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傷だらけのビーナ 試し読み5
桝田 省治

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[再会]


 梯子【ルビ:はしご】と見まがうばかりの急傾斜なのに、その階段には手すりの類が一切なかった。もしも落ちたらケガではすみそうもない……。
 ヒヤヒヤしながら、高さにして三階分ほど階段をのぼった先には、下にあったのと同じような両開きの扉があった。少し違っていたのは、左右の扉に縦長の紙が一枚ずつ貼られていたことだ。
 その紙には文字らしき記号がびっしりと書かれていた。大半はなじみのない記号だが、見覚えのあるものもいくつか混じっている。
 ×、◎、◇、V、И、△……それはビーナの全身に今なお残る傷あと、精霊の名前を表す印だ。
「これは? 魔物が入ってこれないようにするお札か何か?」
「それもあるけど、どっちかといえば逆っスかね」
「どういう意味?」
 ビーナの質問に、ヤトマはあいまいに笑いかえすと扉を開けた。
 その瞬間、モワっと押しよせてきたのは透明の魔物……ではなく、思わずあとじさるほど濃厚な男くさい空気だった。
 窓が少ないのかもしれない、昼間だというのに中は薄暗い。
 左右と正面に長い廊下が続いている。廊下の左右には、入口にすだれをかけただけの小さな部屋が、見えるだけでも二十近く並んでいる。
 太い梁が何本も通り、天井が斜めに傾いているところから考えて、この空間は倉庫の天井裏だろう。
「ンおおおお……!! ンああああ……!! ンむむむむ……」
 突然、右手のほうから獣がうめくような奇声が響き、ビーナの身体がビクリとした。後ろからは、ハゲオヤジのいかにも不快そうな舌打ちが続く。だが、ヤトマは、まるであの声が聞こえていないかのようにスタスタと歩いていく。その表情はあいかわらずだが、あの奇声については質問されたくない雰囲気がありありと見えた。
 ビーナは、ヤトマのあとについて歩きながら、すだれが上がっている部屋の中をチラチラとのぞいた。木製の簡素な二段組の寝台と横長の机と椅子が二脚、縦長の引き戸がついた物入れも見えた。どうやら全室とも家具の種類と数は同じだ。
 たまに脱ぎっぱなしの下着が寝台の上に放置されたままの部屋もあったが、だいたいは整理整頓されている。
 すだれが下りている部屋のいくつかからは、寝息が聞こえていた。
 ここで数十人の男たちが常に寝起きしている様子だ。
 正面の廊下を少し進み、左に曲がった突きあたりの部屋の前で、ヤトマが立ち止まった。
 この部屋だけは、入口にすだれではなくしっかりした扉がついている。この扉にも、先ほど見たのと同じお札が貼られている。しかも、こちらは扉の取っ手が埋まるほど隙間なくおおっている。
 その執拗さを目にしたとき、ヤトマがさっき言った“逆”の意味がわかった気がして、背中がひやりとした。
 これは入るのを防ぐのではなく、出るのを止めるお札なのだ。つまり、この扉の向こう側には、とんでもなく危険なものが封じられている。
 ――いったい何があるの?
 ビーナの不安をよそに、ヤトマは躊躇なくその扉を拳の先で二、三度軽快にたたき、中からの返事を待たずに扉を開いた。
 その瞬間、ビーナは目がくらんだ。
 正面の大きな窓いっぱいに見えたのは、オロロチ河だ。船の帆柱がすぐ近くに見え、午後の強い日差しを反射した水面がキラキラと輝いている。
 その清らかな光と窓から入るそよ風のおかげだろうか、この部屋には男くささを感じない。
「ヤトマ、戻りました。ロウザイ隊長をお連れしました。それと懐かしいお客さんも」
 ヤトマに手招かれ、ビーナはおそるおそる部屋に入った。
 思った以上に広く横に長い部屋だ。ここには壁だけでなく天井まで先ほどのお札が雑に貼られている。壁際には真っ黒で人の背丈ほどもある大きな祭壇がズラリと並んでいた。まるで立てかけられた棺おけだ。その一つひとつに果物と花がていねいに供えられている。
「懐かしい…………客…………?」
 やや口ごもった声がしたほうを見れば、部屋の隅でがっしりした体格の大男が四人、頭を突きあわせるようにして、円卓を囲んでいた。すぐそばに椅子があるにもかかわらず誰も座っていない。
 全員が今すぐ出陣できるような出で立ちだ。帷子【ルビ:かたびら】の上に使いこまれ黒光りする革の鎧を身につけ、かたわらの床にはさまざまな武器が無造作に置かれている。
 その輪の中にひとりだけ女がいた。歳は三十半ばだろう。細身だが、背丈はまわりの男とそう変わらない。女としてはかなりの長身の部類だ。
 女も胴体の前面と腰の部分にいちおう革の鎧をつけていた。だが、肩も首も手足も背中も青白い素肌が露出している。ようするに下着のような薄っぺらな鎧以外、女は何も着ていない。武器はといえば、腰にさげた大振りのナイフ一本だけだ。
 短く切った頭髪は、前の部分だけ色が抜けていた。その白い前髪のかたまりが左眼を隠すように垂れている。女は、思索に集中するようにうつむいていた。
「エル?」
 ビーナは、無意識に声に出して名前を呼んでいた。
 その声に顔をあげた女は、なぜか左手に大きな丼、右手に朱色の箸を持っていた。その箸でビーナを指している。
「エルは…………私だが…………あなたは…………?」
 そう訊ねたエルの口元から赤い物がはみだしていた。しゃべるたびに跳ねるように動いているのは、ゆでたエビの尻尾だ。
 どうやら昼食の真っ最中だったらしい、よく見れば男たちも丼と箸を持っていた。
 食べていたのは、魚介類のぶつ切りをのせた茶漬けご飯。卓上には、大皿に盛られた根菜の煮物も見える。そういえば、下の寄り合い所で同じものを食べている人を見た気がする。
「ビーナです。お久しぶりです。お食事中、すみま……」
「ごめん、覚えてない。…………誰だっけ?」
 挨拶の途中でエルに言葉をさえぎられ、ビーナはとまどっていた。
 チグル村の名前を言おうかどうか迷っていたとき、目の端にヤトマが見えた。こちらを見ながら、何度も鼻の頭を指先でかいている。
 鼻の頭をかいているということは、
 ――うそッ!? なんで!? エルが怒ってるってこと? あたし、何かまずいことした?
 ビーナには、エルが怒っている理由がわからなかった。せっかく会えたのに泣きたい気分だ。
 エルは、とくに怒っているふうでもなく、ビーナにチラリと目をやる。
「ビーナ。悪いが、少し待っていてくれ。食事も打ち合わせもじきに終わる。そのあとに話を聞こう。あぁ、ロウザイ殿も申し訳ないが……」
 そう言うと、エルは箸の先で壁際の長椅子を指した。そこに座って待てという意味らしい。
 ロウザイは、例によって品のない舌打ちをしたものの、指定された長椅子に向かった。腰の青龍刀を外して脇に置くと、長椅子の真ん中に脚を大きく広げてどっかりと腰をおろす。
 ビーナは、腰にさげた面を外し弓を手に持って、ハゲオヤジからできるだけ離れた長椅子の端に身を縮めて座った。
 ハゲオヤジは座った途端、落ち着きのない貧乏揺すりをはじめていた。おまけに妙なものを懐から取りだし火をつけて煙を吸っている。刻んだ葉を細い筒状に紙で巻いたものだ。
「ねえ、それ、なに?」
「けッ、タバコも知らねえのか。半年前からミットナットで生産されはじめてな、今じゃ一番人気の輸出品だ。なかなか手に入らないんだぜ」
 自慢げに言うと、ハゲオヤジは、ビーナの顔に向かって容赦なくくさい煙を吐きかけた。
 頼りのヤトマはと見れば、いつの間にか円卓の輪に加わり、こちらを振り向いてもくれない。
 ――最悪だよ。
 ビーナは、膝に置いた面の縁を両手で握りしめながら、エルのほうを見つめてため息をついた。
 円卓の中央には牛の革が広げられ、その上に貝殻や魚の骨がいくつも並べられている。その食べかすを、エルとヤトマが議論しながら、箸でつまんで場所を移したり向きを変えたりしている。
 ――あの人たち、何をやってるんだろ?
 目を凝らすと、牛革にはなにやら細かな絵と文字が描かれているようだ。それにふたりの会話の端々に聞き覚えのある地名が出てくる。たぶんチグル山脈にある山や谷の名前だ
 ――地図? 卓上に広げられているのは、きっと地図だ。じゃあ、あの食べかすは何だろう?
 それが気になってしょうがない。ビーナは、たまらず隣のハゲオヤジに小声で訊ねる。
「ねえ、地図の上の貝殻や魚の骨。あれ、何やってるの?」
 ハゲオヤジは、さも面倒くさそうに背筋を伸ばして、卓上を一瞥【ルビ:いちべつ】する。
「貝殻がキルゴラン軍で、魚の骨は我らがチャンタ王子率いるナンミア軍の布陣ってとこか。ちーと魚の骨のほうが旗色が悪いな。さてさて、こっからが見ものだ」
 ビーナは、その答にギョッとした。ハゲオヤジからまともな答が聞けるとは、まったく期待していなかった。それに、このハゲオヤジ、チラッと見ただけなのに……。
 ビーナは軍隊の布陣など知らない。だけど、コバじいさんとふたりで獲物を追いこむときの配置なら頭に描ける。
 確かにハゲオヤジの言うとおり、貝殻と魚の骨が敵味方に分れて対峙しているように見えるし、貝殻が魚の骨を囲んでいるようにも見える。
 ――このハゲオヤジ、ただのスケベで口の悪い酔っ払いじゃないかも?
 隣を見ると、ハゲオヤジは素知らぬ顔で、まだ卓上をながめている。
 そのとき、「では、ここだな」とエルの凛とした声が響いた。
 エルは、口にくわえていたエビの尻尾を人さし指と中指ではさむと、それをずらりと並んだ貝殻の一番端に置いた。つまりキルゴラン軍の側面を突く位置だ。
 円卓を囲んだ男たちはエビの尻尾を凝視し、息を呑むばかりで誰も声を発しない。
 だが、ひとりだけエルが置いたエビの尻尾の場所に異を唱える者がいた。
 出し抜けに立ちあがったのは、ビーナの隣に座っていたハゲオヤジだ。
「おい、そのエビ小隊。兵糧に火をかけるだけなら、もうちょい下げとけ」
「なるほど。珍しく私とロウザイ殿の読みが一致しましたね。これは吉兆かもしれません。おかげで策に自信がもてました。では、もう少しだけ……」
 エルは、ロウザイの顔を見ながら小さく微笑むと、エビの尻尾に手を伸ばす。
「いまだに私の身を本気で案じてくださるのは、ロウザイ殿おひとり。心から感謝しています」
 だが、その言葉とは裏腹に、エルはエビの尻尾をさらに前に押しだし、貝殻の左翼を崩す。ロウザイの提案とは完全に逆だ。
「けッ!! クソ尼が。勝手に死にやがれ!!」
 ロウザイは胸の前で腕を組むと、またどっかりと腰をおろした。椅子の背に身体を預け、憮然とした表情のまま目を閉じている。
 ビーナには、ふたりのやりとりの意味がさっぱりわからない。小声でまたハゲオヤジに訊ねる。
「ねえ……、あのエビの尻尾は何よ? 敵? 味方?」
「死にたがりなんだよ、あいつは……」
 ロウザイは目を閉じたまま、円卓のほうに向けて顎を上げた。そこには、何ごともなかったかのようにテキパキと男たちに指示を与えるエルの姿があった。

(明日は一章4[もうひとつの再会])
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傷だらけのビーナ 試し読み4
桝田 省治

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[港の秘密基地]


「その後、あんときの傷はどうっスか?」
 ヤトマの唐突な質問に、ビーナは困惑した。
「だ、大丈夫だよ。あとが少し残ってるけど」
「イヤじゃなければ、ちょっとだけ見せてもらって、いいっスかね?」
 本当はイヤだった。それに本当は“少し”じゃない。だけど、ヤトマは命の恩人だ。それに全部知っている。
 ビーナは、弓を持っていた左手の袖口を右手でつまむと、肩のあたりまで一気にめくりあげた。
 陽に焼けた小麦色の二の腕に、白っぽい桃色の線が×のカタチにくっきりと浮きでている。パッと見た感じは、すすけた板の上を指でなぞった印象だが、
「なんだよ、こりゃ。ミミズみてえだな」
 勝手にのぞきこんだロウザイが言うとおり、土の上を這いまわるミミズのほうがずっと似ている。よく見ると、傷の一本一本が少しふくらんでいて、細かく引きつっているからだ。これが顔以外、ビーナの全身を今もおおっている。
 ヤトマは、考えごとをしているようにじっと傷を見つめていたが、やにわに顔を上げる。
「もういいっスよ。本当に申し訳ない。できるだけていねいに縫い合わせたつもりだったんスけどね、なにせ数が数だったから……」
「命を助けてもらってぜいたく言ってたらバチが当たるよ。大丈夫。気にしてないから」
 ビーナは、長い袖をさっと引っぱって元に戻し、ヤトマに向かって懸命に微笑んだ。
“気にしてない”はもちろんウソだ。この傷を気味悪がらなかったのは、コバじいさんだけだった。
「了解っス。じゃあ、エル隊長に会いにいきましょうか!!」
「ホント!? エルに会えるの?」
 ヤトマは、やや垂れたまなじりをさらに下げた屈託のない笑顔でうなずくと、ビーナの背中を軽く押した。
 並んで歩くビーナとヤトマのあとにロウザイがついてきていた。ぜんぜん懲りた様子もなく、とめどなく続く口汚い文句に混じり、左足を出したあとに右足を二度引きずる独特の三拍子がつかず離れず聞こえている。
 勇壮な兵たちの行進に沸きたつ大通りを左に折れると、独特の生臭いニオイが漂っている。
“マリーシャの胃袋”と呼ばれる市場通りだ。
 朝夕には色とりどりの天幕を張った無数の店が軒を並べ、自分の足が見えないほどの人出と真っ黒なハエでいっぱいになる場所だ。だが、昼下がりの今は、大通りの出陣式とも重なって拍子抜けするくらい閑散としていた。
 市場通りをしばらく歩けば、その先にオロロチ河の雄大な流れが見えてくる。
 王都マリーシャは、オロロチ河の下流に開けた交易都市だ。
 内陸に点在する農村や山村と、海に面した工業都市ミットナットをつなぐ陸路と水路のいわば交差点に位置し、大量の人と物が昼夜を問わず集まってくる。
 オロロチ河の港には、国内の船ばかりでなく海外から来た巨大な帆船も停泊していた。
 川に面してずらりと立ち並ぶ倉庫街は、広さだけなら王宮に匹敵するほどだ。
 どうやらヤトマが向かっているのは、その倉庫街の王宮に近い側の一角のようだ。
 ビーナは、道すがらこの八年間にあったことを、ヤトマに訊かれるままにしゃべっていた。人と話すのが久しぶりで楽しかったせいもあるが、ヤトマが稀代の聞き上手だったからだろう。

 ビーナは、十七歳になっていた。
 あの忌まわしい惨劇のあと、ビーナは親戚の間をたらいまわしにされた。
 最初の二年はひどかった。言葉を失い、こわくて家から出られず、ことあるたびにあの日の記憶がよみがえり、泣きわめきながら嘔吐と失禁と発熱を繰りかえすのが常だった。
 結局、最後にビーナを引き取ったのは、母方の祖母の弟、コバ。齢七十を超える寡黙な老人だ。
 山奥の狩人小屋での暮らしは、コバじいさんとビーナのふたりきり。とにかくなんでも自分でやらなければ生きていけない。朝から晩まで忙しく一年中厳しい気候だった。だが、あれこれ考えている余裕などない生活がかえってよかったのかもしれない。ビーナの心身は、日々ほんのわずかずつ回復していった。
 同時に、ビーナは、山で生きていくための知恵と技術をコバじいさんにたたきこまれた。とくに弓は、飛距離はともかく正確さなら誰にも負けない自信ができた。
 風邪をこじらせたコバじいさんがあっけなく亡くなったのが半月前のこと。
 ひとりぼっちになったビーナは、キルゴランとの大戦【ルビ:おおいくさ】が近々あるとの噂を耳にするや、弓兵に志願しようと王都マリーシャにやってきた。それが三日前だ。
 ビーナは張りきっていた。軍に入隊すれば、あの片目の不気味な男にきっといつか出会える。家族や友だちの仇を必ず討つ。大切なものをすべて奪いさっていったあの男を「ぶっ殺す!!」、再びそう誓いを立てた。
 初めて訪れた王都は、山育ちのビーナを驚かせるものばかりだった。
 まず人間の数と歩く速さ。街全体が軍隊バチの巣に矢を射たときのような喧騒に包まれていた。
 次に建物の数と規模。ビーナは、チグルの神木より高い物がこの世に存在するとは思ってもみなかった。ましてそれを人間が造ったなんてにわかに信じられない。
 三つ目は、店先まであふれでて、それでも足りず、うずたかく積みあげられた見たこともない物品の数々。とくに海産物の異様な造型と衣服の派手な色には度肝を抜かれた。
 だが、そんなことはどうだってよかった。王都の見物に来たわけじゃない。目的は別にある。
 ビーナは鼻息も荒く、王宮前の広場に設けられた志願兵の登録所に真っすぐに向かった。
 そこで、待っていたのは、当然のごとくいつもと同じあの決まり文句。
 久しぶりに聞いた気がした……、
「女には無理!!」
 何度かけあっても、自慢の弓を披露する機会も与えられず、話さえ聞いてもらえない。挙句には一方的につまみだされ……、
 ビーナは、目の前をただ通りすぎていく兵隊の行進を、爆発寸前のムシャクシャ腹でにらみつけていたというわけだ。
 そこにたまたま聞こえてきたのが、酔っぱらったいけ好かないハゲオヤジの戯言だ。たぶん言った本人は聞こえているとは思っていなかっただろう。だが、山では小さな音ひとつ、聞き逃しただけで身を危険にさらす。雑踏の中で人間の声を聞き分けるくらい、ビーナには造作もない。
 ハゲオヤジは、最初、お守りにしている精霊【ルビ:ボンゴロス】の面に、よりによって「縁起が悪い」と難癖をつけていた。
 ビーナは、この面を常に肌身離さず持ち歩いている。あの事件以来、精霊の姿が見えなくなったビーナが、故郷を思い出せる唯一の品、心のよりどころだったからだ。
 次に聞こえたのは「若い女のお尻を肴に飲む酒は格別」とかナントカ……。
 このハゲオヤジこそが、女をさげすみ「女には無理!!」と決めつける、わからず屋の男たちの権化に思えてきたら、もう我慢ならなかった。
 だけど、実のところは、うっぷん晴らしができるなら理由はなんでもよかったし、相手だって男なら誰でもよかった。ようするに八つ当たりだ。それは自分でもわかっていた。
 からかうつもりで弓を引いた。もちろん本気で射【ルビ:う】つつもりなどハナからなかった。
 だけど、ハゲオヤジときたら毛の先も反省の色がない。
 で、思わず、売り言葉に買い言葉。いつの間にか退くに退けなくなっただけ。
 正直「どうしよう?」と困り果てていた。
 だから、ヤトマが声をかけてくれたのは渡りに舟!! 感謝感激!! 乾季の雨!!
 それに「何やってんスか?」と「……だけっスよ」の“ス”の音。それを聞いた瞬間、胸の内に温かいものが込みあげ、力が抜けて自然に弓を下げていた。
 その温かいものの正体は、すぐにはわからなかったけれど、次に耳に飛びこんできたのは“エル”の名前。これでビーナの記憶は完全によみがえった。
 気がつくと「エルに会いたい!!」、大声でそう叫んでいた……。

 歩きながらしゃべっていたのは、もっぱらビーナだったが、ヤトマのほうからもひとつだけ話があった。それは奇妙な助言だ。
「きっと、あなたの元気な姿を見れば、エル隊長も喜ぶと思いますよ。あ~、でも、あの人を知るには時間がかかると言うか、付き合うのにちょいとしたコツがいると言うか……、極端に感情表現が下手なんスよねえ。そこがまた面白いんスけど。だから、こうしましょう。よくわかんないときは、こっちを見てくださいな。オレが頭に手を当ててたら、エル隊長は笑っている。鼻の頭をかいてたら怒っている、ということでいいっスか?」
 この注意が、本気なのか冗談なのか量りかねたものの、ビーナはとりあえずうなずいた。
 ちなみに、「泣いてるときは?」とビーナが訊ねると、
「エル隊長は、どんなときも泣かないっスよ」とヤトマが応えたあとに、
「けッ、あのクソ尼には血も涙もねえんだよ!!」と、ハゲオヤジが唾と一緒に吐き捨てた。
 つくづく心根の腐った最低のオヤジだ……。
 ビーナは腹立たしかったが、ヤトマはあいかわらず笑みを絶やさない。もしかしたら、エルよりヤトマのほうがよほど表情が読めないかもしれない。
 そんなことを思いながら、ヤトマの顔を振り向いたとき、ヤトマが足を止めた。
「あ、ここっス。近道なんで表から行きましょう。どーぞ、遠慮なく」
 手招く先にあったのは、チグル村がスッポリ入りそうなほど大きな倉庫の、ビーナの生家より大きな扉だ。中からにぎやかな話し声が聞こえている。
 扉の中をのぞき見ると、上半身裸のいかつい男たちが二百人くらいいた。
 ここは、港で働く人足たちの寄り合い所のようだ、
 地面から一段高い板敷きの広間に座りこみ、男たちがご飯を食べたりサイコロ遊びに興じている。横の壁には大きな黒板がかけられていて、そこに書かれた白い文字や数字を真剣な面持ちで書き写している人もいる。かと思えば、床でのん気に昼寝をしている者もいて、人を踏まないように歩くのが難しいくらいの混雑ぶりだ。
 入口に立つと、女が珍しいのか、何十人もの男の目がジロジロと見ているのがわかった。
 ――本当にこんなところにエルがいるのだろうか、あたしはだまされているのかもしれない。
 そんな疑念がビーナの脳裏をかすめたとき、ヤトマが部屋中に響くような大声をあげた。
「皆の衆、聞いてくれ!! 先に言っとくけど、この娘さんはエル姐さんの妹分だ。お尻に触ったりしたら、腕が飛んでも知らないっスよ!!」
 ヤトマの口から出まかせに大の男たちが飛び起きて道を作る。その中を「はいはい、ちょっとごめんよ」と、ヤトマはビーナの手を引いてどんどん奥に進んでいった。
 どうやらエルがここにいるのは本当のようだ。それにしても……
「ここ、どこ? エルはここで何をやってるの? ……料理人?」
 男たちがたむろする広間の奥には、大きな厨房があった。巨大な魚に巨大な包丁をたたきつける音、「急げ!!」と怒鳴る声、突如として天井近くまであがる炎。その喧騒の中で数人の料理人が片時も休むことなく動きまわっている。
「ご苦労さんっス!!」
 ヤトマは、料理人たちに笑顔を振りまきながら、ビーナを連れてさらに奥へ進んでいく。
 なかなか質問の答が返ってこないと思ったらヤトマの口はふさがっていた。厨房を抜けるとき、いつの間にかつまみ食いをしていたらしい。
 厨房の隣にあったのは食料庫だ。ビーナの背丈の二倍はありそうな棚が何列も並んでいる。その棚には、肉魚、野菜、米麦……、さまざまな食材や調味料が雑然と詰めこまれていた。
 ヤトマは、果物の棚から熟れたマンゴーをふたつ取ると、そのひとつをビーナに渡す。
「港の人足さんに仕事を斡旋して、船主さんや倉持ちさんから手間賃をいただいてんスよ。昨日までは軍事物資の荷降ろしでテンテコ舞いの大忙し。今日は、ちょっと暇みたいっスけど。あとは見てのとおり、食堂をかねた簡易宿泊所というところっスかね。オレはそこの番頭で、エル隊長は元締め……表向きは」
「表向きは?」
 ビーナが繰りかえしたとき、乾物を満載した棚の後ろにヤトマが隠れるように入っていった。そこには大きくて頑丈そうな両開きの扉があった。
「それは、エル隊長に直接お訊ねなさいよ。あなた、あの片目野郎を“ぶっ殺す”んでしょ? お国のためよりわかりやすいし、そういうのもアリじゃないっスかねえ。さッ、どうぞ」
 ヤトマはニンマリと笑うと、大きな扉を重そうに押しあけた。
 その先には、まぶしい光があふれ、天国まで続いていそうな長い昇り階段が見えた。


(明日は一章3[再会])
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傷だらけのビーナ 試し読み3
桝田 省治

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一章 王都マリーシャ


[出陣式]


 はちまきと裾が広がった半ズボンは、サフランで染めた鮮やかな黄色。陣羽織は深い海を思わせる藍色だ。目が覚めるような二色の対比が、午後の強い日差しの下でギラギラと輝いて見える。
 そろいの戦装束を身にまとった勇壮な男たちが、王宮から一直線に伸びた大通りを一糸乱れぬ足どりで行進していく。いつ果てるとも知れぬ大行列だ。
 若きチャンタ王子を先頭に千騎の騎馬武者、その後ろには歩兵一万二千、弓兵六千、弩兵千が途切れることなく続いている。
 沿道では、王都マリーシャの市民が総出で、王家の象徴である双頭の井守【ルビ:ゲッコー】を描いた黄色い旗を打ち振っている。その様は、激しい雨にたたかれる水面【ルビ:みなも】のようだ。
 八年前に起きた“チグルの虐殺”以降、キルゴラン国との間に小競り合いが絶えなかった。
 だが、今回ばかりは小競り合いではすみそうもない。これまでとは桁違いのキルゴラン軍が東の国境付近に集結している――そんな情報が王宮にもたらされたのは先月のことだ。
 敵の侵攻を阻むべく、ナンミア国王は未曾有の大軍をチグル山脈に派遣することを即断した。その数、二万人。これはナンミア国にとって戦力の八割に相当する数だ。
 マリーシャ市民の大半は、王の並々ならぬ決意をたたえ、戦地におもむく兵士たちを喝采で迎えていた。
 とはいえ、市民全員が諸手をあげて支持したわけではない。どこにもヘソ曲がりはいるものだ。

「数を頼んでナリを整えただけの兵隊さんで、魔物に勝てりゃあよぉ、けッ、苦労はしねーっての」
 大通りに面した居酒屋の前に並んだ縁台の片隅で、うらぶれた中年男がボソボソと独りごちていた。かなり飲んでいるらしく、ろれつが怪しい。
 背は高いほうではない。岩のようにがっしりした身体に余分な肉が少々ついている。どっかりと腰をおろした姿は、どことなく牛ガエルを連想させる。その牛ガエルに似た胴体に直接載っているのは、見事にアルコール焼けした赤く巨大なハゲ頭。そのハゲ頭と額の境目あたりに幾筋も古い刀傷がある。目、鼻、口、耳、顔の部品が暑苦しいほど、いちいちでかい。
 でかいといえば、左の腰にさげた青龍刀。男の見栄か、これも実戦で使うには無駄にでかい。あとは、右膝の貧乏ゆすり。このあたりがこの酔っ払いの特徴だ。
 男の名前をロウザイという。
 実は、うだつの上がらないこのハゲオヤジもいちおう王国の兵だ。それも数年前までは傭兵隊長を任じられていたのだから、傭兵あがりの移民としては最高級の出世といえる。だが、現在は一線を退いている。ロウザイは戦場で受けた右膝の古傷を言い訳にしていたが、それが真の理由でないことは本人が一番承知していた。
 だから……、昼間から飲まずにはいられないのだ。
 ロウザイの酒癖が悪い口は、あいかわらず兵士の長い列に向かってグチグチと皮肉を並べたてている。だが、赤くよどんだ目は、途中から別のものを凝視していた。
 ハゲオヤジという生き物が、知らず知らずのうちに目を留めてしまうものといえば決まっている。
 若い娘の大きな桃のようなまん丸い尻だ。
 小柄なその娘は、市民の後ろから懸命に背伸びをしながら、兵たちが出陣していく様を飽くことなく眺めていた。かれこれ小一時間、ずっと爪先立っているのだから大した脚力だ。
 年の頃は、十六、七。つぎはぎが目立つ長袖の上着と、男がはくような丈の長いズボンは、見るからに野暮ったい。飾り気のない弓と矢筒を肩にかけていて、手には大きな荷物を持っている。
 察するに、奉公に出てきたばかりの農夫か猟師の娘か。いずれにせよ、うまく言いくるめられて、その筋の店に売り飛ばされるのは時間の問題だろう。泊まりで六万ギル。それが世間、それが相場というものだ。
 ロウザイの目をひいたものが他にふたつ。
 ひとつは、大トカゲ【ルビ:イグアナ】の尻尾のように背中に垂れた娘の髪。白髪が混じっていた。それも半端な量ではない。三つ編にした髪の三本の束のうち一束すべてが白い。
 白髪で頭が二色に見える女を見るのは、初めてではなかった。まだら髪になる理由も、知りたいとは思わないがよく知っている。幼いときに親からひどい虐待を受けたか、年頃になってから野盗の集団にでも暴行されたか、さもなけりゃ、本物の魔物を見ちまったかだ。
 ただし、あんな妙な頭になったら、普通は染めて隠すもんだ。それを平気で人目にさらしている無神経さが気に入らない。
 そんな恥知らずな女は、ふたりしか見たことがない。ひとりは目の前の桃尻娘。もうひとりは、考えただけでハラワタが煮えたつ、この世で一番冷血なクソ尼【ルビ:あま】だ。
 気になったもののふたつ目は、娘の腰紐にぶら下げられていた。おそらく田舎の祭りかなにかに使われる木彫りの面だろう。魔よけのお守りかもしれないが……それにしても薄気味が悪い。
 広い額に刻まれた深い皺、ざんばらの長い髪から突きだしたとがった耳、唇は血をすすったように赤く、大きく開いた口の中には獣のような鋭い牙が並んでいる。とくに気味が悪いのは、丸く穿たれたふたつの目。まるでこっちの心の中を見透かしているようだ。
「あれじゃあ、まるで本物の魔物じゃねーか。けッ、縁起でもねえ……」
 ロウザイは、杯の底にわずかに残っていた焼酎をあおると、また毒づいた。
 だが、すぐあとに不気味な面からいかにも健康そうな尻に目を戻し、小声で付け足す。
「まッ、でも、やっぱ、いいもんだぜ。若い娘のまん丸な尻にまさる酒の肴なしだ」
 ロウザイがニンマリと目尻を下げた瞬間、突然その尻の持ち主が振り向いた。
 どんな顔だと見れば……、おや? なんとも複雑なつらがまえだ。
 太い眉と黒目がちな丸い目は素直そうだが、角張った頬と顎はかなり頑固そうだし、低い鼻は子供っぽい印象なのに、めくれ気味の厚い唇は一途で情の深い女特有のものだ。
 そういや、情が深すぎて男を刺して身投げした遊女の顔があんなだったな。ああいう顔も、都じゃ近ごろは、とんと見かけなくなったね……。
 ふ~~ん、まッ、悪くねえんじゃねーか。じゃあ、あの唇に一万上乗せして七万ギルだな。
 にしても、あの娘、なんでこっちをにらんでやがんだ?
 と考えている間に、娘がロウザイの前に肩を怒らせながらツカツカとやってくる。
「ねえ、オッサン!! 気色わるいんだよねえ。見世物じゃないんだから、じろじろ他人【ルビ:ひと】のお尻、見るんじゃないよ!! それじゃなくても、今日のあたしは虫の居所が悪いんだから!!」
 いきなり言い放った娘の声に、耳目がいっせいにふたりに集まる。ロウザイはあせった。だが、いくら思い出しても、この娘が振り向いたのは今が初めてのはずだ。ここはシラを切るに限る。
「さあね、なんのことだ? ガキの尻なんて頼まれたって見たくもないね」
「今『若い娘のまん丸な尻にまさる酒の肴なし』って、その酒くさい口でほざいてたでしょうが!! ばっくれてんじゃないよ、この変態ハゲオヤジ!!」
 ――言った。確かに言った。だけど、この歓声の中で聞こえるわけがない。どういうことだ?
 ロウザイは、さらにあせった。
 だが、待て。しょせんは田舎娘だ。ちょっと脅せば黙るだろう。いや、そこでたたみかければ、もうこっちのもの。酒の勢いも手伝って、ロウザイは泣きじゃくる娘をなだめすかしながら、連れこみ宿の暖簾【ルビ:のれん】をくぐる自分の姿までが頭に浮かぶ始末……。
「はてな? どうだっけな? じゃあ、仮に俺がおまえの立派な尻を盗み見てたとしたら、どうする? 番所につきだすか、それとも見物料でも取ろうって魂胆か!? あン!! どーすんだよ!!」
 そう怒鳴ったとき、娘の肩にかかっていた弓がクルリと前に回るのが見えた。そして、

「ぶっ殺す!!」

 娘が応えた瞬間には、弓につがえられた鋭い矢尻の先がロウザイの鼻先に突きつけられていた。
 騒ぎを聞きつけた野次馬がふたりを遠巻きに囲みはじめる。見る間に増えていくその数を横目で確かめながら、ロウザイはため息をついた。
 これじゃあ、宿に連れこむどころの話じゃないぞ。
 だが、こんな大勢が見ている前で弱みをさらせば、男の沽券【ルビ:こけん】にかかわる。といって小娘ひとりを相手に刀を抜くのも格好が悪い。
 なーに、もう一度凄めば必ず泣きが入るに決まってる。それが女だ。
「けッ、よせよ、姉ちゃん。危ねえじゃねえか。非力な女がそんな物騒なものを構えてよぉ、間違って指が弦から放れちまったら、あン!! どーーすんだよ!!」
「そういえば、そろそろ腕がしびれてきたよ。あと三つ数える間くらいしか、あたしの“非力な”指はもちそうにないねえ。信心してる精霊がいるなら、今のうちに呼んでおけば?」
 不敵な笑みを浮かべながら、若い娘はさらに弓の弦を引きしぼった。同時に何かがきしむようなキリキリという音が聞こえていた。その音の発生源が娘の弓なのか、自分の胃なのか、ロウザイにはもうわからない。
「お、お、おまえ、何をそんなにいらついてんだ? ああ、そうだ。おまえ、腹が減ってるだろ? 何か食えよ。もちろん俺のおごりだ。女のイライラなんぞ、口に焼き芋でも突っこめばたいていは収まるもんだ。それで足りなきゃ、下の口にも俺の芋を突っこん……」
「ひとーつ!!」
「じょ、じょ、冗談だよ。おまえは知らないだろうけど、この手の冗談が都じゃ挨拶がわりなんだな。ハハハ、わかったぜ、男に金を貸したらトンズラされたと、まあ、よくある話だ。そういうことなら手持ちが少々あるし、なんだったら知り合いの店に紹介してやってもいい。おまえなら、一晩で七万、いや八万ギルは稼げるぞ。おっと、その前に俺が優しく慰めてや……」
「ふたーつ!!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待った。話せばわかる。話せばわかるって。まずは、そうそう、おまえがいらついている理由を教えてくれ。だいたい、なんで自分が死んだのか、理由もわからないじゃ、あの世に行っても申し開きができねえってもんだ。なッ、後生だから。それくらいはいいだろ?」
 娘は、弓を構えたまま、しばらく考えていたが、ふてくされたように口を開く。
「王様が兵を募集してるって聞いたから、わざわざ出向いてやったのに、女だからってだけで門前払いを食わされて……、とりあえず、ゲスオヤジのハゲ頭に風穴のひとつも開けて、スカッとしたい気分なんだよ。納得した?」
「おいおいおい、そんな理由で俺は死ぬのかよ!? ああ、もう、くそったれ。どいつもこいつも。だから、女ってヤツはよぉ……」
「三つ!!」
 娘がそう告げたのと同時に、若い男の声が割って入った。ロウザイの元部下だったヤトマという男だ。ひょろりと背が高く、南海人の血が混じっているのか肌が黒い。店の屋号が入ったこげ茶色の半てんと相まって、なんとなく掘りだしたばかりのゴボウに見える。
 どうやらこのゴボウ男、娘とのやりとりをずっと見物していたようだ。ニヤニヤと白い歯を見せながら、小走りに近づいてくる。
「大将、捜しましたよ!! ところで……、何やってんスか?」
 ヤトマは、ロウザイにそう声をかけながらも、顔は愛想よく娘のほうに向けている。
「あぁ、それと、お嬢さん。射てもいいけど、矢がもったいないだけっスよ。なにせこの大将、いろんな意味で石頭だから」
 いつもそうだが、この男の物言いは育ての親に似たのか、どんな修羅場でも緊張感がない。だが、その軽さが今回だけはいいほうに作用したらしい。娘は弓を下ろし、呆けたような面持ちでヤトマの顔を見つめている。
 まさか一目惚れ……なわけはないか。
 ロウザイは、内心ホッとしながら素早く体裁をつくろう。
「なーに、大したことじゃねえんだよ。ちょっとした誤解ってヤツだ。それより、なんの用だ?」
「ああ、そうっス。エル隊長が折り入って大将に頼みたいことがあるとかで」
「けッ……、誰が、あんなクソ尼の頼みなんか」
 ロウザイの悪態に重なるように、娘が急にすっとんきょうな声をあげた。
 見れば、明かりが灯った提灯【ルビ:ちょうちん】のように頬が紅潮し、大きく開いた瞳は、今にも涙がこぼれそうなほどうるんでいる。
「ねえ、今、エルって……!! エル隊長って言った!?」
 娘は、ヤトマに向かって訊ねていた。だが、唐突に娘の口から出た“エル”の名前に、思わずロウザイが口をはさむ。
「あン? 言ったがどうしたよ? まさかおまえ、あの疫病神の知り合いか?」
「あたしの知ってるエル隊長だとしたら、子供のとき、助けてもらった!!」
 娘の返事に、今度はヤトマが「あああッ!! あんときの!!」と声をあげ、娘は娘で「“ス”の人!! “ス”の人!!」とピョンピョン跳ねまわる。
 自分だけが蚊帳【ルビ:かや】の外にいるようで、ロウザイはなんだか面白くない。
「なんだよ、おまえも知り合いか? で、このいかれた女は、いったい何者だ?」
 ヤトマに訊ねたつもりが、応えたのはいかれた女本人だ。

「あたし? あたしはビーナだよ!! エルに、エルに会いたい!!」


(明日は一章2[港の秘密基地])
http://www.alfasystem.net/a_m/archives/282.html

ご予約はこちらから http://p.tl/Urbv

「まおゆう魔王勇者」①ジャケット
桝田 省治

アップロードファイル 280-1.jpg

 誰が言いはじめたかは定かではないですが鬼才らしい桝田さんの総監修の戯曲小説「まおゆう魔王勇者」①(橙乃ままれ著)のジャケットが公開になりました。http://p.tl/B3WN
 ①というからには続きがあって全5巻、これに加えて同人誌やコスプレ支援用の設定資料集を1巻出す予定です。
 全5巻のジャケットは、実は横長の1枚のイラストで、横に並べるとつながる壮大な絵巻物のような構成になっています。
 書店の皆さま、ぜひ5巻並べて平積みをお願いいたします。
 発売は、今月の27か28か29くらい、えーーっと、とにかく末です。

 ちなみに「傷だらけのビーナ」の発売日は今月17日。こちらもよろしく。

傷だらけのビーナ 試し読み2
桝田 省治

アップロードファイル 279-1.jpgアップロードファイル 279-2.jpg

http://www.alfasystem.net/a_m/archives/278.html


[チグルの虐殺]


 ――火事だ!!
 再び村が視界に入ったとき、そう思った。
 あちこちの家から赤い炎があがり、黒い煙とともに悲鳴がうずまいている。昨夜の祭りのために広場に設えられた、花に包まれた大きな祭壇も炎に包まれ、今にも焼け落ちようとしていた。
 だけど、ただの火事ではない。松明【ルビ:たいまつ】を持ったたくさんの男たちが、家々に火をつけてまわっている。
 粗末な鎧を着たその男たち全員がブタそっくりの魔物の面をかぶっていた。
 ――なにあれ? 野盗!?
 そういえば、父と行商人がこんな話をしているのを耳にした覚えがある。
 大きな山を三つほど越えた東に、キルゴランという国がある。そこの王様が精霊を怒らせたせいで、ここ数年凶作が続いている。年貢が減った王様は、給金を払えなくなり、兵隊の数を半分に減らした。職にあぶれた兵たちが、食うに困って旅人や村々をおそっている……とかナントカ。
 その野盗たちが、山を越えてこっちのほうまで遠征してきたのかもしれない。
 こわい……。どうしていいかわからない。この場から逃げだしてしまいたい。
 あたしが親の言いつけを守らず山に入ったせいで、バチが当たったんだとしたら、どうしよう?
 そんな思いが頭に浮かぶと、急に目まいがして、ビーナは強烈な吐き気におそわれた。
 だが、次々に家から引きずり出され、広場に転がされる顔見知りの姿を目にしたとき、ビーナは我知らず背中の弓を肩から抜いていた。
 道に置かれた樽の後ろにそのまま駆けこみ、息をひそめてかがむ。
 急いで矢を弓につがえようとしたが、手がブルブル震えて、どうしても思うようにいかない。
 その間にも無数の絶叫が耳に刺さり、いろんな物がこげるイヤなニオイが鼻をつく。
 ビーナは顔を半分出して、広場の様子をうかがった。
 思わず小便がもれた。叫びたい。だが、自分の目が見ているものが信じられず、声が出ない。
 村の男たちの首がポンポン跳んでいた。鶏をさばくように無造作にはねられて、次々に血を噴きあげている。
 その血でドロドロになった地面の上に、衣服をむしりとられた女たちが這いつくばっていた。
 ぬかるみに落ちた虫のように手足がバタバタと動いている。その上にブタ男の巨体がのしかかり、獣のような声をあげて腰を激しく振っている。
 その様をのぞきみている他のブタたちの口が、顔全体がゆがむほど大きく動いている……ということは、あのブタ顔は、仮面ではなく本物だ!!
 あんなのも精霊なのだろうか?
 それともあいつらこそが魔物なのだろうか?
 ブタ男たちは、ムシャムシャ、バリバリと音をたてて肉や骨を噛みしだいていた。食っているのは、村の子供たちだ。
 子供たちは広場の真ん中に集められ、生きたまま手足をちぎられ次々に食われる友だちを、ブタ男たちの足もとでただ呆然と見上げている。
 その中に兄の姿を見つけたとき、ビーナの胸で何かが赤くはじけとんだ。
「ちきしょー!! 放せ!!」
 ビーナは、樽の陰から往来に飛びだすと、夢中で矢を放っていた。
 気がつくと、胸から矢がはえたブタ男がもんどりうって倒れるのが見えた。
 ビーナは、二の矢、三の矢と、どんどん放つ。ブタ男たちの背に、顔に、胸に次々に矢が刺さる。
 何が起きているのか、ブタ顔の兵士たちがやっと理解したのは、五匹目がブヒブヒと鼻を鳴らしながら地に伏したときだ。
 ビーナとブタ男たちの距離は、ほんの二十歩ばかり。三十ほどのブタ顔がいっせいに振り向き、ビーナの身体を舐めるように見つめている。巨体のわりに小さな目は、汚れた油のようにヌメヌメと黒光りし、笑っているのだろう、口元が醜くゆがんでいる。
 ビーナは、無意識に背中の矢筒に手を伸ばした。だが、もう空っぽだ。
 それに気づいたブタ男たちが、太刀を振りあげてこちらに向かって駆けだす。
 ビーナは逃げようと、あわてて身体を反転した。
 その瞬間、顎のあたりに鈍い衝撃が走り、視界が白くなって不意に消えた。
 ビーナは道に転がっていた。その喉元を大きな手でわしづかみにされ、ビーナの顔が強引に上向きにされる。
 男がビーナを見下ろしていた。
 男は人間だった。身につけた鎧装束もブタ男たちより立派だ。だが、その男は、ブタ男たちよりも異様な容姿だった。
 右目がつぶれてくぼんでいる。耳と鼻はなく、それがあるはずの位置には、直接頭に開いた穴と引きちぎられたような傷あとがあった。
 右手は肘から先がなく、手のかわりに鋭くとがった金属の太い棒がはえていた。
 おそらくさっき自分を殴ったのは、その金属の棒だろう。中ほどにわずかに血がついている。
 男は、喉をつかんだ左手一本で、ビーナの身体を軽々ともちあげ、宙吊りにした。
 足が地面から離れ、全体重が首にかかる。息ができない。しだいに気が遠くなる。
「へ~、こいつはスゲー大収穫だ!! おめえ、ずいぶんと精霊どもにモテモテじゃねえかよ。ずっと探してたんだ。地場の精霊への貢物は、おめえで決まりだな。おめでとォ!!」
 薄れゆく意識の中に男のかん高い声が響くと、再び地面に投げだされた。
 今度は足首をつかまれ、ビーナはズルズルとどこかに引きずられていった。

 どれくらい気を失っていたのだろう……。
 いつの間にか、雨が降っていた。ビーナはぬかるんだ地面に大の字に仰向けで寝ている。
 冷たい雨が全身を直接たたいていた。どうやら着物をはがされ、丸裸にされたようだ。
 身体を起こそうともがくが、頭と両手両脚を大勢のブタ男たちに押さえつけられていて、ぜんぜん動けない。
 ブタ男たちの体臭だろうか、それとも血と泥の混じったニオイかもしれない。激しい雨の中なのに、むせかえるほどの濃いニオイが周囲を包んでいる。
 突然、片目の男の顔が目の前に現れ、ビーナをのぞきこむ。
「これから、おめえの身体に精霊の名前をいっぱい書いていく。おめえ、知ってるか? あいつら、食い意地が張ってるんだ。名前をちゃんと書いておかねーと奪いあいになるんだよ。ケンカはよくねーよ。それに食事は礼儀が大切だ。そうとも、何ごとも礼儀は大切だ。わかるか?」
 男はそう言うや、ビーナの胴体をまたぎ、右腕にはえた金属の棒を静かに下ろした。途端に、焼けるような痛みが胸を裂いていく。ビーナは、たまらず悲鳴をあげた。
「声はいくら出してもいいけど、いい子だから動くなよ。せっかくの印が曲がると台無しだ。それに、まんいち手もとが狂って傷が深くなって、全部書き終える前におめえが死んだりしたら、俺の苦労が水の泡だろ? おめえは若いからいいけど、俺くらいの歳になると、やった分の苦労が報われなきゃ、けっこうヘコむんだよなあ。わかるか?」
 わけのわからないことをしゃべりながらも、男は手を止めなかった。
 ビーナの胸にとがった棒の先端を押しつけてガリガリと引っかくように傷をつけていく。
 胸の作業を片づけると腹に、腹を終えるとすぐに痛みが太ももに移った。そのあと、身体を裏返しにされて顔を横に向けられ、また押さえつけられた。
 どれくらい時間が経ったのか見当もつかない。
 背中……、腰……、尻……、両脚の裏側……、腕と続いた…。おそらく最後は顔だろう……。
 ビーナは、気を失わないように、ギリギリと歯を食いしばり目を見開いていた。
 ――この痛み、忘れるもんか!! 顔も覚えておくよ!! もしも生き残ったら、あんたら全員、ぶっ殺してやるんだ!! 片目のヤツは、八つ裂きにして肥だめにぶん投げてやる!! ぶっ殺す!!
 それだけをビーナがひたすら念じていたとき、片目の男が発したものだろう、「ちッ」と大きな舌打ちが聞こえた。それと同時に頭と手足にかかっていた重みが不意に消えた。ビーナを押さえつけていたブタ男たちがいっせいに手を放したのだ。
 ブヒブヒとやかましい悲鳴がそこらじゅうに響いていた。ビーナの顔に目を開けていられないほど激しく泥がかかる。
 横倒しになったブタ男たちが泥の中で必死にもがいていた。
 肉のかたまりのような大きな身体が、穴に落ちたように半ば地面に埋もれている。
 ――ざまあみろ!! あんたら、太りすぎなんだよ。
 一瞬だけそう思ったが、そんなわけはない。よく見れば、地面から何かがいっぱいはえていた。それらがブタ男たちをつかまえ、土の中に引きずりこもうとしているようだ。
 ――手!? 手だ。
 それは泥まみれの人間の手に見えた。無数の腕が地面から突きでている。
 ブタ男たちはその手を振りほどき逃げようとするが、あがけばあがくほど早く、巨体が地面に沈んでいく。
 見る間にブタ男たちの身体は、土に呑みこまれ、あとには荒れたぬかるみだけが残った。
 ――あの泥んこの腕も、精霊なの、 、だろうか?  でも、 、どうして?
 その答が、いつのまにか顔のかたわらにかがみこみ、ビーナを見ていた。
 目深にかぶった黒いフードが顔の上半分を隠していた。ぐっしょりとぬれた白と黒の二色の髪が、げっそりとこけた頬に張りついている。ボロ布のようなマントに身を包んだ、女だ。
 女はどこか具合が悪いようだ。顔が蒼白で、しきりに咳こむ口元が血で汚れている。死神に魅入られたような風貌だ。もしかしたらこの女こそ死神そのものかもしれない。そう思えた。
 だが、その口から出た声は、意外なほど生気に満ちている。
「おい!! この子はまだ息があるようだぞ。土の精霊【ルビ:ドーモン】まで召喚して、ランバにまた逃げられ、おまけにひとりも助けられなかったでは、あの方に給料泥棒と言われかねん。なんとかしろ!!」
 間をおくことなく、女の求めに応えたのは若い男の声だ。
「うわぁぁ……、こりゃ、ひでえ……。あの片目野郎、この子を魔物のエサにでもするつもりだったんスかね? それとも依代のセンかなんかっスかね?」
「御託はいい。結論を早く言え。助からんならこれ以上苦しめる必要はない」
「いや、いや、いや、死なせやしませんって。少しは部下を信用してくださいよ。……ったく、気が短いんだから。それよかエル隊長のほうは、大丈夫なんスか?」
「ふン、全治十日といったところだ」
「ああ!! じゃあ、こないだよりは、だいぶマシっスね!!」
 場にそぐわない妙に軽い男の物言いに、女が苦笑した気がした。
「よくがんばったな。必ず生き残れ。死ぬんじゃないわよ」
 女の指が、涙をぬぐうようにビーナの頬をなぞっていた。
 お礼が言いたかった。だが、ビーナには声を出す力も、まぶたを開けつづける力さえ残っていない。
 ――エル隊長?  エル、だね。 この人、 、エルって、 いうん、 、 だね。
 ブタ男をやっつけたのも、きっとこの女の人だ。
 女なのに凄いな。女だってできるんだ。
 ――エル。  エル。   この、 名前は、 、忘れ 、 、い。
   いつ 、 、エルみ 、 、に強く 、 、なっ、 、 、 、 ぶっ殺す!!
 意識が途切れる寸前、九歳のビーナはそう心に誓った。


(明日は、一章1[出陣式])
http://www.alfasystem.net/a_m/archives/281.html

ご予約はこちらから http://p.tl/Urbv