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傷だらけのビーナ 試し読み10
桝田 省治

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[あとがき]


 その日思いついたアイデアをネット上の日記に、メモ代わりに書きとめています。以下は「女戦士の苦労話」と題された二〇〇九年一月十日の日記、本書の元になったメモです。
 ちなみに文中に出てくる「RPG」という単語は、プレイヤーが勇者や魔法使い等になって魔王を倒したり財宝を探したりすることを目的としたゲームの一ジャンルです。

『女戦士の苦労話』
 既存のRPGにおける戦闘に参加する女性キャラは、大別すると以下の二種類のどちらかだと思う。
1.女性だが、男性キャラとパラメータ的には何の遜色もない。ようするに容姿がかわいい、あるいはエロい女性というだけで、ユニットとしての性能には男女の差がない。あっても少しだけ。
2.魔法使い、僧侶など、主にサポート的な役割。
 でだ。今回提案したいのは、男女の体力的な差は歴然とある。とくに戦士と呼ばれる職種では、埋めがたい差がある。それでも、「戦士になりたい」あるいは「戦士にならざるを得ない」そんな事情がある、戦士志願の女性。
 そんな女性を主人公にすえたRPGは、どうだろう、という話だ。
 彼女の体力的、社会的、あるいは女性ならではの苦労、障害を、プレイヤーにリアルに体験させることが主眼だ。
 体力のなさを、ちょっとした魔法やアイテムでカバーしたり、ユニークな作戦を考えたり、あるいは彼女の生き方を理解する仲間に出会えたり……このあたりの戦術の組み立て方やイベントは今までのRPGとちがった味わいになると思う。
 もちろん恋愛要素もいるなあ。
 ま、システムは既存のもののバランスを見直して、ユニークなコマンドがふたつもあればなんとかなるだろう。
 あとはキャラクターだ。
 あきらめが悪い、腹が据わっている、立ち直りが早い、というあたり以外は、平凡な女性が合うように思う。
 問題は、なぜ彼女が、戦士になろうとしているか。その動機だ。
 これがバッチリ決まれば、いけるね。ある意味、鉄板だ。

 さて、日記に書いたこのアイデアのメモですが、いろいろと僕の思惑を裏切りました。
 まず、女性の苦労を仮想体験させることが狙いなのですから、当然、男性のプレイヤーがメインターゲット……のはずが意外にも女性のウケがよく、テレビゲームの企画として書いたつもりが、反応したのは、なぜか書籍の編集者。まッ、僕の場合よくあることですけど(笑)。
 さて、ここからが大変。なにしろ、本企画は、ゲームシステムやゲームバランスから発想したので、物語どころか、状況も主人公すらも具体的な設定がありませんでした。
 そこで、主人公を求めての迷走がスタートします。たとえば、「天上界を追われて翼をもがれ、地上で魔物と戦う女天使」とか「病気の弟のために人魚の血を探しに行く健気な姉」とか……。
 結局、「セクハラオヤジと組んで千人の敵を相手に篭城戦に挑む少女」という、日記に書いた原案のイメージに近い現在の主人公、ビーナを見つけるのに二ヶ月もかかりました。
 この時点で、コンセプトも「男性優位の職場で働いてる女性の皆さん、いろいろ大変でしょうけど、気晴らしにこれを読んでスカッとしてね!!」くらいの感じに決めました。
 三月の半ばから書きはじめて、この後書きを書いているのが八月一日。正直、長かった……。
 最初から読み直してみて思うのは、長かったけれど、当初のコンセプトは最後までゼンゼンぶれてないなという点。そこだけ自信があります。
 本書がひとりでも多くの頑張ってる女性たちを元気づけることを切に願っています。

 構想では、一冊目の本書がビーナ十七歳「新入社員は大変だ。右も左もわからないけど、とにかく頑張るしかないよ」編、二冊目が二十五歳「だんだん仕事を覚えてきたけど、やっぱり大変だ。結婚願望もないわけじゃないし」編、三冊目が三十三歳「管理職は大変だ。おまけに子育てはもっと大変だ。トホホ」編を予定しています。
 まッ、先述の通り、僕の思惑はたいてい外れるので、どうなるかわかりませんけど。あまり期待しないでお待ちください。

 最後になりましたが、四ヵ月半の執筆に付き合ってくれた顔も知らないネット上の友人たち、
大村梨紗さん、教育委員会さん、くろすけさん、七さん、貫田将文さん、まなせさん、まみさんに深く感謝。
 あと、僕にとって一番身近な働く女性であり、三人の子供の母でもある僕の妻にも、
「いつもありがとう」


 二〇〇九年 八月一日 桝田省治


(明日17日、発売です)
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傷だらけのビーナ 試し読み9
桝田 省治

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二章 旅路


[馬車の荷台]


 巨大な大陸の最南端に位置する、虎の牙のように曲がった小さな半島。その半島の中央をチグル山脈が、葉脈のように南北に分断している。
 ビーナの母国であるナンミア国は、チグル山脈の西側にある小国だ。
 ナンミアは“国”と呼ばれているものの、国の隅々までゆっくり歩いてもせいぜい一週間。大陸の東西にある二大国、チャナ国やラーブ国の“県”ひとつにも満たない広さだ。
 だが、その豊かさは大国に勝るとも劣らない。莫大な富を産みだす理由は、その立地にある。
 大陸の東と西、さらには南海に浮かぶあまたの島国、ナンミア国はちょうどその真ん中にあり、とりわけ半島の南にある王都マリーシャは、貿易の中継地点として理想的な位置にあった。
 この天禄【ルビ:てんろく】に加えて、歴代のナンミア国王は外交手腕と商才に長けていた。王たちは、絶妙な匙加減で周辺の諸国に利益を分配し、特定の国が強国になることを巧みに回避した。これにより力の均衡を保ち、大国同士を互いに牽制させることで小国の独立を維持してきたのだ。
 ナンミア国内部は、産業や気候から東部と西部、二種類の地域に大別される。
 内陸である東部地域には、オロロチ河流域を中心に多くの農村と山村が点在している。
 主要産業は、農業、林業、鉱業。ただし、年に米が三回収穫でき、一年中果物が実る恵まれすぎた気候が、かえって近代化を遅らせている。小規模な灌漑工事で田畑にできる土地ですら、まったく手つかずの有り様だ。
 また、チグル山脈の国境付近には、今も狩猟を生活の糧とする少数民族の村もある。ビーナが生まれたチグル村もそのひとつだった。
 西部地域は、海に面している。南には王都マリーシャ、北には国内随一の工業都市ミットナットがあり、この二大都市を結ぶ街道沿いに、港をもつ宿場町が発展している。こちらは、商業と工業、昔ながらの漁業も盛んだ。
 出稼ぎや行商など一時滞在者を含めれば、ナンミア国の人口の七割がこの西部地域に偏在し、そのうちの半分以上が王都マリーシャに集中している。

 訓練兵として仮採用された翌日の昼過ぎ、ビーナは、おんぼろ馬車の荷台で揺られていた。
 現在、王都マリーシャから工業都市ミットナットへ向かう海岸線沿いの街道を北上中だ。
 街道の左手には、どこまでも広がる青い海があった。目の前の浜では、裸の子供たちが銛で魚を突いている。沖合いには強い風が吹いているようだ。白い帆を張った大小の船と白い波頭がいくつも見える。
 あれがミットナットだろうか、湾をぐるりと回ったはるか彼方に、大きな建造物の影とそこから立ちのぼる灰色の煙が薄っすらとたなびいている。
 右手に目を移せば、すぐそこまで森が迫っていた。赤、黄、薄紫、色とりどりの果物がたわわに実っていて、その木々の間をたくさんの小鳥が休みなく舞っている。
 ビーナが海を見たのは、今日が生まれて初めてだった。本来ならもっと感激してもよさそうなものなのだが、ビーナにそんな元気はない。理由はいろいろとある。
 まず、馬車のひどい揺れ。
 この街道が国の主要幹線であった頃には、それなりに整備されていたのだろう。だが、造船や航海技術の発達にともない物流の主役が海路に移ってからは、最低限の補修しか行われていない。道は凸凹だらけ、腰のあたりまで伸びた雑草におおわれて道が途切れている箇所も多い。
 そんな悪路をおんぼろ馬車が無謀な速度でひた走っているのだから、首がどうにかなりそうなほど激しく揺れる。
 続いて、元気がない理由のふたつ目は、身体をあぶられているような強烈な直射日光。
 ビーナは、夜明けにマリーシャを出発してから、かれこれ半日近く炎天下にいる。馬車の狭苦しい荷台は、前半分には幌がかけられていたが、ビーナが座っているのは、幌がない荷台の一番後ろだ。
 喉がカラカラに乾き、もう唾も汗も出ない。頭が熱く目まいがしている。それなら、幌がある荷台の前方にさっさと移ればよさそうなものだが、それはもっと気が重い。
 なぜなら、荷台の前方に、ビーナの気分がすぐれない最大の元凶があったからだ。
 ビーナは、心の中で毒づく。
 ――は~あ、なんで!? なんでよりによって、飲んだくれの変態ハゲオヤジなのよぉ?
 ロウザイは、幌がつくる涼しい日陰を独り占めして座りこみ、瓶に入った水をガブガブ飲んでいた。それでも何が気に入らないのか、こちらを不愉快そうににらみつけて舌打ちを繰りかえしている。
 悪夢のような光景。だが、これが現実だ。
 このハゲオヤジこそが、エルが推薦した“指導は厳しいが女性には優しい先生”であり、今回の任務中は、ビーナの教官であり上官。つまりエルが言った実地訓練とは、エルがロウザイに依頼した仕事の手伝いだった。
 仕事の内容は、あわただしく出陣の準備をするエルから聞けた範囲ではこういうことだ。
 国の最北にあるデボラッチ城という古い城砦に行き、三ヶ月前から調子が悪い“爆血”を新しい物と交換したのち、装置が正しく作動しているかどうかを確認。それで終わり。
 ちなみに、爆血というのは、昨日エルがロウザイに預けた、濃い紅色の液体が入ったガラスの小瓶のこと。説明されてもビーナに原理など理解できるわけもないが、小指の先ほどの瓶の中に精霊をひきつけるエサが濃縮されて入っていて、ようするに物凄い魔力を生みだすそうだ。これを仮に爆破に使えば、百目燈台【ルビ:ひゃくめとうだい】(王都マリーシャで最も高く頑丈といわれている建物)くらいは跡形もなく吹きとばすことができる……と注意を受けたからには、かなり危険な物なのだろう。
 とはいえ、装置のありかさえ知っていれば、交換作業自体は、古い爆血を取りだした穴に新しい瓶をはめこむだけ。“重要な任務”ではあっても、しごく簡単なものらしい。
 ただし、エルは重要な任務と強調していたが、本当に重要なのか、これも今思えばかなり疑わしい……。だいたい、調子が悪くなってから三ヶ月もほったらかされていたのだから、火急の案件であるはずがない。
 ――エルは、いったい何を考えてるんだろ? あ~ぁ、それにしても暑い!! 死ぬう!!
 見れば、ハゲオヤジは、また新しい瓶の栓を抜いて水を飲んでいる。
「プハ~!! 生きかえるねえ。そういやあ、おまえ、暑くねえの? 上くらい脱げばいいのに。遠慮はいらないぜ。なんだったら俺が脱がしてやろうか? それとも脱がしっこするか?」
 そう言うとロウザイは、両手でつかんだ襟元をパタパタと扇いで胸元に風を入れた。途端にむせかえりそうな酸っぱい体臭が荷台の後方に流れてくる。ビーナはそれでなくても息が苦しいのに、必死で息を止める。
「おかまいなく。ゼンゼン暑くないから」
「あ、そ。ふーん」
 ロウザイは、今度はビーナに聞こえるようにわざとゴクゴク喉を鳴らして水を飲む。
「プハ~!! ああ、うめえ。おまえも飲むか?」
 ロウザイが飲みかけの瓶をこれみよがしに振ると、半分ほど残った水がチャポチャポと澄んだ音をたてた。ビーナはその音につられて思わず手を伸ばした。だが、
「これで、おまえとは間接キスだな。たっぷりと俺の唾を入れといてやったぜ。ゲヘヘヘ」
 ロウザイの下品な笑い声に、ビーナは我にかえり、あわてて手を引っこめた。
「なんだよ、失礼な。“隊長”がせっかく“部下”に気ィ遣ってやってんのに、細かいことばかり気にしやがってよぉ。けッ、だから女ってのは面倒くせえってーの」
 ロウザイはそう吐き捨てると、頭の上で瓶を逆さに向け、残った水を気前よくハゲ頭にかける。
「水が欲しくなったらいつでも言えよ、『隊長殿、お願いします』ってな。そうすりゃ、おまえの顔でも胸でも、好きなところにたっぷりぶっかけてやるからよ。ダハハハ」
 ――いつかぶっ殺してやる!!
「ところで、おまえ……、なんでエルのヤツが、キルゴランと戦争が始まろうって、この大変なときに、つまらねえ用事をわざわざ俺に頼んだか、わかるか? おまけに足手まといの訓練兵まで押しつけてよ。あン?」
 ロウザイの物言いには、まったくもって腹が立つ。だが、このハゲオヤジ、見識だけは確かだ。それに今回の任務の奇妙さは、ビーナも気になっていた。だから、悔しいけど……、
「そんなのわかるわけ……わかりませんでごぜーます。隊長殿、お願いします。教えてください…………とっとと」
 ビーナの付け焼刃の敬語にニヤリとゆがんだロウザイの口が動きだす。このハゲオヤジ、ぶすっとしているようで本来はおしゃべりのようだ。
「目的地のデボラッチ城は、国の最北。地図を見りゃあ、北に接するヨサフネ国との国境を守る城砦として造られたことは一目瞭然だ。ただしだ、有体に言って、今のデボラッチ城は、時代の遺物。軍事的には無用の長物だ」
「というのもだな。ナンミアとヨサフネとは半世紀あまり前から、磐石な同盟関係にあるんだ。たとえば、王家同士の婚姻関係は、ほつれにほつれた糸のごとく複雑怪奇。チャンタ王子の母君、現国王のお妃は、前ヨサフネ国王の末娘だし、ヨサフネ国の次期国王の正室と側室は、チャンタ王子の腹違いの妹と従姉で……、これがふたりとも白ムチのいい女でよォ。ま、それはどうでもいいけど。とにかく、そんな調子で切っても切れねえ仲なのさ」
「深ーい関係は、外交の慣習を見てもよーくわかるぜ。ナンミアが諸外国と条約を締結するときは、ヨサフネ国王を立会人として招く。でな、連名でサインをするわけだ。逆の場合ももちろん同じだ。これは『隠しごとが一切ないほど両国の団結は強い。条約を反故にすれば、ふたつの国を同時に敵に回す』と相手に印象づける示威行為、ようは脅し以外のなんでもねえ」
「それに下々の交流も盛んだね。『ヨサ女にゃ、ナンミ男♪ そ~れそれそれ、ギッタンバッコン♪』って歌われるくらい、下と下の交流もお盛んだ。まッ、それはともかく……ミットナットの労働者の四人にひとりは、ヨサフネからの出稼ぎだし、今回のキルゴランとの戦のために臨時で雇われた兵のうち少なくとも二千人はヨサフネ出身だ。もっと近いところじゃ、何を隠そう、俺もエルもヨサフネからの移民だ。ま、こっちは大昔の話だけどな」
 地理と歴史から始まったロウザイの話は、終始、脱線気味で要領をえなかったものの、ビーナが知らないことばかりだったから、さほど退屈ではなかった。だが、この話と今回の任務がどう関係があるのか、肝心のことがさっぱりわからない。気が短いビーナは、だんだん焦れてくる。
「隊長殿……話が見えないんだけど、ようするに?」
「ようするに、ヨサフネから攻められることは万にひとつもない。国の東でキルゴランとの戦争が始まったら、戦場から遠いデボラッチ城は、国中で一番安全な場所ですらあるわけだ」
「……だから?」
「わかんねえか? おまえ、察しが悪いな。バカじゃねえの……。だからよ、今デボラッチ城にわざわざ行く意味なんて、これっぽっちもないってことよ」
「じゃあ、なんでエルは?」
「さてお立会い。ここからが本題だぜ!! いいか、耳の穴かっぽじってよーく聞け!!」
 また長話を始めそうなロウザイの勢いに、ビーナはうんざりした。それじゃなくても暑苦しいのに、このまま聞いていたら耳の穴をかっぽじる前に脳みそが融けて耳から出てきそうだ……。
「賢明なる隊長殿、提案がごぜーます。察しが悪いバカな部下のために、最初に結論をお願いします」
「えッ? あ、ああ。結論から先に言うとだな、えーっと……」
 そこで、ロウザイは話を切り、なぜか水の入った瓶をビーナの足元に転がして寄こした。自分も新しい瓶の栓を抜き、喉をうるおしている。
 どうやらまだ長話をするつもりらしい……。そう覚悟して、ビーナも水を飲み一息つきながら、ロウザイが話の続きをはじめるのを待った。
「結論から言うとだ。とどのつまり、早い話が、厄介払いだ」
「厄介払いって何? じゃなくて、隊長殿、厄介払いってどういう意味でごぜーますか? 察しが悪いバカな部下のために、わかりやすく……、できれば手短に」
「あいつはこれから戦争で忙しくなる。そんなときに、あれこれ意見するヤツが近くにいると……」
「ああ!! 邪魔だ!! 目障りなんだ!! ウダウダ文句ばっか垂れて、そのくせゼンゼン働かなくて、すごーくうっとうしいもんね。それで、戦場から一番遠い場所にね。ああ、なるほどね、納得」
 しきりにひとりでうなずきゲラゲラ笑うビーナに、ロウザイが舌打ちで返す。
「けッ、のん気なもんだぜ。厄介払いされたのが俺だけだと思ってるのか? やる気だけが空回りしてる半人前のヤツに目の前をウロチョロされるのも目障りだろうがよ!!」
「ウソ!? それって、あたしのこと?」
「けッ、他に誰がいるんだよ? あン?」
「あぁ、そっか……。それで、ふたりまとめて厄介払いね……」
「ま、そういうこった」
 言われてみれば、そのとおりだとビーナは思った。口ばかりのハゲオヤジと一緒にされたのは、不本意だ。だけど、今の自分が戦場に出ても、あたふたするだけで足手まといになるのは目に見えている。それこそ、エルが言ったとおり、味方の部隊まで窮地に落としかねない。
 だったら……、
 ――一日でも早く、エルが認めてくれる一人前の戦士になるしかない!!
 とはいっても、今のあたしに何ができるだろう? エルを喜ばせるためには何をすればいいんだろう? 今できること……。
 ビーナは、そこまで考えて決心した。ロウザイの顔色をうかがいながら、おそるおそる口を開く。
「ねえ、隊長殿……、あたしに兵士の心得とかそういうこと教えてよ」
「はあああ!? おまえ、俺の話、聞いてなかったのか? けッ、実地訓練の話なんて、厄介払いの方便に決まってるだろうがよ」
「そうかなあ? エルは、ああ見えて隊長殿に一目置いてるよ。だから、あたしの先生を頼んだんだと思うけど?」
「俺に? あの女が? 一目置いてるってか? いや、まあ……そうか。そうだな。おう、そりゃあそうだろうとも!! けどよ……、おめえ、本気なのか?」
「うん!!」
 身を乗りだしたビーナの全身を、ロウザイが値踏みするようにまんじりと見つめた。そしてペロリと上唇を舐める。
「いいだろう。ただし、条件がある。はっきり言って、女の兵士なんて俺は虫唾が走る。だから、今後はおまえを女として扱わない。それでかまわないなら引き受けてやってもいい」
「望むところだよ」
「そうか。じゃあ、まず兵士の心得その一『上官の命令は絶対』。どんな理不尽な命令でも口答えは一切なしだ。俺がカラスは白だと言えば、白だ。いいな?」
「なによ、それ? カラスは黒に決まって……」
 ビーナの言葉がそこで唐突に途切れた。急に目の前が真っ白になったからだ。頬が焼けるように熱い。鼻からはダラダラと血が流れだしている。
 ロウザイが拳を握って目の前に立っていた。思いきり殴られた……らしい。
「口答えは一切なしだと言ったよなあ? それに女として扱わないとも俺は言った」
「ひどい!! だからっていきなり殴るなんて……」
 また言葉が途切れた。今度は、腹を蹴られてさっき飲んだ水が口からあふれでていた。お腹を抱えて荷台の床にうずくまったビーナを、ニヤニヤ笑いながらロウザイが見下ろしている。
「おいおい、『上官には敬語を使え』って、今言っただろ?」
「そんなこと、聞いてない……」
「もう一度だけ言うぞ。上官の命令は絶対だ。兵士なら口答えするな。戦場じゃ、命令の実行が一瞬遅れただけで死ぬ、おまえも仲間もだ。これは理屈じゃねえんだ、身体で覚えやがれ!!」
 そう言うと、ロウザイは横たわったビーナの頭に足を乗せてグイグイ踏みつける。
「わかったら返事をしろ!! 『了解です、隊長殿』だ」
「了解です……!! 隊長殿……!!」
 ビーナは、涙と鼻血で顔をグシャグシャにしながらそう叫んだ。

(明日は[後書き]を掲載します)
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傷だらけのビーナ 試し読み8
桝田 省治

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[エルの決断]


「しまっ……」
 半ば口から出かけた「しまった」の“た”を、エルは、かろうじて呑みこんだ。
 布陣を見られた可能性がある。いつもなら、作戦会議が終わると即座に地図を窓辺ではたいてコマに使った残飯をオロロチ河に捨てる。記録は一切残さない。だいたい作戦会議でもなければ、窓などめったに開けやしないのだ。
 ところが今日に限って、残飯を捨てるのを忘れ、地図の上に置いたままにしていた。私としたことが、おそらくビーナとの再会に浮かれていたのだろう。
 そこに敵の密偵を連れてきて、わざわざこちらの手の内を見せてやったのも、この私だ。
 ――くそッ、なんという失態!!
 窓の外には、コウモリの翼を生やした人間の生首がオロロチ河の上を悠々と飛んでいる。その奇怪な姿がどんどん遠ざかっていく。
 さらに、開戦に巻きこまれるのを恐れた外国船が出港準備を急いでいるのだろう、風をはらんだ大きな帆が次々に揚がっていく。あの帆の裏に回りこまれたら見失う。追跡はもう不可能だ。
「しまっ……始末しろ、ヤトマ!! 逃がすな!! アレを落とせ!!」
「そうしたいのは山々なんスけど……、すみません。抜けないんスよ」
 見れば、ヤトマはしゃがみこみ、床に刺さったブーメランを懸命に抜こうとしていた。だが、よほど深く刺さっているのか、三日月形の刃が抜けないようだ。
 ――くそッ、せめて四人の班長がひとりでも残っていれば、なんとかなったものを。
 いや、ロウザイ殿は、あの四人が出ていくのを待ってから警告したにちがいない。あの人は、私にしくじらせたいのだ。なにしろ、男の仕事場たる戦場に女がいるのがお気に召さないらしいから。とうぜん手助けしてくれる気などハナからないだろう。にやつきながら傍観しているだけだ。
 だが、布陣の情報もれの件は、確かに痛手だが、実際にはさしたる問題ではない。
 時間はまだある、白紙に戻せばいい。減俸処分を覚悟し、チャンタ王子に掛けあえば、今なら本隊自身の陣取りを変えることだってできる。あまり趣味ではないし戦線の維持費がかさむが、王子の元もとの作戦どおり、にらみ合いの持久戦という選択肢だってないではない……。
 ――問題は、ビーナだ。
 あの傷あとを見せられたとき、ヤトマの真意に気づいた。今のビーナは、極めて危険だ。ヤトマもそれを承知で、ビーナをここに連れてきたにちがいない。
 なにが「懐かしい客」だ……。ようするにヤトマのヤツは、私がどう腹をくくるかを試したのだ。上官の器を量るとは、まったくもって食えない男だ。
 いずれにせよ、ビーナが生きていることをランバに知られるのは、まずい……。
 今のビーナでは仇を討つどころか、自分の身すら守れない。魔物を召喚する媒介にでも使われたらとんでもないことになる。“爆血”どころの騒ぎではない。
 ――くそッ、くそッ、くそッ、何か手はないのか!?
 唇を噛んだエルの耳にキリキリという音が聞こえた。振り向けば、ビーナが弓に矢をつがえ、弦を引きしぼっていた。
 ビーナの弓は、携帯に向く狩猟用の小ぶりの弓だ。弓兵が用いる大弓より射程が短い。飛ばすだけなら三十尋【ルビ:ひろ】(約四十五メートル)は届くだろうが、的を狙うとなればせいぜい二十尋(約三十メートル)が限界だろう。
 だが、逃走中の“コウモリ首”との距離は、すでに三十尋を超えている。おまけに船の帆が丸くふくらむほどの強い横風が吹いている。
 それでもビーナはあきらめていない。普通は顎のあたりまでしか引けないはずの弦を、耳の近くまで引いている。その心意気は買うがムチャクチャだ……。
「ムダだ。当たるわけが――」
「兄ちゃんの仇を討つ。ぶっ殺す!!」
 言うが早いか、ビーナはエルの制止を聞かずに矢を放った。
 命中するどころか届くはずがない。そう思いながら、矢の行方をボンヤリと追っていたエルの目が次の瞬間、カッと見開き、その口は思わず「惜しい!!」と叫んでいた。
 ビーナの矢は、当たらなかったもののコウモリ首の翼をかすめた。そればかりか、その後方をゆく船の厚い帆を貫き、穴を開けたのだ。
「ビーナ、集中しろ、風を読め!! どんどん射て!! 必ず落とせ!!」
「うるさい!! 黙ってて!!」
 ――なんと? ひとまわりも若い娘に怒鳴られちゃったよ。
 エルは、丸くした目を細めながら、噴きだしそうになるのをじっとこらえた。
 ビーナは、次々に矢を放った。弓が小さいせいもあるが、矢をつがえる動作が驚くほど速い。さらによく見れば、二本の矢を同時に射たり、手前の船の帆柱をさけて曲軌道【ルビ:きょくきどう】で射つ芸当まで、同じ動きで難なくやっている。狙いも非常に正確だ。
 だが、当たらなかった……。
 コウモリ首は、予想しなかった一発目の矢には反応できなかったものの、それ以降の矢は、四本の黄色い触手を振りまわすように操り、次々にはたき落としている。
 それでも、ビーナはあきらめずに射ちつづけていた。だが、そろそろ矢が尽きるはず。
 ――さて、どうする、ビーナ?
 コウモリ首から目を移すと、ビーナはいつの間にか奇怪な精霊の面を顔につけていた。
「おまえ、何をやってるの!?」
 と問うも当然のごとく返事はなかった。ビーナの耳には、エルの声は聞こえていない様子だ。いや、人の言葉などもはや通じないかもしれない。今、目の前にいるのは、人間ではなくまさしく一匹の精霊だった。
 ――まッ、好きにすればいい。しかし、おまえ、本当に面白いヤツだね。
 矢筒はもう空っぽ。残すは、すでに弓につがえている一本のみ。ビーナもそれが最後だとわかっているのだろう、なかなか射とうとしない。息をつめ、彼方に浮かぶ一点に意識を集中している。
 張りつめた肩や腕の筋肉から、熱い闘気がユラユラと立ちのぼるのが見えるかのようだ。
 当たってほしいな。
 エルは心の底からそう願った。
 同時に、おそらく最後の矢も当たらないだろうとも思った。それでもかまわない。
 ――ビーナは、戦える。
 技術はまだまだ荒削りだし、血の気の多さもどうにかしないと使い物にならない。
 それでも、ビーナはいずれ戦士に成長する。それも優秀な戦士にだ。
 それが確信できただけで、今日のところは十分だ。
 ――いいだろう。こうなったら私もおまえに付き合ってやるわよ。
 あぁ、でも……、外国船を沈めた場合、どれくらい始末書を書かなきゃならないんだろ……。
 エルは、脳裏に浮かんだ書類の束にげんなりしながら、床に転がっていた血まみれのナイフを拾いあげた。窓際に立つと、オロロチ河の上に両の腕を真っすぐに突きだす。
 ――水の精霊【ルビ:セーマン】と河の精霊【ルビ:カラッパ】、どちらを召喚しようか。いっそ景気よく二体とも呼んで、ビーナを驚かせてやるのも一興かな。
 ……くだらない。私はいったい何を考えているのだ。
 エルは、緩んだ口元を引きしめると、右手に持ったナイフの刃先を左手の手首に当てた。
 顔を上げると、矢の雨がやんだ隙にコウモリ首が帆の裏にまわりこもうとしている。
「ビーナ、迷うな!! 射てッ!!」
 結果を恐れる必要はない。部下の尻ぬぐいをするのが上官の務めというものだ。
 再び、エルの口元がかすかに緩んだとき、ビーナの弓から最後の矢が放たれた。
「ほぉ」
 エルの口から、思わず感嘆の息がもれていた。
 今までで一番力強い。風を切りさいて一直線に飛んでゆく。
 だが、エルを驚かせたのは、矢自体ではなかった。矢の周囲の空気が陽炎のように揺れている。
 エル以外の誰にも見えないだろう、案外ビーナ本人にも見えていないのかもしれない。
 ――あれは精霊だ。
 まるでウサギを追う猟犬のように、無数の精霊がビーナが放った矢を我先に追っていた。
 はたしてあの精霊たちは、敵なのか味方なのか?
 矢が外れれば敵、コウモリ首に命中したなら味方……ということだろう。
 エルは、手首にナイフの刃を当てたまま、その答が出る瞬間を見逃すまいと中空を凝視した。
 だが、結局、答は出なかった。
 ビーナの矢が達する一瞬前に、コウモリの翼がついた頭が木っ端微塵に四散したからだ。
 それをやってのけたのは、黒々とした鉄の矢、二本。
 そう気づいたとき、下から大騒ぎする声が聞こえた。声は二種類だ。
 ひとつは、得体の知れない肉片がいきなり頭上から降ってきた外国船の乗員たちの悲鳴。
 そしてもうひとつは、岸壁に立つ大男四人があげる野太い歓声だ。
 おそらくすぐに騒ぎに気づき、武器庫から運んだのだろう、巨大な鉄の弩【ルビ:いしゆみ】がふたつ並んでいる。凄まじい威力だが、矢を一本つがえるのにさえ苦労する扱いが難しい武器だ。それをふたり一組で支えたまま、こちらを見上げて全員が無邪気に手を振っている。
「エル隊長ぉ!! 給料の査定、よろしくお願いしますよ!!」
「ああ!! おまえたちのさっきの無様な負けは帳消しにしてやる!! それと……、よくやった!!」
 エルは、ナイフを持った右手を引っこめ、左手で眼下に向かって手を振りかえした。

 どうにか床に刺さっていた鎌を回収できたようだ。ヤトマがやって来て、なにげなく隣に立った。エルと一緒に窓の下をのぞきこみ、手際よく解体される弩を眺めながら声をひそめる。
「どうにか大事にならずにすみましたね。ところで、もうひとつの厄介事の件なんスけどね」
「皆まで言うな。わかっている。あぁ、それと、先に言っておくけど、おまえ、今回は留守番だよ」
「え~ッ? なんでっスか?」
「掃除がまだすんでいない」
「いや、でも……」
「冗談だ。確たる根拠はないが、こたびの戦、何かにおう。キルゴランが大軍を繰りだした意味が読めん。だから、不測の事態が起きたときの用心に、自分の判断で動ける者を残しておきたい」
「なるほど。了解っス。ほんじゃ、張りきって床もピカピカに磨いておきますよ」
「万事任せる」
 エルはそう応えて、ビーナを振り向いた。
 自分で取ったのか自然に外れたのか、精霊の面が床に転がっていた。ビーナは、愛嬌のある素顔に戻っていた。先ほどまでの勢いはどこへやら、粗相【ルビ:そそう】を見とがめられた子犬のようにうつむいたまま、上目づかいでこちらの様子をうかがっている。
「首も落とせなかったし、あたしの矢、一本も当たらなかったし……。なんの役にも立てなくて、足を引っぱってばかりで……ごめんなさい」
「ああ、まったくだ。ひどいもんだよ。もしもここが戦場なら、おまえのせいで私の部隊は全滅していたろうね」
 エルは、わざと素っ気なく告げた。ビーナを少々からかってやろうと思ったからだ。だが、ビーナの表情は、なぜかさっきよりも明るい。その視線の先を見れば、ヤトマがあらぬ方向に顔を向けながら頭をかいていた。いかにもわざとらしいその仕草が気にはなったが、エルは先を続ける。
「まあ、気にするな。最初は誰でもあんなもんだよ。それに、おまえが矢を射つづけて魔物を足止めしたおかげで、弩が間に合った。それは事実だしね」
「じゃあ、あたしをここに置いてもらえるの?」
「ああ」
 エルは、ビーナに歩み寄りながら、床に転がっていた魔物の面を拾いあげて一瞥する。
「ただし、当分は訓練兵だ。それでいいな?」
「うん!! 雇ってもらえるならなんだっていい。でも、訓練兵って何をすればいいの?」
 不安げに訊ねたビーナに、エルは面を渡す。
「おまえはまだ半人前だ。これからたくさんのことを学ばねばならない。だが、案ずるな。幸い、私はいい先生を知っている。その先生におまえの実地訓練をお願いしてやろう」
「先生? ヤトマのこと?」
「いや、もっと経験豊富だ。指導は厳しいがそのほうが身につくのも早い。実は、私もその先生から、ついさっき手厳しい助言をたまわったばかりだ。ま、そう心配はいらん。なにしろ女性には、ことのほか優しい方だからね」
 エルはニッコリと笑うと、壁際の長椅子に目を向ける。ロウザイは、落ち着きなく貧乏揺すりを続けながら、苦虫を噛みつぶしたような面持ちでこちらをにらんだ。
「さて、ロウザイ殿。折り入ってふたつほど頼みごとがあるのですがね」
「けッ、おまえの頼みなんぞ、聞く耳もたねえよ」
「では、その頼みごとが割のいい儲け話だとしたら、どうでしょう?」
「けッ、はした金で買収か。俺も安く見られたもんだ。誰がそんな手に乗るかよ」
 エルは、ロウザイの悪態を聞き流すと、壁際に並んだ黒い祭壇のひとつの前に立った。両開きの大きな扉を開けて、中から二本の小瓶を取りだした。濃い紅色の液体が入った小指ほどの大きさのガラスの瓶だ。
「これが何かはご存知ですよね?」
「おい……、それ、まさか“爆血”か!? ず、ずいぶん量が多いな……」
「エル特製の“百爆血【ルビ:ヒャクバッケツ】”とでも呼んでください。念のため二本用意しましたが、一本は予備です。一本で足りた場合、たいへん物騒な代物ですから、処分はロウザイ殿にお任せしようと思います。あぁ、そうそう……、言い忘れてました。これ一本がユバルの死神横丁じゃ、五千万ギルの値がつくとか」
「ご、ご、五千万ギルだとお!?」
「傭兵の小隊なら、半年分の給料になりますかね」
 ロウザイは新しいタバコを口にくわえたものの、なかなか火がつかないようだ。見れば、貧乏揺すりのほうはいつの間にかピタリと止まっていたが、今度は指先が震えている。
「そういうことか……、ま、そういうことなら、今回だけは特別におまえの顔を立てて引き受けてやるかな。それで、頼みごとってなんだ?」

(明日は二章旅路1[馬車の荷台])
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傷だらけのビーナ 試し読み7
桝田 省治

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[魔物]


「兄ちゃん……」
 死んだんじゃなかったの!? なんで兄ちゃん、ここにいるのよ!?
 八年前より身体は大きくなっていた。だが、顔はあまり変わっていない。殴られて腫れあがってはいるが、床に仰向けに転がっている男は、間違いなく兄だ。
 ビーナは、混乱していた。何がどうなっているのか、どうすればいいのかわからない。ビーナは、助けを乞うようにエルを振りかえった。
「おまえの兄はとうの昔に死んでいる。見た目にだまされるな、あいつは兄じゃない。おまえの兄を食った魔物……。我々の敵だ!!」
 エルはそう言い放つと、床に転がった男を憎々しげににらみつけた。その視線を追って、ビーナも兄そっくりの男にもう一度目をやる。
 エルの言うとおりなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。兄が生きているはずはない。だけど、殺されたところを見たわけじゃない。もしかしたら……、
「本当に魔物なの?」
「確かだ。何人も同じようなヤツを見てきた」
「でも……」
「この貧弱な小男が完全武装の兵を五人、素手で殴り殺した。そう言えば信じるか?」
「元には……」
「戻らない。死んだ者は二度と生きかえらない。おまえにできるのは、兄の身体を奪った魔物を殺すこと……、それだけだ」
 そう静かに告げたあとで、エルはビーナの顔をまじまじと見つめた。そして、訊ねた。内容はさっきとまったく同じだ。
「おまえにやれるか? こいつの首を落とせるか?」
 そう問われて、ビーナは思わず顔をそむけた。そのとき、ビーナの脳裏には兄の思い出が次々によみがえり、涙があふれそうになっていた。
 ひとつ違いの兄だった。村には十人ほどの子供がいて、兄はそのガキ大将だった。幼い頃はいつも兄についてまわったものだ。口よりも手が早く、しょっちゅうぶたれて泣かされた。食べものの好みが似ていて、おかずもよく盗られた。だけど、優しいところもいっぱいあった。山犬の群れに追いかけられたときも川で溺れそうになったときも助けてくれたのは兄。弓を教えてくれたのも兄だ……。
 その兄をあたしはこの手で殺せるのか?
「ごめん……。ムリ……」
 ビーナは顔をそむけたまま、消え入りそうな声で我知らず応えていた。
「そうか……。そうだろうな。それが普通だ。気にすることはないよ。さ、ナイフを寄こせ。私がおまえの兄の仇を討ってやる。いいと言うまで目を閉じ…………おい、ビーナ? 大丈夫か?」
 エルがしゃべっている途中で、その声が遠ざかり、いつの間にか何も聞こえなくなっていた。
 ビーナは、エルにナイフを返さなかったし、目も大きく見開いたままだ。
 エルの発した一言だけが頭の中にポツンとあった。その言葉が何度も繰りかえされている。

 ――兄の仇を討ってやる。
    兄の仇を討ってやる。
     兄の仇を討ってやる。
             エルが兄の仇を討つ……?
                        ちがう。
                        エルじゃない――あたしだ。
              兄ちゃんの仇を討つのは、
              あたしだ。
           他人にはやらせない……。
       あたしがやらなきゃ……。
    あたしがやってやる。
 あたしがやるんだ!!

「ぶっ殺す!!」

 突然口がそう叫んでいた。足は勝手に駆けだし、手はナイフを振りあげている。
 ビーナは床に転がった男の腹に馬乗りになった。左手で男の顎を押して顔を見えなくした。そして、右手で男の胸にナイフを突き立てる。
 途端に、ビーナの顔や胸、腕にも赤い血しぶきが飛びちった。だが、幾重にも巻かれた縄が邪魔をして、なかなか刃先が深く刺さらない。
 ビーナは、ナイフに左手も添えて、何度も振りかぶり何度も振りおろす。
「うあ、うあ、うあ、うあああああ!! うあ、うあ、うあ、うあああああ!!」
 女の泣き声と男の苦鳴【ルビ:くめい】が入り混じっている。どちらが自分の声なのかわからない。とにかく早く終わらせてしまいたかった……。
 すぐに女の声も男の声もやんだ。呆気なかった。
 ――終わった。
 頭の中が真っ白で、身体の芯にしびれるような感覚が残っている。まるで自分の身体ではないように力が入らない。振りあげたままの手をおろそうとしたが固まったように動かなかった。
 ふと見ると、ナイフを持った血まみれのビーナの腕、その手首を誰かがつかんでいた。
 その腕は、ビーナの下から伸びている。それは、縄が切れて拘束を解かれた男……兄の腕だ。
「ひッ……。うあ、うあああああああ!!」
 兄が笑っていた。まだ生きている。そう気づいたとき、ビーナは再び絶叫した。その瞬間、視界が反転し身体が浮きあがる。ビーナは、片手一本で放り投げられていた。
 床にたたきつけられ転がったビーナは、また手首をつかまれた。
「ひぃぃいッ!!」
「落ち着け、ビーナ。それと、今後は人の話は注意して聞け。私は首を落とせと言ったはずだよ……。まあ、いい。あとはヤトマたちに任せろ。あぁ、ところで……大丈夫か?」
 エルに助け起こされると、ヤトマと屈強な大男たちが貧相な小男を取り囲んでいるのが見えた。
 ヤトマは、刀身が三日月のように湾曲した鎌を逆手に持ち、他の四人も武器を構えている。各自の得意な武器なのだろう、槍、カギ縄、矛、倭刀【ルビ:わとう】と呼ばれる細身の刀、武器はバラバラだ。
 それに対して囲まれた小男のほうは、縄はすっかり解いたものの、素手だ。戦う気がないのか両腕をだらりと垂らし、中腰でかがんでいる。それに胸は傷だらけで、今も大量に出血している。立っているのが不思議なくらいだ。
 勝負は明らかに見えた。だが、違った……。
 最初に動いたのは、槍をたずさえた男だ。疾風の速さで小男の背後から突く。
 槍が痩せた背中を貫いた……、確かにそう見えた。
 だが、後ろに目がついているかのように一瞬早く、小男が両膝をたたんで跳躍した。
 小男が空中で身体をひねる。突きだされた槍の長柄に飛びのる。
 大男があわてて槍を引く。その反動を利用して、小男が槍をもった大男に一気に躍りかかる。
 悲鳴が聞こえた。
 見れば、槍の男は顔を深々とえぐられ、四本の赤い筋から血を流している。
 大男の首にしがみついた小男は、さらに大男の喉笛に食らいつこうと、ガッと口を開く。
 そのせつな、空気を切り裂くような音をたて、横手からカギ縄が飛んだ。
 それを、大男の首にぶら下がったまま、小男はクルリとその背に回りこんで避けた。
 ただ、避けただけではない。
 瞬時につかんだカギ縄を槍の男の首に巻きつけ、それを信じがたい怪力で引っぱったのだ。
 急に縄を引かれ、カギ縄を投じた男の巨体が、まりのような軽さで二度三度と床をはずむ。
 縄で首を絞められた男が泡を噴いて崩れおちると、小男はヒョイと床に下りた。
 その瞬間を、ふたりの男が狙っていた。
 小男の左右から、矛と倭刀が猛然と斬りかかる。逃げ道はない。
 だが、この必殺のはさみ撃ちすら届かなかった。
 小男は、足元に伏した男の背中を両手でつかむと軽々と放り投げ、矛の男にぶつける。
 同時に、倭刀の男には“足で”つかんだ槍を投じた。
 倭刀の男は、小男めがけてすでに飛びこんでいただけに避けようがなかった。
 太ももを槍に貫かれて転倒。その顔を蹴りあげると、小男は簡単に倭刀を奪いとった。
 瞬く間に、屈強な四人の大男たちが、ひとりの小男に倒されていた。
 残るは、ヤトマひとり。
 ヤトマは、小さな鎌の刃を小脇にかかえながら、エルの表情を横目でうかがう。
「やっぱ、魔物は半端なく強いっスね。エル隊長、どうしましょう?」
「任せる」
「了解っス!! 任されました」
 場違いな明るい声で応えると同時に、ヤトマは右手を勢いよく下から振りぬいた。
 その手から放たれたのは、三日月形の刃。
 高速で回転する鎌は、さながら銀色の円盤のようだ。
 緩やかな曲線の軌道を描き、床すれすれを飛び、とつじょとして浮きあがる。
 そして、右斜め下から小男の首に正確に飛びこんだ。
 だが、小男は顎を上げ、わずかに首をかしげただけで、あっさりとかわした……。
「あらまッ!! 大外れ」
 ヤトマは大げさにそう叫ぶや、あわてて左に走る。それを小男が跳ねるようにして追う。
「おっととと!!」
 血だまりで足を取られ、ヤトマが派手に尻もちをついた。小男はその隙を見逃さない。ヤトマのそばに立ち、逆手に持った倭刀を振りあげる。
 ビーナは、思わず弓を手にとり矢をつがえた。だが、その弓をエルの手が横に軽く押す。
「心配ないよ。ヤトマは食わせ者だ。見てればわかる」
 エルがそう言ったとき、銀色の光が小男の左後方を斜めに横切ったように見えた。
 そして、その光は小男の首に吸いこまれるように一瞬で消えた。
 倭刀を振りあげた手がだらりと垂れさがり、心棒を失ったように小男が前に倒れる。
 ヤトマのすぐそばに横たわった小男の胴体から、ビーナの兄に似た首がコロンと離れた。
 どこかに飛んでいったはずの鎌が、なぜか転がった首のすぐそばの床に突き刺さっている。
 ビーナは、一部始終を見ていたはずなのに自分の目が信じられない。
「い、今のなに? 精霊のいたずら?」
「いや、あれは確かブーメランとかいう、外れると戻ってくるおかしな武器だ。で、ヤトマはその戻ってくる場所でわざと転んで、獲物の足を止めたというわけだ。しかし、まったく解せんのは……私が『任せる』と言うと、あの男、必ずあの手のふざけた小細工を仕掛けてみせるのよ。普通にやったほうが確実で手っ取り早いだろうにね……。ヘンなヤツ」
 エルはため息をつくと苦笑した。その控えめな笑い声に別の笑い声が重なる。
「へへへ、そらあ、エル隊長を笑わせるためなら、俺ら、命くらいなんぼでも賭けますぜ」
 顔に四本の爪あとを刻まれた大男がのっそりと立ちあがっていた。血まみれの凄まじい顔でこちらを見ながらニヤニヤ笑っている。
 見れば、床に倒れていた他の男たちも次々に起きあがっていた。槍が太ももに刺さった男も、少し眉をひそめていたものの、あっさりと槍を抜きさり、持ち主に放り投げている。
「くだらん冗談を言う暇があれば、さっさと治療しろ。爪に毒をもつ魔物がいることくらい知ってるだろう。日暮れには出るぞ。さあ、ヤトマ以外は準備を急げ!!」
 エルが号令をかけると、ヤトマが不審な面持ちで、おずおずと顔の横に右手を上げる。
「オレは何を?」
「おまえは、遊んだ罰にこの部屋の掃除」
 エルの笑顔にヤトマはがっくりと肩を落とした。その様を大男四人が笑いをこらえて見ている。
「了解しました!! ヤトマ以外、急ぎ出立の用意を整えます。では御免」
 扉の前でそろって敬礼し、足早に退室していった男たちを、ビーナは唖然として見送る。
「あの……あの人たち、平気なんですか?」
「あれくらい、連中にはケガのうちに入らないよ。それに、ヤトマがあの妙な武器を使うときは、なにしろどこから飛んでくるかわからないからね、敵の近くにいる者は伏せる決まりなんだ」
 ビーナの質問にエルが平然と応えたとき、壁際でわざとらしい咳ばらいが聞こえた。
 ロウザイだ。あいかわらずの仏頂面で、元の長椅子に座っている。驚いたことに、このハゲオヤジ、騒動の間中タバコをふかしながら、のん気に観戦していたようだ。
 エルは、ロウザイに気づくや、やや芝居がかった調子で天を仰ぐ。
「あああッ!! すみません、実は少々取りこんでおりまして。ロウザイ殿、お待たせして恐縮です」
「けッ、こっちは、おまえと違ってずーーっと暇だから、別にいいけどよ。しかし、やっぱ、女がやることは中途半端でダメだな。詰めが甘いつーか、目先の勝ちしか見えてないつーかよ」
 ロウザイはタバコを床でもみ消すと顔を上げた。イヤミったらしく口の端がつりあがっている。
「私に落ち度があれば何なりと」
「いやね、おまえ、忙しさにかまけて忘れちまってんじゃねーかと思ってよ。首をはねただけじゃ死なねえ魔物がたんまにいることくらい、エル隊長ともあろうお方ならよーーくご存知だろうに。あいつにとどめを刺しとかなくていいのかねえ? ほーれ、あそこ」
 ロウザイが顎を上げて指示したほうを見れば、何かが椅子の下を移動していた。
 それは、ヤトマに切り落とされて床に転がっていたはずのビーナの兄の頭だ。その頭からは、さまざまな得体の知れないものがウジョウジョと湧きだしている。
 首の切り口からはえているのは、針金のような八本の細長い脚。それをカサコソと動かしてゴキブリのごとき素早さで走っている。
 口と鼻の穴からは、猿の尻尾に似た毛むくじゃらの黄色い縄状のものが四本。
 そして、両の耳の穴から突きでたものが、見る間に大きく開きバタバタとはばたく。
 大コウモリの黒い翼を左右につけた人間の生首がふわりと宙に浮く。
 飛んだ先は、オロロチ河に面した全開の窓だ。

(明日は一章6[エルの決断])
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傷だらけのビーナ 試し読み6
桝田 省治

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[もうひとつの再会]


「ふぅ、まあ、これで三日もあれば片づくだろう。さてと、ヤトマ……、次はなんだっけ?」
 卓上の地図から顔をあげたエルが正面のヤトマに助けを求めていた。
 ――あ~ぁ、やっぱりこの人、忘れてるよ。
 エル隊長は、いつもこの調子だ。誰よりも頭がキレる。その作戦は、常に過不足なく緻密にして大胆、神がかっているとさえ言える。
 だが、直面する問題にあまりに集中するためか、それ以外のことはしょっちゅう忘れてしまう。
 そして、それをとくに恥じるでもなく、必ずヤトマに訊ねるのだ。
 エルのそんなチグハグさが、年上のこわい上司であるにもかかわらず、ヤトマはかわいらしくてしょうがなかった。それに自分に訊くということは、たぶん信頼されている証だ。勝手な思い込みかもしれないが、ヤトマにはそれが嬉しかった。
 ヤトマは、おとぼけ上司の顔を優しくにらんでから、ゆっくりとビーナのほうを振り向く。それにつられてエルもビーナに顔を向けた。
 ビーナがあわてて立ちあがる。その拍子に膝の上に置かれていた魔物の面が床に落ちた。
「あ……、そうか、そうだった。待たせたな、ビーナ…………だっけ?」
 エルは、そう言いながら、ビーナの前まで大またで歩いていくと、
「で……、この娘【ルビ:こ】は、なんだっけ?」と、後ろから追いかけたヤトマにまた訊ねた。
 ヤトマは腰を折り、床に落ちた異形の面に手を伸ばす。
「よりによって正月に、それもひどい雨の中で、例のチグルっスよ。ほら、傷だらけの子供……」
 そう説明している途中、たぶん“チグル”の名を出したあたりだ、エルのすらりと伸びた足がいきなりビーナに駆けよるのが見えた。直後に「ひッ」というビーナの声が続く。
 ヤトマは、拾った面をビーナに渡そうと顔をあげた。だが、面を返すのは少しあとになりそうだ。おそらくさっきビーナの口から出た短い悲鳴は、いきなりエルに抱きしめられたせいだ。
 よほど感激したのだろう、ビーナがエルの胸で声をあげて泣いていた。エルは、子供を寝かしつける母親のようにビーナの白黒の頭をいとおしげに撫ぜている。
 ――よしよし、ここまでは順調。でも、ここからのほうが大変なんスがねえ。
 ヤトマは、エルとビーナ、変わり者の女ふたりを見つめながら、ほくそえんでいた。
 ビーナは、エルに促がされ、円卓のそばの椅子に腰かけた。エルはビーナが座った椅子の左右に二脚の椅子を引き寄せると、右側にビーナの弓と矢筒をていねいに置き、自身は左側に座る。
「あれから何があった? つらかったか? なんでもいいから、私に話してごらん。あ、それともう泣くな。あ、えっと、それから、お腹は減ってない? 何か食べるか?」
 エルが発したどの問いかけに応えたものか、ビーナがコクリとうなずいた。それを見るや、エルが矢つぎばやに叫ぶ。
「何をボンヤリしている。下に行って何かビーナが好きそうな物をかっぱらって来い。グズグズするな!! さっさと行けッ!! とっとと行けッ!! 行けッ!! 行けッ!! 走れッ!!」
 いきなり脛を蹴られた大男が、あわてて部屋を飛びだしていった。
 ――あらま。あいつ、あれでも十人からの部下を率いる、泣く子も黙る突撃隊の班長なのに。あ~ぁ、かわいそ。
 それにしてもメチャクチャな注文だ。“ビーナが好きそうな物”と言われてもわかるわけがない。
 ヤトマは、こんなにはしゃいでいるエルの姿を初めて見た。他の部下たちも同様らしい。十倍の敵を目の前にしても平然としている歴戦の猛者たちが目を白黒させている。

 どうやらビーナは、本当にお腹が減っていたようだ。泣くことも忘れ、山と積まれたさまざまな食べ物を勧められるままにどんどん平らげている。その豪快な食べっぷりを、エルは頬杖をつきながら目を細めて楽しげに見つめていた。
 ヤトマには、エルの気持ちが手にとるようにわかった。
 軍人だから、敵をたくさん殺せば手柄になる。金にもなるし出世もする。だが、それよりも誇らしいのは、自分の力でひとりでも命を救えたときだ。それが子供なら、なおのこと。ましてその救った命がしっかりと育っているのを見るのは、子供が産めないエルにはこの上ない喜びだろう。
 ビーナは、食べ物をほおばった口で、八年間の暮らしをエルに話していた。ここにビーナを案内する道すがらヤトマが聞きだしたのとほぼ同じ内容だ。とりとめのない話ぶりだが、エルはときおり質問をまじえながら熱心に耳を傾けている。
 驚いたことに、自分には見せるのをためらっていた身体の傷を、ビーナはズボンの裾までめくって、大笑いしながらエルには見せている。
 ――あらま、かなわねえな。やっぱ、女は女同士ってことっスかね。
 ヤトマは、ふたりの会話を聞きながしながら、ビーナに返しそびれた魔物の面をまじまじと観察していた。
 八年前、ヤトマはエルに命じられてビーナの傷に応急手当をほどこした。裏技も含めて、あの場でできることはすべてやった。傷そのものは、いずれ治ると確信していた。
 だが同時に、この子は長くは生きられない。そうも思っていた。
 なにしろビーナの身体は、いわば差し押さえられた借金のカタ。傷は、借金の証文。それが全身をおおっていた。そして、借金の相手は、強欲な魔物。さらには一匹や二匹ではない。
 いずれどんな手段を使っても取り立てにくるに決まっている。
 かわいそうだが、この子はそれまでの命だ。そうあきらめていた。
 なのに、ビーナは八年も生きていた。
 そればかりか、あの意地汚い食べっぷりからして、間違いなくここにいる誰よりも健康だ。
 ロウザイの大将じゃないが、お尻だって今どきの若い娘の中では十分にでかい。たぶん、元気な子供をいくらでも産める申し分のない身体だ。
 ありえないことだ……。運がよすぎる……。ビーナは、何か強い力に守られている。
 ――だとしたら、この迫力満点の面かなぁ。とくに変わったところはなさそうだけど、他に考えられないっスもんね。
 だが、たとえそうだったとしても問題は解決していない。今まで大丈夫だったからと言って、これからも安全な保証などどこにもない。
 見たところ、ビーナは頭に血がのぼりやすい性質【ルビ:たち】だ。そもそも、ビーナに限らず、あれくらいの年齢で自分の感情を制御できるヤツなんていやしない。
 怒り狂ったとき、絶望したとき、その心の隙を狙って無数の魔物がビーナに群がるだろう。もしも王都でそんなことが起きたら、どれだけの人が巻きこまれるかしれない……。ビーナの傷あとを見たとき、ヤトマはその凄惨な様が脳裏に浮かび、冷や汗が出た。
 ビーナの身体に傷をつけた片目野郎には貢物以上の意図はなかっただろうが、今のビーナは、勝手に動きまわる生きた“爆血【ルビ:バッケツ】”。いや、万爆血【ルビ:マンバッケツ】かもしれない。
 だったらいっそのこと、目の届くところに置いたほうがいい。たとえ、どちらに転ぶにせよだ。
 それが迷った末に出したヤトマの結論だった。
 ――さ~て、エル隊長はどう出るか? まッ、何ごともなるようにしかならないっスがね。
 もしもダメなら……。
 そのときはビーナをここに連れてきた自分が始末をつけるべきだろう。だけど、せっかく助けたんだし、今日まで健気に生きてきたんだし……、できることなら、

 ――殺したくはないっスね。

 そう思いながらも、ヤトマの手は、背中に隠している鎌の位置を確かめていた。同時に普段どおりの笑みを絶やさず、ビーナの止まらないおしゃべりに聞き耳を立てている。
 ビーナも、ロウザイとの珍騒動に関しては、少し後ろめたかったのか、話題にしなかった。だが、その代わりに怒りの矛先を向けたのは、志願兵の登録所で受けた扱いだ。
「それでね、エル。聞いてよ、ひどいの!! 話もろくに聞かずに受付のおっさんたら『女には無理!!』って決めつけるんだよ。あたし、頭にきた!!」
「まあ、そうだろうね。兵役経験がない女が、紹介状の一通も持たず、フラリと出向いて採用されるわけがない」
「えッ、あれ? そうなの? そうなんだ……。知らなかった……」
 本当に採用されると思っていたのだろう、ビーナはガックリと肩を落としてうつむいた。これには、さすがのエルも苦笑いするばかりだ。
「で、ビーナ、これからどうするつもり?」
「あたしを雇って。エル隊長の下で働かせてほしい」
 ビーナは即答すると、面【ルビ:おもて】を上げた。その頬は決意に満ち紅潮している。それとは逆に、真っすぐに向けられたビーナのまなざしに、エルの顔色がみるみる曇っていく。
「あ、ああ……、そうだな」
 エルの声は暗かった。だが急に、人が変わったように明るく甲高い声でまくしたてる。
「ああ!! そうだ、ちょうど下の詰め所で女給を募集していたよ。おまえならすぐに看板娘だ!! 慣れてきたら厨房の手伝いもやればいい。料理人になれば一生食うに困らん。食い意地が張ったヤツほど、いい料理人になるというしな!! そうだ、そうしろ、それがいい。私が親代わりだ。身元引受人になってやろう」
「違う!! そうじゃない!! ごまかさないで!!」
 ビーナのはじけるような勢いに、エルが気おされてうなだれる。
「ビーナ……、やめろ。それ以上、頼むから言わないでくれ」
「聞いて!! あたし、エル隊長みたいに強くなって、それでいつか、あの片目の男をやっつけて、父ちゃんや母ちゃんや兄ちゃんの仇を討ちたい!!」
「私……? 私のようにか……? おまえ、私が何と戦っているか、その目で見たろう」
 エルの様子を見て、ヤトマは鼻先を何度もかいた。だが、ビーナはぜんぜん気づかない。
「ぶっ殺す!! 魔物をぶっ殺す!!」
 そう叫ぶや、ビーナは椅子を蹴って立ちあがった。
「ふざけるな……。魔物を相手に戦うことの意味がおまえにはわかってない」
「できるよ、あたしだってやれる!!」
「いや、わかってないわよ……」
 エルの口調は、あくまで穏やかだった。おまけに口元に薄っすらと微笑みまで浮かべている。こういうときのエルは本当にヤバイ。きっと、とんでもないことをやらかすつもりだ。
 ヤトマは、鼻をかくのも忘れて、エルの一挙一動を見守った。
 エルは顔をあげ、四人の部下を見まわしたあとで、その中のふたりを指さす。
「おい、おまえたちふたりで、アレをここに連れて来てくれ」
「アレって? まさかあいつのことですか?」
 エルの命令に、元から強面【ルビ:こわもて】の男ふたりが、さらに顔を強ばらせていた。
「ふたりでは足りぬか?」
「い、いえ、大丈夫、ですが……」
「では、グズグズするな。さっさと行けッ!! とっとと行けッ!! 行けッ!! 行けッ!! 走れッ!!」
 エルに怒鳴られ、男ふたりがあわてて部屋の外に飛びだしていった。しばらくすると、大きなうめき声と男たちの怒声が廊下に響きわたった。さっき廊下で聞こえた声だ。どんどん近づいてくる。
「ビーナ、おまえはさっき、魔物を殺せると言ったね?」
「やるよ!! やってやるよ。あんたの仲間にしてくれるなら、なんだってやる!!」
「そうか……」
 エルが独り言のようにそうつぶやいたとき、奇声と怒声が部屋の前までやってきた。まるで扉の外で猛獣が暴れているような騒ぎだ。
 先ほどの男のひとりが少し扉を開けて顔を出す。
「隊長、本当にいいんですか?」
「かまわん。私が責任をもつ」
 扉が開け放たれた。大男ふたりが前後を抱えて部屋に運び入れたのは、巨大な頭陀袋【ルビ:ずだぶくろ】だ。その袋は、身をよじるようにモゴモゴと蠢いている。獣のようなうめき声はその中から聞こえた。
「出せ」
 エルに命じられ、袋の口を縛っていた縄が解かれ、ひっくりかえされる。
 袋の中から大きなかたまりが、ドサリと床に投げだされた。
 それは貧相な小男だった。部屋の真ん中で、のたうちまわり大声でうめいている。
 荒縄で芋虫のように何重にも縛られ、さらに縄の上に何枚もお札が貼られている。
 口に猿ぐつわをかまされているにもかかわらず、凄まじい声だ。
 それをたくましいふたりの大男が、必死の形相で押さえこんでいた。
 その様を悠然と見つめたまま、エルがビーナに声をかける。
「あれは、キルゴランの密偵だ。雇った人足に混じっていた。おそらく子供のうちに魔物に乗っとられたのだろうね。外側は人間だが、中身はもう完全に別のものだ」
 エルは椅子からおもむろに立ちあがると、腰にさげていたナイフをビーナの手をとって握らせた。
 そして、ビーナの耳もとに頬を寄せてささやく。
「これが魔物と戦うということだ。あいつの首を落とせ。おまえにやれるか?」
 ナイフを握ったビーナの手が震えていた。暴れる小男を、真っ青な顔で見つめて放心している。まるでエルの声など聞こえてないかのようだ。
「兄ちゃん!? 兄ちゃんだ!!」
 ビーナが突然そう叫んだ。
 ――兄ちゃん?
 あ~ぁ、ウソだろ。よりによって実の兄貴とは、つくづく運のない娘っスね。いくらなんでも、こりゃ、きついわ。残念ながら採用試験は落第かぁ。ちょっと期待してたんスけどねえ。
 ヤトマは、手に持っていた面をビーナの弓と一緒に椅子に置いた。空いた手を背中に回すと、半てんの裾をめくり鎌の柄を握りしめる。


(明日は一章5[魔物])
http://www.alfasystem.net/a_m/archives/285.html


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