記事一覧

「ゲームデザイン脳」重版記念 試し読みその2
桝田 省治

アップロードファイル 218-1.jpg

 ということで、今回の試し読みは、既に読み終えた方の話題によく上っている節をピックアップしてみました。
 詳しい目次はこちら。http://gihyo.jp/book/2010/978-4-7741-4192-3

●テレビゲームとは何か? その二 それは偶然か?

 前節「テレビゲームとは何か? その一 初めてのテレビゲーム」で書いたことは、テレビゲームがもつ他のメディアにない面白さの概念的な話だ。本節では、僕が思う、テレビゲームに向いたネタやその条件を書くことで、その面白さをもう少し具体的にしていく。
 また、本節の内容は、企画のネタと実際のゲームデザインの橋渡しになるはずだ。
 結論から書く。僕が思う、テレビゲーム向きのネタとは、“趣の異なる前向きなジレンマが適度なストレスをともなって、適当な頻度で繰り返しプレイヤーに提示され、その意思決定の結果によって、状況が変わりえる構造を有する事象”だ。
 ……と言われてもよくわからないだろうから、さっそく例を挙げる。
 たとえば、回転寿司。
 目の前を流れていくコンベアに載った握り寿司を客が勝手にとって食べる、半世紀前の人が見たら仰天すること請け合いの大発明の業態だ。ちなみにウィキペディアによれば、回転寿司は僕とほぼ同じ頃に誕生したらしい。
 さて、この回転寿司のどのへんが“趣の異なる前向きなジレンマが適度なストレスをともなって、適当な頻度で繰り返しプレイヤーに提示され、その意思決定の結果によって、状況が変わりえる構造を有する事象”なのかを検証してみよう。
 まず、胃の容量も財布の中身も有限であることが前提だ。すなわちリーズナブルな値段で美味しいからといって無限に食えるわけではない。
 仮に十皿で満腹になり、予算は二千円以内、メニューは一皿あたり百円~四百円、デザートも合わせると五十種を超えるとしよう。この条件だけでも十皿の組み合わせは一兆を超える。さらに食べる順番まで考慮すればほとんど無限だ。もちろん誰でも好き嫌いはあるから、仮にメニューの半分が対象外だとしても百億やそこらの組み合わせがある。
 回転寿司に行った客は、この百億の組み合わせの中から、来店のたびに一通りの組み合わせを選択している。それも一皿あたりの意思決定は、寿司が目の前を通りすぎる数秒間の間にたいてい行われている。
 これだけでも驚くが、さらに驚くのは、無限とも思える組み合わせの中から選んだ一通りの組み合わせに、たいていの客はそこそこ満足していることだ。それが証拠に、繁盛している回転寿司の客は、ほとんどがリピーターだ。
 もちろん完璧な選択などありえない。たとえば、ハマチの皿に手を伸ばそうとした瞬間、視界の右端に今しもヘアピンカーブを回ってきた美味そうなホタテがチラリと見えたとしたら、どうだろう?
 そのままハマチを取るか、ホタテを待つか。だが、ホタテは自分の前に来るまでに誰かが取ってしまう可能性がある。そうなったときは、注文しようか。いや、でも待っている間にすっかりホタテへの情熱が薄らぐこともある。じゃあ、やっぱりここは無難にハマチか。だが、ハマチを食べている目の前を結局誰も取らなかったホタテが通り過ぎたら後悔しないだろうか。
 迷った挙句に、じゃあハマチの皿を取り、さらにはホタテに手を伸ばそうとした瞬間、今しもヘアピンカーブを回ってきた美味しそうなアナゴが目に飛びこんでくる。ハマチのあとは、ホタテと言うよりアナゴのほうが合うんじゃないか? いや、でもハマチで九皿目だし、締めの一皿でアナゴのタレの甘さが口に残って終りというのはいかがなもんだろう……。でも、美味そう。
 この感じこそがまさに“趣の異なる前向きなジレンマが適度なストレスをともなって、適当な頻度で繰り返しプレイヤーに提示され、その意思決定の結果によって、状況が変わりえる構造を有する事象”だ。……わかるかな?
 ハマチであろうとホタテであろうアナゴであろうと、腹が膨れるという最低限の目的は達せられる。それにどれを選ぼうが、今どきの回転寿司はそこそこ美味しい。だが、結局あきらめた皿がある限り、満足度が一〇〇%になることはない。結果、「次こそはホタテを食べるぞ」とか次回来店の動機づけになる。
 ところでだ。ハマチに手を伸ばそうとした瞬間、ホタテがチラリと見えたのは、もちろん偶然だろう。だが、「本当に偶然だろうか?」と読者に問うておく。

 次は、野球の話。野球のルールを知らない人は、置いてきぼりにして申し訳ない。適当に読みとばしてほしい。
 たとえば、立ちあがりの悪い能見投手(阪神)が一回に巨人から一点とられたものの、その後は立ち直り五回まで好投し追加点は入っていない。今日の能見投手の調子からこの後もそうそう点はとられないだろうと期待できる。だが、ゴンザレス投手(巨人)も調子がいい。四回まで被安打ゼロ。ところが五回裏、阪神の下位打線が爆発。ラッキーなヒットもあって二死ながら満塁。ここでバッター能見。打率は一割。
 はたして真弓監督(阪神)は、昇り調子の能見をあきらめて代打を送るか!?
 あるいは、三対二で巨人リード。九回裏阪神の攻撃も二アウト。だが、ランナー一、三塁。ここで迎えるバッターは金本(阪神)。ただし金本、ここ三試合ノーヒット。金本と勝負か、敬遠して新井と勝負か。原監督(巨人)の采配やいかに!?
 勝負事なので判断の結果は必ず出る。応援しているチームが勝つに越したことはない。だが、野球観戦の醍醐味は、まずはこういう息を呑む場面に立ち会い、選手なり監督なり他の客と一緒に緊張感を共有することだ。その意味でこういうどっちに転ぶかわからない状況が成立した時点で十分に面白い。たとえ贔屓チームが負けても「惜しかったなぁ。でも次こそ」と思える。
 これも“趣の異なる前向きなジレンマが適度なストレスをともなって、適当な頻度で繰り返しプレイヤーに提示され、その意思決定の結果によって、状況が変わりえる構造を有する事象”のひとつだ。
 もちろん、いつもいつもこんな面白い状況が起きるわけではない。今日そういう場面に立ち会えたのはただの偶然だろう。だが、「本当に偶然だろうか?」と読者にもう一度問う。
 ハマチに手を伸ばそうとした瞬間、ホタテがチラリと見えたのは偶然だし、野球観戦で手に汗握る場面に遭遇したのも偶然だ。
 ただし、そういうことがたびたび起きるのは偶然ではない。そういう楽しい迷いが適度に起きやすい仕組みやルールがあるから、必然的に起きたのだ。
 そういう仕掛けやルールを決めることをゲームデザインと言う。

http://bit.ly/gamedesignnou