蛭【ルビ:ひる】……。
そんな気味の悪い刺青が全身を覆った女子高生を想像してみて欲しい。
さらに夜鳥子は、いざ戦闘となれば、久遠の前であろうと平気で脱いだ。
断っておくが、裸にされるのは、夜鳥子ではなく駒子――私の身体だ。
あれには泣きたくなった。
ありがたいことに、ここ二ヶ月、夜鳥子は眠っていて刺青もきれいに消えている。
だが、またいつ夜鳥子が目を覚まし、自分の身体が刺青だらけにされ、否応なく命がけの戦いに付き合わされるかと思うと気が気ではない。
さらに夜鳥子に関しては、もうひとつ、引っかかることがあった。
これは女の勘だ。根拠はあまりない。でも、十中八九、当たっていると思う。
――夜鳥子も久遠のことが好き……らしい。
それも日頃はクールな夜鳥子が、鬼との戦闘の真っ最中に心を乱すほどにだ。
夜鳥子は、久遠を八百年前に恋人だった男の生まれ変わりと信じている節がある。
それが夜鳥子の思い込みか、本当なのかはわからない。
問題は夜鳥子の気持ち……。
ようするに、駒子の身体の中には恋のライバルがいて、駒子、夜鳥子、久遠の間には、考えただけで頭が痛くなるような複雑怪奇な“三角関係”が存在しているというわけだ。
●一章冒頭
一章 受胎告知
―1―
「私、妊娠したみたいなんですよぉ」
あまりに唐突な三ツ橋の告白に呆気にとられ、駒子は完全に言葉を失っていた。
二学期も残すところあと一日。明日は終業式だけ。大半の部活もすでに休みに入っていて、常ならば体育会の部員でひしめく放課後の運動場も人影がまばらだ。
いつもは自宅まで送ってくれる久遠も、今日は予備校がある金曜日。授業が終わると、
「あとでメールするから」と手を振り、さっさと下校してしまった。
というわけで、今、教室にいるのは駒子と三ツ橋だけ。もしかしたら、この階にはふたり以外に誰もいないかもしれない。それほど静かだ。
ふたりは、運動場に面した窓際にある駒子の席で顔を見合わせていた。
三ツ橋が座っているのは、駒子のひとつ前、久遠の席。三ツ橋は、久遠の椅子に横向きに腰かけて、駒子の机に頬杖をついている。
駒子も自分の席で頬杖をついていた。駒子と三ツ橋の顔の距離は十センチほど。内緒話には、これくらいがちょうどいい。
昼休みに、駒子は三ツ橋から、放課後、相談に乗ってもらえないかと頼まれた。
三ツ橋企画のスキー合宿に、駒子も他数名の友人たちと、しあさってから参加する予定だ。放課後、三ツ橋とその打ち合わせをするつもりだったから、元もと時間は空けてあった。だから、相談も別に構わない。だが、相談の中身が想像がつかなかった。
成績トップの三ツ橋が、自分に勉強の相談をもちかけるわけはない。と、すると、
「あ、もしかしたら恋愛に関する相談かも。そうね、そうよ、確かに三ツ橋ちゃんに比べれば、Qがいる分だけ、そっちは私が先輩だもん。でへへへ」
と駒子は暢気に構えていた。ところが三ツ橋ときたら、開口一番……、
「私、妊娠したみたいなんですよぉ」
「え、い、あ、お、う?」
発声練習のような意味不明の母音を立て続けに発したまま、駒子の口は開いたままふさがらなかった。