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傷だらけのビーナ 試し読み7
桝田 省治

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[魔物]


「兄ちゃん……」
 死んだんじゃなかったの!? なんで兄ちゃん、ここにいるのよ!?
 八年前より身体は大きくなっていた。だが、顔はあまり変わっていない。殴られて腫れあがってはいるが、床に仰向けに転がっている男は、間違いなく兄だ。
 ビーナは、混乱していた。何がどうなっているのか、どうすればいいのかわからない。ビーナは、助けを乞うようにエルを振りかえった。
「おまえの兄はとうの昔に死んでいる。見た目にだまされるな、あいつは兄じゃない。おまえの兄を食った魔物……。我々の敵だ!!」
 エルはそう言い放つと、床に転がった男を憎々しげににらみつけた。その視線を追って、ビーナも兄そっくりの男にもう一度目をやる。
 エルの言うとおりなのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。兄が生きているはずはない。だけど、殺されたところを見たわけじゃない。もしかしたら……、
「本当に魔物なの?」
「確かだ。何人も同じようなヤツを見てきた」
「でも……」
「この貧弱な小男が完全武装の兵を五人、素手で殴り殺した。そう言えば信じるか?」
「元には……」
「戻らない。死んだ者は二度と生きかえらない。おまえにできるのは、兄の身体を奪った魔物を殺すこと……、それだけだ」
 そう静かに告げたあとで、エルはビーナの顔をまじまじと見つめた。そして、訊ねた。内容はさっきとまったく同じだ。
「おまえにやれるか? こいつの首を落とせるか?」
 そう問われて、ビーナは思わず顔をそむけた。そのとき、ビーナの脳裏には兄の思い出が次々によみがえり、涙があふれそうになっていた。
 ひとつ違いの兄だった。村には十人ほどの子供がいて、兄はそのガキ大将だった。幼い頃はいつも兄についてまわったものだ。口よりも手が早く、しょっちゅうぶたれて泣かされた。食べものの好みが似ていて、おかずもよく盗られた。だけど、優しいところもいっぱいあった。山犬の群れに追いかけられたときも川で溺れそうになったときも助けてくれたのは兄。弓を教えてくれたのも兄だ……。
 その兄をあたしはこの手で殺せるのか?
「ごめん……。ムリ……」
 ビーナは顔をそむけたまま、消え入りそうな声で我知らず応えていた。
「そうか……。そうだろうな。それが普通だ。気にすることはないよ。さ、ナイフを寄こせ。私がおまえの兄の仇を討ってやる。いいと言うまで目を閉じ…………おい、ビーナ? 大丈夫か?」
 エルがしゃべっている途中で、その声が遠ざかり、いつの間にか何も聞こえなくなっていた。
 ビーナは、エルにナイフを返さなかったし、目も大きく見開いたままだ。
 エルの発した一言だけが頭の中にポツンとあった。その言葉が何度も繰りかえされている。

 ――兄の仇を討ってやる。
    兄の仇を討ってやる。
     兄の仇を討ってやる。
             エルが兄の仇を討つ……?
                        ちがう。
                        エルじゃない――あたしだ。
              兄ちゃんの仇を討つのは、
              あたしだ。
           他人にはやらせない……。
       あたしがやらなきゃ……。
    あたしがやってやる。
 あたしがやるんだ!!

「ぶっ殺す!!」

 突然口がそう叫んでいた。足は勝手に駆けだし、手はナイフを振りあげている。
 ビーナは床に転がった男の腹に馬乗りになった。左手で男の顎を押して顔を見えなくした。そして、右手で男の胸にナイフを突き立てる。
 途端に、ビーナの顔や胸、腕にも赤い血しぶきが飛びちった。だが、幾重にも巻かれた縄が邪魔をして、なかなか刃先が深く刺さらない。
 ビーナは、ナイフに左手も添えて、何度も振りかぶり何度も振りおろす。
「うあ、うあ、うあ、うあああああ!! うあ、うあ、うあ、うあああああ!!」
 女の泣き声と男の苦鳴【ルビ:くめい】が入り混じっている。どちらが自分の声なのかわからない。とにかく早く終わらせてしまいたかった……。
 すぐに女の声も男の声もやんだ。呆気なかった。
 ――終わった。
 頭の中が真っ白で、身体の芯にしびれるような感覚が残っている。まるで自分の身体ではないように力が入らない。振りあげたままの手をおろそうとしたが固まったように動かなかった。
 ふと見ると、ナイフを持った血まみれのビーナの腕、その手首を誰かがつかんでいた。
 その腕は、ビーナの下から伸びている。それは、縄が切れて拘束を解かれた男……兄の腕だ。
「ひッ……。うあ、うあああああああ!!」
 兄が笑っていた。まだ生きている。そう気づいたとき、ビーナは再び絶叫した。その瞬間、視界が反転し身体が浮きあがる。ビーナは、片手一本で放り投げられていた。
 床にたたきつけられ転がったビーナは、また手首をつかまれた。
「ひぃぃいッ!!」
「落ち着け、ビーナ。それと、今後は人の話は注意して聞け。私は首を落とせと言ったはずだよ……。まあ、いい。あとはヤトマたちに任せろ。あぁ、ところで……大丈夫か?」
 エルに助け起こされると、ヤトマと屈強な大男たちが貧相な小男を取り囲んでいるのが見えた。
 ヤトマは、刀身が三日月のように湾曲した鎌を逆手に持ち、他の四人も武器を構えている。各自の得意な武器なのだろう、槍、カギ縄、矛、倭刀【ルビ:わとう】と呼ばれる細身の刀、武器はバラバラだ。
 それに対して囲まれた小男のほうは、縄はすっかり解いたものの、素手だ。戦う気がないのか両腕をだらりと垂らし、中腰でかがんでいる。それに胸は傷だらけで、今も大量に出血している。立っているのが不思議なくらいだ。
 勝負は明らかに見えた。だが、違った……。
 最初に動いたのは、槍をたずさえた男だ。疾風の速さで小男の背後から突く。
 槍が痩せた背中を貫いた……、確かにそう見えた。
 だが、後ろに目がついているかのように一瞬早く、小男が両膝をたたんで跳躍した。
 小男が空中で身体をひねる。突きだされた槍の長柄に飛びのる。
 大男があわてて槍を引く。その反動を利用して、小男が槍をもった大男に一気に躍りかかる。
 悲鳴が聞こえた。
 見れば、槍の男は顔を深々とえぐられ、四本の赤い筋から血を流している。
 大男の首にしがみついた小男は、さらに大男の喉笛に食らいつこうと、ガッと口を開く。
 そのせつな、空気を切り裂くような音をたて、横手からカギ縄が飛んだ。
 それを、大男の首にぶら下がったまま、小男はクルリとその背に回りこんで避けた。
 ただ、避けただけではない。
 瞬時につかんだカギ縄を槍の男の首に巻きつけ、それを信じがたい怪力で引っぱったのだ。
 急に縄を引かれ、カギ縄を投じた男の巨体が、まりのような軽さで二度三度と床をはずむ。
 縄で首を絞められた男が泡を噴いて崩れおちると、小男はヒョイと床に下りた。
 その瞬間を、ふたりの男が狙っていた。
 小男の左右から、矛と倭刀が猛然と斬りかかる。逃げ道はない。
 だが、この必殺のはさみ撃ちすら届かなかった。
 小男は、足元に伏した男の背中を両手でつかむと軽々と放り投げ、矛の男にぶつける。
 同時に、倭刀の男には“足で”つかんだ槍を投じた。
 倭刀の男は、小男めがけてすでに飛びこんでいただけに避けようがなかった。
 太ももを槍に貫かれて転倒。その顔を蹴りあげると、小男は簡単に倭刀を奪いとった。
 瞬く間に、屈強な四人の大男たちが、ひとりの小男に倒されていた。
 残るは、ヤトマひとり。
 ヤトマは、小さな鎌の刃を小脇にかかえながら、エルの表情を横目でうかがう。
「やっぱ、魔物は半端なく強いっスね。エル隊長、どうしましょう?」
「任せる」
「了解っス!! 任されました」
 場違いな明るい声で応えると同時に、ヤトマは右手を勢いよく下から振りぬいた。
 その手から放たれたのは、三日月形の刃。
 高速で回転する鎌は、さながら銀色の円盤のようだ。
 緩やかな曲線の軌道を描き、床すれすれを飛び、とつじょとして浮きあがる。
 そして、右斜め下から小男の首に正確に飛びこんだ。
 だが、小男は顎を上げ、わずかに首をかしげただけで、あっさりとかわした……。
「あらまッ!! 大外れ」
 ヤトマは大げさにそう叫ぶや、あわてて左に走る。それを小男が跳ねるようにして追う。
「おっととと!!」
 血だまりで足を取られ、ヤトマが派手に尻もちをついた。小男はその隙を見逃さない。ヤトマのそばに立ち、逆手に持った倭刀を振りあげる。
 ビーナは、思わず弓を手にとり矢をつがえた。だが、その弓をエルの手が横に軽く押す。
「心配ないよ。ヤトマは食わせ者だ。見てればわかる」
 エルがそう言ったとき、銀色の光が小男の左後方を斜めに横切ったように見えた。
 そして、その光は小男の首に吸いこまれるように一瞬で消えた。
 倭刀を振りあげた手がだらりと垂れさがり、心棒を失ったように小男が前に倒れる。
 ヤトマのすぐそばに横たわった小男の胴体から、ビーナの兄に似た首がコロンと離れた。
 どこかに飛んでいったはずの鎌が、なぜか転がった首のすぐそばの床に突き刺さっている。
 ビーナは、一部始終を見ていたはずなのに自分の目が信じられない。
「い、今のなに? 精霊のいたずら?」
「いや、あれは確かブーメランとかいう、外れると戻ってくるおかしな武器だ。で、ヤトマはその戻ってくる場所でわざと転んで、獲物の足を止めたというわけだ。しかし、まったく解せんのは……私が『任せる』と言うと、あの男、必ずあの手のふざけた小細工を仕掛けてみせるのよ。普通にやったほうが確実で手っ取り早いだろうにね……。ヘンなヤツ」
 エルはため息をつくと苦笑した。その控えめな笑い声に別の笑い声が重なる。
「へへへ、そらあ、エル隊長を笑わせるためなら、俺ら、命くらいなんぼでも賭けますぜ」
 顔に四本の爪あとを刻まれた大男がのっそりと立ちあがっていた。血まみれの凄まじい顔でこちらを見ながらニヤニヤ笑っている。
 見れば、床に倒れていた他の男たちも次々に起きあがっていた。槍が太ももに刺さった男も、少し眉をひそめていたものの、あっさりと槍を抜きさり、持ち主に放り投げている。
「くだらん冗談を言う暇があれば、さっさと治療しろ。爪に毒をもつ魔物がいることくらい知ってるだろう。日暮れには出るぞ。さあ、ヤトマ以外は準備を急げ!!」
 エルが号令をかけると、ヤトマが不審な面持ちで、おずおずと顔の横に右手を上げる。
「オレは何を?」
「おまえは、遊んだ罰にこの部屋の掃除」
 エルの笑顔にヤトマはがっくりと肩を落とした。その様を大男四人が笑いをこらえて見ている。
「了解しました!! ヤトマ以外、急ぎ出立の用意を整えます。では御免」
 扉の前でそろって敬礼し、足早に退室していった男たちを、ビーナは唖然として見送る。
「あの……あの人たち、平気なんですか?」
「あれくらい、連中にはケガのうちに入らないよ。それに、ヤトマがあの妙な武器を使うときは、なにしろどこから飛んでくるかわからないからね、敵の近くにいる者は伏せる決まりなんだ」
 ビーナの質問にエルが平然と応えたとき、壁際でわざとらしい咳ばらいが聞こえた。
 ロウザイだ。あいかわらずの仏頂面で、元の長椅子に座っている。驚いたことに、このハゲオヤジ、騒動の間中タバコをふかしながら、のん気に観戦していたようだ。
 エルは、ロウザイに気づくや、やや芝居がかった調子で天を仰ぐ。
「あああッ!! すみません、実は少々取りこんでおりまして。ロウザイ殿、お待たせして恐縮です」
「けッ、こっちは、おまえと違ってずーーっと暇だから、別にいいけどよ。しかし、やっぱ、女がやることは中途半端でダメだな。詰めが甘いつーか、目先の勝ちしか見えてないつーかよ」
 ロウザイはタバコを床でもみ消すと顔を上げた。イヤミったらしく口の端がつりあがっている。
「私に落ち度があれば何なりと」
「いやね、おまえ、忙しさにかまけて忘れちまってんじゃねーかと思ってよ。首をはねただけじゃ死なねえ魔物がたんまにいることくらい、エル隊長ともあろうお方ならよーーくご存知だろうに。あいつにとどめを刺しとかなくていいのかねえ? ほーれ、あそこ」
 ロウザイが顎を上げて指示したほうを見れば、何かが椅子の下を移動していた。
 それは、ヤトマに切り落とされて床に転がっていたはずのビーナの兄の頭だ。その頭からは、さまざまな得体の知れないものがウジョウジョと湧きだしている。
 首の切り口からはえているのは、針金のような八本の細長い脚。それをカサコソと動かしてゴキブリのごとき素早さで走っている。
 口と鼻の穴からは、猿の尻尾に似た毛むくじゃらの黄色い縄状のものが四本。
 そして、両の耳の穴から突きでたものが、見る間に大きく開きバタバタとはばたく。
 大コウモリの黒い翼を左右につけた人間の生首がふわりと宙に浮く。
 飛んだ先は、オロロチ河に面した全開の窓だ。

(明日は一章6[エルの決断])
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傷だらけのビーナ 試し読み6
桝田 省治

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[もうひとつの再会]


「ふぅ、まあ、これで三日もあれば片づくだろう。さてと、ヤトマ……、次はなんだっけ?」
 卓上の地図から顔をあげたエルが正面のヤトマに助けを求めていた。
 ――あ~ぁ、やっぱりこの人、忘れてるよ。
 エル隊長は、いつもこの調子だ。誰よりも頭がキレる。その作戦は、常に過不足なく緻密にして大胆、神がかっているとさえ言える。
 だが、直面する問題にあまりに集中するためか、それ以外のことはしょっちゅう忘れてしまう。
 そして、それをとくに恥じるでもなく、必ずヤトマに訊ねるのだ。
 エルのそんなチグハグさが、年上のこわい上司であるにもかかわらず、ヤトマはかわいらしくてしょうがなかった。それに自分に訊くということは、たぶん信頼されている証だ。勝手な思い込みかもしれないが、ヤトマにはそれが嬉しかった。
 ヤトマは、おとぼけ上司の顔を優しくにらんでから、ゆっくりとビーナのほうを振り向く。それにつられてエルもビーナに顔を向けた。
 ビーナがあわてて立ちあがる。その拍子に膝の上に置かれていた魔物の面が床に落ちた。
「あ……、そうか、そうだった。待たせたな、ビーナ…………だっけ?」
 エルは、そう言いながら、ビーナの前まで大またで歩いていくと、
「で……、この娘【ルビ:こ】は、なんだっけ?」と、後ろから追いかけたヤトマにまた訊ねた。
 ヤトマは腰を折り、床に落ちた異形の面に手を伸ばす。
「よりによって正月に、それもひどい雨の中で、例のチグルっスよ。ほら、傷だらけの子供……」
 そう説明している途中、たぶん“チグル”の名を出したあたりだ、エルのすらりと伸びた足がいきなりビーナに駆けよるのが見えた。直後に「ひッ」というビーナの声が続く。
 ヤトマは、拾った面をビーナに渡そうと顔をあげた。だが、面を返すのは少しあとになりそうだ。おそらくさっきビーナの口から出た短い悲鳴は、いきなりエルに抱きしめられたせいだ。
 よほど感激したのだろう、ビーナがエルの胸で声をあげて泣いていた。エルは、子供を寝かしつける母親のようにビーナの白黒の頭をいとおしげに撫ぜている。
 ――よしよし、ここまでは順調。でも、ここからのほうが大変なんスがねえ。
 ヤトマは、エルとビーナ、変わり者の女ふたりを見つめながら、ほくそえんでいた。
 ビーナは、エルに促がされ、円卓のそばの椅子に腰かけた。エルはビーナが座った椅子の左右に二脚の椅子を引き寄せると、右側にビーナの弓と矢筒をていねいに置き、自身は左側に座る。
「あれから何があった? つらかったか? なんでもいいから、私に話してごらん。あ、それともう泣くな。あ、えっと、それから、お腹は減ってない? 何か食べるか?」
 エルが発したどの問いかけに応えたものか、ビーナがコクリとうなずいた。それを見るや、エルが矢つぎばやに叫ぶ。
「何をボンヤリしている。下に行って何かビーナが好きそうな物をかっぱらって来い。グズグズするな!! さっさと行けッ!! とっとと行けッ!! 行けッ!! 行けッ!! 走れッ!!」
 いきなり脛を蹴られた大男が、あわてて部屋を飛びだしていった。
 ――あらま。あいつ、あれでも十人からの部下を率いる、泣く子も黙る突撃隊の班長なのに。あ~ぁ、かわいそ。
 それにしてもメチャクチャな注文だ。“ビーナが好きそうな物”と言われてもわかるわけがない。
 ヤトマは、こんなにはしゃいでいるエルの姿を初めて見た。他の部下たちも同様らしい。十倍の敵を目の前にしても平然としている歴戦の猛者たちが目を白黒させている。

 どうやらビーナは、本当にお腹が減っていたようだ。泣くことも忘れ、山と積まれたさまざまな食べ物を勧められるままにどんどん平らげている。その豪快な食べっぷりを、エルは頬杖をつきながら目を細めて楽しげに見つめていた。
 ヤトマには、エルの気持ちが手にとるようにわかった。
 軍人だから、敵をたくさん殺せば手柄になる。金にもなるし出世もする。だが、それよりも誇らしいのは、自分の力でひとりでも命を救えたときだ。それが子供なら、なおのこと。ましてその救った命がしっかりと育っているのを見るのは、子供が産めないエルにはこの上ない喜びだろう。
 ビーナは、食べ物をほおばった口で、八年間の暮らしをエルに話していた。ここにビーナを案内する道すがらヤトマが聞きだしたのとほぼ同じ内容だ。とりとめのない話ぶりだが、エルはときおり質問をまじえながら熱心に耳を傾けている。
 驚いたことに、自分には見せるのをためらっていた身体の傷を、ビーナはズボンの裾までめくって、大笑いしながらエルには見せている。
 ――あらま、かなわねえな。やっぱ、女は女同士ってことっスかね。
 ヤトマは、ふたりの会話を聞きながしながら、ビーナに返しそびれた魔物の面をまじまじと観察していた。
 八年前、ヤトマはエルに命じられてビーナの傷に応急手当をほどこした。裏技も含めて、あの場でできることはすべてやった。傷そのものは、いずれ治ると確信していた。
 だが同時に、この子は長くは生きられない。そうも思っていた。
 なにしろビーナの身体は、いわば差し押さえられた借金のカタ。傷は、借金の証文。それが全身をおおっていた。そして、借金の相手は、強欲な魔物。さらには一匹や二匹ではない。
 いずれどんな手段を使っても取り立てにくるに決まっている。
 かわいそうだが、この子はそれまでの命だ。そうあきらめていた。
 なのに、ビーナは八年も生きていた。
 そればかりか、あの意地汚い食べっぷりからして、間違いなくここにいる誰よりも健康だ。
 ロウザイの大将じゃないが、お尻だって今どきの若い娘の中では十分にでかい。たぶん、元気な子供をいくらでも産める申し分のない身体だ。
 ありえないことだ……。運がよすぎる……。ビーナは、何か強い力に守られている。
 ――だとしたら、この迫力満点の面かなぁ。とくに変わったところはなさそうだけど、他に考えられないっスもんね。
 だが、たとえそうだったとしても問題は解決していない。今まで大丈夫だったからと言って、これからも安全な保証などどこにもない。
 見たところ、ビーナは頭に血がのぼりやすい性質【ルビ:たち】だ。そもそも、ビーナに限らず、あれくらいの年齢で自分の感情を制御できるヤツなんていやしない。
 怒り狂ったとき、絶望したとき、その心の隙を狙って無数の魔物がビーナに群がるだろう。もしも王都でそんなことが起きたら、どれだけの人が巻きこまれるかしれない……。ビーナの傷あとを見たとき、ヤトマはその凄惨な様が脳裏に浮かび、冷や汗が出た。
 ビーナの身体に傷をつけた片目野郎には貢物以上の意図はなかっただろうが、今のビーナは、勝手に動きまわる生きた“爆血【ルビ:バッケツ】”。いや、万爆血【ルビ:マンバッケツ】かもしれない。
 だったらいっそのこと、目の届くところに置いたほうがいい。たとえ、どちらに転ぶにせよだ。
 それが迷った末に出したヤトマの結論だった。
 ――さ~て、エル隊長はどう出るか? まッ、何ごともなるようにしかならないっスがね。
 もしもダメなら……。
 そのときはビーナをここに連れてきた自分が始末をつけるべきだろう。だけど、せっかく助けたんだし、今日まで健気に生きてきたんだし……、できることなら、

 ――殺したくはないっスね。

 そう思いながらも、ヤトマの手は、背中に隠している鎌の位置を確かめていた。同時に普段どおりの笑みを絶やさず、ビーナの止まらないおしゃべりに聞き耳を立てている。
 ビーナも、ロウザイとの珍騒動に関しては、少し後ろめたかったのか、話題にしなかった。だが、その代わりに怒りの矛先を向けたのは、志願兵の登録所で受けた扱いだ。
「それでね、エル。聞いてよ、ひどいの!! 話もろくに聞かずに受付のおっさんたら『女には無理!!』って決めつけるんだよ。あたし、頭にきた!!」
「まあ、そうだろうね。兵役経験がない女が、紹介状の一通も持たず、フラリと出向いて採用されるわけがない」
「えッ、あれ? そうなの? そうなんだ……。知らなかった……」
 本当に採用されると思っていたのだろう、ビーナはガックリと肩を落としてうつむいた。これには、さすがのエルも苦笑いするばかりだ。
「で、ビーナ、これからどうするつもり?」
「あたしを雇って。エル隊長の下で働かせてほしい」
 ビーナは即答すると、面【ルビ:おもて】を上げた。その頬は決意に満ち紅潮している。それとは逆に、真っすぐに向けられたビーナのまなざしに、エルの顔色がみるみる曇っていく。
「あ、ああ……、そうだな」
 エルの声は暗かった。だが急に、人が変わったように明るく甲高い声でまくしたてる。
「ああ!! そうだ、ちょうど下の詰め所で女給を募集していたよ。おまえならすぐに看板娘だ!! 慣れてきたら厨房の手伝いもやればいい。料理人になれば一生食うに困らん。食い意地が張ったヤツほど、いい料理人になるというしな!! そうだ、そうしろ、それがいい。私が親代わりだ。身元引受人になってやろう」
「違う!! そうじゃない!! ごまかさないで!!」
 ビーナのはじけるような勢いに、エルが気おされてうなだれる。
「ビーナ……、やめろ。それ以上、頼むから言わないでくれ」
「聞いて!! あたし、エル隊長みたいに強くなって、それでいつか、あの片目の男をやっつけて、父ちゃんや母ちゃんや兄ちゃんの仇を討ちたい!!」
「私……? 私のようにか……? おまえ、私が何と戦っているか、その目で見たろう」
 エルの様子を見て、ヤトマは鼻先を何度もかいた。だが、ビーナはぜんぜん気づかない。
「ぶっ殺す!! 魔物をぶっ殺す!!」
 そう叫ぶや、ビーナは椅子を蹴って立ちあがった。
「ふざけるな……。魔物を相手に戦うことの意味がおまえにはわかってない」
「できるよ、あたしだってやれる!!」
「いや、わかってないわよ……」
 エルの口調は、あくまで穏やかだった。おまけに口元に薄っすらと微笑みまで浮かべている。こういうときのエルは本当にヤバイ。きっと、とんでもないことをやらかすつもりだ。
 ヤトマは、鼻をかくのも忘れて、エルの一挙一動を見守った。
 エルは顔をあげ、四人の部下を見まわしたあとで、その中のふたりを指さす。
「おい、おまえたちふたりで、アレをここに連れて来てくれ」
「アレって? まさかあいつのことですか?」
 エルの命令に、元から強面【ルビ:こわもて】の男ふたりが、さらに顔を強ばらせていた。
「ふたりでは足りぬか?」
「い、いえ、大丈夫、ですが……」
「では、グズグズするな。さっさと行けッ!! とっとと行けッ!! 行けッ!! 行けッ!! 走れッ!!」
 エルに怒鳴られ、男ふたりがあわてて部屋の外に飛びだしていった。しばらくすると、大きなうめき声と男たちの怒声が廊下に響きわたった。さっき廊下で聞こえた声だ。どんどん近づいてくる。
「ビーナ、おまえはさっき、魔物を殺せると言ったね?」
「やるよ!! やってやるよ。あんたの仲間にしてくれるなら、なんだってやる!!」
「そうか……」
 エルが独り言のようにそうつぶやいたとき、奇声と怒声が部屋の前までやってきた。まるで扉の外で猛獣が暴れているような騒ぎだ。
 先ほどの男のひとりが少し扉を開けて顔を出す。
「隊長、本当にいいんですか?」
「かまわん。私が責任をもつ」
 扉が開け放たれた。大男ふたりが前後を抱えて部屋に運び入れたのは、巨大な頭陀袋【ルビ:ずだぶくろ】だ。その袋は、身をよじるようにモゴモゴと蠢いている。獣のようなうめき声はその中から聞こえた。
「出せ」
 エルに命じられ、袋の口を縛っていた縄が解かれ、ひっくりかえされる。
 袋の中から大きなかたまりが、ドサリと床に投げだされた。
 それは貧相な小男だった。部屋の真ん中で、のたうちまわり大声でうめいている。
 荒縄で芋虫のように何重にも縛られ、さらに縄の上に何枚もお札が貼られている。
 口に猿ぐつわをかまされているにもかかわらず、凄まじい声だ。
 それをたくましいふたりの大男が、必死の形相で押さえこんでいた。
 その様を悠然と見つめたまま、エルがビーナに声をかける。
「あれは、キルゴランの密偵だ。雇った人足に混じっていた。おそらく子供のうちに魔物に乗っとられたのだろうね。外側は人間だが、中身はもう完全に別のものだ」
 エルは椅子からおもむろに立ちあがると、腰にさげていたナイフをビーナの手をとって握らせた。
 そして、ビーナの耳もとに頬を寄せてささやく。
「これが魔物と戦うということだ。あいつの首を落とせ。おまえにやれるか?」
 ナイフを握ったビーナの手が震えていた。暴れる小男を、真っ青な顔で見つめて放心している。まるでエルの声など聞こえてないかのようだ。
「兄ちゃん!? 兄ちゃんだ!!」
 ビーナが突然そう叫んだ。
 ――兄ちゃん?
 あ~ぁ、ウソだろ。よりによって実の兄貴とは、つくづく運のない娘っスね。いくらなんでも、こりゃ、きついわ。残念ながら採用試験は落第かぁ。ちょっと期待してたんスけどねえ。
 ヤトマは、手に持っていた面をビーナの弓と一緒に椅子に置いた。空いた手を背中に回すと、半てんの裾をめくり鎌の柄を握りしめる。


(明日は一章5[魔物])
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傷だらけのビーナ 試し読み5
桝田 省治

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[再会]


 梯子【ルビ:はしご】と見まがうばかりの急傾斜なのに、その階段には手すりの類が一切なかった。もしも落ちたらケガではすみそうもない……。
 ヒヤヒヤしながら、高さにして三階分ほど階段をのぼった先には、下にあったのと同じような両開きの扉があった。少し違っていたのは、左右の扉に縦長の紙が一枚ずつ貼られていたことだ。
 その紙には文字らしき記号がびっしりと書かれていた。大半はなじみのない記号だが、見覚えのあるものもいくつか混じっている。
 ×、◎、◇、V、И、△……それはビーナの全身に今なお残る傷あと、精霊の名前を表す印だ。
「これは? 魔物が入ってこれないようにするお札か何か?」
「それもあるけど、どっちかといえば逆っスかね」
「どういう意味?」
 ビーナの質問に、ヤトマはあいまいに笑いかえすと扉を開けた。
 その瞬間、モワっと押しよせてきたのは透明の魔物……ではなく、思わずあとじさるほど濃厚な男くさい空気だった。
 窓が少ないのかもしれない、昼間だというのに中は薄暗い。
 左右と正面に長い廊下が続いている。廊下の左右には、入口にすだれをかけただけの小さな部屋が、見えるだけでも二十近く並んでいる。
 太い梁が何本も通り、天井が斜めに傾いているところから考えて、この空間は倉庫の天井裏だろう。
「ンおおおお……!! ンああああ……!! ンむむむむ……」
 突然、右手のほうから獣がうめくような奇声が響き、ビーナの身体がビクリとした。後ろからは、ハゲオヤジのいかにも不快そうな舌打ちが続く。だが、ヤトマは、まるであの声が聞こえていないかのようにスタスタと歩いていく。その表情はあいかわらずだが、あの奇声については質問されたくない雰囲気がありありと見えた。
 ビーナは、ヤトマのあとについて歩きながら、すだれが上がっている部屋の中をチラチラとのぞいた。木製の簡素な二段組の寝台と横長の机と椅子が二脚、縦長の引き戸がついた物入れも見えた。どうやら全室とも家具の種類と数は同じだ。
 たまに脱ぎっぱなしの下着が寝台の上に放置されたままの部屋もあったが、だいたいは整理整頓されている。
 すだれが下りている部屋のいくつかからは、寝息が聞こえていた。
 ここで数十人の男たちが常に寝起きしている様子だ。
 正面の廊下を少し進み、左に曲がった突きあたりの部屋の前で、ヤトマが立ち止まった。
 この部屋だけは、入口にすだれではなくしっかりした扉がついている。この扉にも、先ほど見たのと同じお札が貼られている。しかも、こちらは扉の取っ手が埋まるほど隙間なくおおっている。
 その執拗さを目にしたとき、ヤトマがさっき言った“逆”の意味がわかった気がして、背中がひやりとした。
 これは入るのを防ぐのではなく、出るのを止めるお札なのだ。つまり、この扉の向こう側には、とんでもなく危険なものが封じられている。
 ――いったい何があるの?
 ビーナの不安をよそに、ヤトマは躊躇なくその扉を拳の先で二、三度軽快にたたき、中からの返事を待たずに扉を開いた。
 その瞬間、ビーナは目がくらんだ。
 正面の大きな窓いっぱいに見えたのは、オロロチ河だ。船の帆柱がすぐ近くに見え、午後の強い日差しを反射した水面がキラキラと輝いている。
 その清らかな光と窓から入るそよ風のおかげだろうか、この部屋には男くささを感じない。
「ヤトマ、戻りました。ロウザイ隊長をお連れしました。それと懐かしいお客さんも」
 ヤトマに手招かれ、ビーナはおそるおそる部屋に入った。
 思った以上に広く横に長い部屋だ。ここには壁だけでなく天井まで先ほどのお札が雑に貼られている。壁際には真っ黒で人の背丈ほどもある大きな祭壇がズラリと並んでいた。まるで立てかけられた棺おけだ。その一つひとつに果物と花がていねいに供えられている。
「懐かしい…………客…………?」
 やや口ごもった声がしたほうを見れば、部屋の隅でがっしりした体格の大男が四人、頭を突きあわせるようにして、円卓を囲んでいた。すぐそばに椅子があるにもかかわらず誰も座っていない。
 全員が今すぐ出陣できるような出で立ちだ。帷子【ルビ:かたびら】の上に使いこまれ黒光りする革の鎧を身につけ、かたわらの床にはさまざまな武器が無造作に置かれている。
 その輪の中にひとりだけ女がいた。歳は三十半ばだろう。細身だが、背丈はまわりの男とそう変わらない。女としてはかなりの長身の部類だ。
 女も胴体の前面と腰の部分にいちおう革の鎧をつけていた。だが、肩も首も手足も背中も青白い素肌が露出している。ようするに下着のような薄っぺらな鎧以外、女は何も着ていない。武器はといえば、腰にさげた大振りのナイフ一本だけだ。
 短く切った頭髪は、前の部分だけ色が抜けていた。その白い前髪のかたまりが左眼を隠すように垂れている。女は、思索に集中するようにうつむいていた。
「エル?」
 ビーナは、無意識に声に出して名前を呼んでいた。
 その声に顔をあげた女は、なぜか左手に大きな丼、右手に朱色の箸を持っていた。その箸でビーナを指している。
「エルは…………私だが…………あなたは…………?」
 そう訊ねたエルの口元から赤い物がはみだしていた。しゃべるたびに跳ねるように動いているのは、ゆでたエビの尻尾だ。
 どうやら昼食の真っ最中だったらしい、よく見れば男たちも丼と箸を持っていた。
 食べていたのは、魚介類のぶつ切りをのせた茶漬けご飯。卓上には、大皿に盛られた根菜の煮物も見える。そういえば、下の寄り合い所で同じものを食べている人を見た気がする。
「ビーナです。お久しぶりです。お食事中、すみま……」
「ごめん、覚えてない。…………誰だっけ?」
 挨拶の途中でエルに言葉をさえぎられ、ビーナはとまどっていた。
 チグル村の名前を言おうかどうか迷っていたとき、目の端にヤトマが見えた。こちらを見ながら、何度も鼻の頭を指先でかいている。
 鼻の頭をかいているということは、
 ――うそッ!? なんで!? エルが怒ってるってこと? あたし、何かまずいことした?
 ビーナには、エルが怒っている理由がわからなかった。せっかく会えたのに泣きたい気分だ。
 エルは、とくに怒っているふうでもなく、ビーナにチラリと目をやる。
「ビーナ。悪いが、少し待っていてくれ。食事も打ち合わせもじきに終わる。そのあとに話を聞こう。あぁ、ロウザイ殿も申し訳ないが……」
 そう言うと、エルは箸の先で壁際の長椅子を指した。そこに座って待てという意味らしい。
 ロウザイは、例によって品のない舌打ちをしたものの、指定された長椅子に向かった。腰の青龍刀を外して脇に置くと、長椅子の真ん中に脚を大きく広げてどっかりと腰をおろす。
 ビーナは、腰にさげた面を外し弓を手に持って、ハゲオヤジからできるだけ離れた長椅子の端に身を縮めて座った。
 ハゲオヤジは座った途端、落ち着きのない貧乏揺すりをはじめていた。おまけに妙なものを懐から取りだし火をつけて煙を吸っている。刻んだ葉を細い筒状に紙で巻いたものだ。
「ねえ、それ、なに?」
「けッ、タバコも知らねえのか。半年前からミットナットで生産されはじめてな、今じゃ一番人気の輸出品だ。なかなか手に入らないんだぜ」
 自慢げに言うと、ハゲオヤジは、ビーナの顔に向かって容赦なくくさい煙を吐きかけた。
 頼りのヤトマはと見れば、いつの間にか円卓の輪に加わり、こちらを振り向いてもくれない。
 ――最悪だよ。
 ビーナは、膝に置いた面の縁を両手で握りしめながら、エルのほうを見つめてため息をついた。
 円卓の中央には牛の革が広げられ、その上に貝殻や魚の骨がいくつも並べられている。その食べかすを、エルとヤトマが議論しながら、箸でつまんで場所を移したり向きを変えたりしている。
 ――あの人たち、何をやってるんだろ?
 目を凝らすと、牛革にはなにやら細かな絵と文字が描かれているようだ。それにふたりの会話の端々に聞き覚えのある地名が出てくる。たぶんチグル山脈にある山や谷の名前だ
 ――地図? 卓上に広げられているのは、きっと地図だ。じゃあ、あの食べかすは何だろう?
 それが気になってしょうがない。ビーナは、たまらず隣のハゲオヤジに小声で訊ねる。
「ねえ、地図の上の貝殻や魚の骨。あれ、何やってるの?」
 ハゲオヤジは、さも面倒くさそうに背筋を伸ばして、卓上を一瞥【ルビ:いちべつ】する。
「貝殻がキルゴラン軍で、魚の骨は我らがチャンタ王子率いるナンミア軍の布陣ってとこか。ちーと魚の骨のほうが旗色が悪いな。さてさて、こっからが見ものだ」
 ビーナは、その答にギョッとした。ハゲオヤジからまともな答が聞けるとは、まったく期待していなかった。それに、このハゲオヤジ、チラッと見ただけなのに……。
 ビーナは軍隊の布陣など知らない。だけど、コバじいさんとふたりで獲物を追いこむときの配置なら頭に描ける。
 確かにハゲオヤジの言うとおり、貝殻と魚の骨が敵味方に分れて対峙しているように見えるし、貝殻が魚の骨を囲んでいるようにも見える。
 ――このハゲオヤジ、ただのスケベで口の悪い酔っ払いじゃないかも?
 隣を見ると、ハゲオヤジは素知らぬ顔で、まだ卓上をながめている。
 そのとき、「では、ここだな」とエルの凛とした声が響いた。
 エルは、口にくわえていたエビの尻尾を人さし指と中指ではさむと、それをずらりと並んだ貝殻の一番端に置いた。つまりキルゴラン軍の側面を突く位置だ。
 円卓を囲んだ男たちはエビの尻尾を凝視し、息を呑むばかりで誰も声を発しない。
 だが、ひとりだけエルが置いたエビの尻尾の場所に異を唱える者がいた。
 出し抜けに立ちあがったのは、ビーナの隣に座っていたハゲオヤジだ。
「おい、そのエビ小隊。兵糧に火をかけるだけなら、もうちょい下げとけ」
「なるほど。珍しく私とロウザイ殿の読みが一致しましたね。これは吉兆かもしれません。おかげで策に自信がもてました。では、もう少しだけ……」
 エルは、ロウザイの顔を見ながら小さく微笑むと、エビの尻尾に手を伸ばす。
「いまだに私の身を本気で案じてくださるのは、ロウザイ殿おひとり。心から感謝しています」
 だが、その言葉とは裏腹に、エルはエビの尻尾をさらに前に押しだし、貝殻の左翼を崩す。ロウザイの提案とは完全に逆だ。
「けッ!! クソ尼が。勝手に死にやがれ!!」
 ロウザイは胸の前で腕を組むと、またどっかりと腰をおろした。椅子の背に身体を預け、憮然とした表情のまま目を閉じている。
 ビーナには、ふたりのやりとりの意味がさっぱりわからない。小声でまたハゲオヤジに訊ねる。
「ねえ……、あのエビの尻尾は何よ? 敵? 味方?」
「死にたがりなんだよ、あいつは……」
 ロウザイは目を閉じたまま、円卓のほうに向けて顎を上げた。そこには、何ごともなかったかのようにテキパキと男たちに指示を与えるエルの姿があった。

(明日は一章4[もうひとつの再会])
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傷だらけのビーナ 試し読み4
桝田 省治

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[港の秘密基地]


「その後、あんときの傷はどうっスか?」
 ヤトマの唐突な質問に、ビーナは困惑した。
「だ、大丈夫だよ。あとが少し残ってるけど」
「イヤじゃなければ、ちょっとだけ見せてもらって、いいっスかね?」
 本当はイヤだった。それに本当は“少し”じゃない。だけど、ヤトマは命の恩人だ。それに全部知っている。
 ビーナは、弓を持っていた左手の袖口を右手でつまむと、肩のあたりまで一気にめくりあげた。
 陽に焼けた小麦色の二の腕に、白っぽい桃色の線が×のカタチにくっきりと浮きでている。パッと見た感じは、すすけた板の上を指でなぞった印象だが、
「なんだよ、こりゃ。ミミズみてえだな」
 勝手にのぞきこんだロウザイが言うとおり、土の上を這いまわるミミズのほうがずっと似ている。よく見ると、傷の一本一本が少しふくらんでいて、細かく引きつっているからだ。これが顔以外、ビーナの全身を今もおおっている。
 ヤトマは、考えごとをしているようにじっと傷を見つめていたが、やにわに顔を上げる。
「もういいっスよ。本当に申し訳ない。できるだけていねいに縫い合わせたつもりだったんスけどね、なにせ数が数だったから……」
「命を助けてもらってぜいたく言ってたらバチが当たるよ。大丈夫。気にしてないから」
 ビーナは、長い袖をさっと引っぱって元に戻し、ヤトマに向かって懸命に微笑んだ。
“気にしてない”はもちろんウソだ。この傷を気味悪がらなかったのは、コバじいさんだけだった。
「了解っス。じゃあ、エル隊長に会いにいきましょうか!!」
「ホント!? エルに会えるの?」
 ヤトマは、やや垂れたまなじりをさらに下げた屈託のない笑顔でうなずくと、ビーナの背中を軽く押した。
 並んで歩くビーナとヤトマのあとにロウザイがついてきていた。ぜんぜん懲りた様子もなく、とめどなく続く口汚い文句に混じり、左足を出したあとに右足を二度引きずる独特の三拍子がつかず離れず聞こえている。
 勇壮な兵たちの行進に沸きたつ大通りを左に折れると、独特の生臭いニオイが漂っている。
“マリーシャの胃袋”と呼ばれる市場通りだ。
 朝夕には色とりどりの天幕を張った無数の店が軒を並べ、自分の足が見えないほどの人出と真っ黒なハエでいっぱいになる場所だ。だが、昼下がりの今は、大通りの出陣式とも重なって拍子抜けするくらい閑散としていた。
 市場通りをしばらく歩けば、その先にオロロチ河の雄大な流れが見えてくる。
 王都マリーシャは、オロロチ河の下流に開けた交易都市だ。
 内陸に点在する農村や山村と、海に面した工業都市ミットナットをつなぐ陸路と水路のいわば交差点に位置し、大量の人と物が昼夜を問わず集まってくる。
 オロロチ河の港には、国内の船ばかりでなく海外から来た巨大な帆船も停泊していた。
 川に面してずらりと立ち並ぶ倉庫街は、広さだけなら王宮に匹敵するほどだ。
 どうやらヤトマが向かっているのは、その倉庫街の王宮に近い側の一角のようだ。
 ビーナは、道すがらこの八年間にあったことを、ヤトマに訊かれるままにしゃべっていた。人と話すのが久しぶりで楽しかったせいもあるが、ヤトマが稀代の聞き上手だったからだろう。

 ビーナは、十七歳になっていた。
 あの忌まわしい惨劇のあと、ビーナは親戚の間をたらいまわしにされた。
 最初の二年はひどかった。言葉を失い、こわくて家から出られず、ことあるたびにあの日の記憶がよみがえり、泣きわめきながら嘔吐と失禁と発熱を繰りかえすのが常だった。
 結局、最後にビーナを引き取ったのは、母方の祖母の弟、コバ。齢七十を超える寡黙な老人だ。
 山奥の狩人小屋での暮らしは、コバじいさんとビーナのふたりきり。とにかくなんでも自分でやらなければ生きていけない。朝から晩まで忙しく一年中厳しい気候だった。だが、あれこれ考えている余裕などない生活がかえってよかったのかもしれない。ビーナの心身は、日々ほんのわずかずつ回復していった。
 同時に、ビーナは、山で生きていくための知恵と技術をコバじいさんにたたきこまれた。とくに弓は、飛距離はともかく正確さなら誰にも負けない自信ができた。
 風邪をこじらせたコバじいさんがあっけなく亡くなったのが半月前のこと。
 ひとりぼっちになったビーナは、キルゴランとの大戦【ルビ:おおいくさ】が近々あるとの噂を耳にするや、弓兵に志願しようと王都マリーシャにやってきた。それが三日前だ。
 ビーナは張りきっていた。軍に入隊すれば、あの片目の不気味な男にきっといつか出会える。家族や友だちの仇を必ず討つ。大切なものをすべて奪いさっていったあの男を「ぶっ殺す!!」、再びそう誓いを立てた。
 初めて訪れた王都は、山育ちのビーナを驚かせるものばかりだった。
 まず人間の数と歩く速さ。街全体が軍隊バチの巣に矢を射たときのような喧騒に包まれていた。
 次に建物の数と規模。ビーナは、チグルの神木より高い物がこの世に存在するとは思ってもみなかった。ましてそれを人間が造ったなんてにわかに信じられない。
 三つ目は、店先まであふれでて、それでも足りず、うずたかく積みあげられた見たこともない物品の数々。とくに海産物の異様な造型と衣服の派手な色には度肝を抜かれた。
 だが、そんなことはどうだってよかった。王都の見物に来たわけじゃない。目的は別にある。
 ビーナは鼻息も荒く、王宮前の広場に設けられた志願兵の登録所に真っすぐに向かった。
 そこで、待っていたのは、当然のごとくいつもと同じあの決まり文句。
 久しぶりに聞いた気がした……、
「女には無理!!」
 何度かけあっても、自慢の弓を披露する機会も与えられず、話さえ聞いてもらえない。挙句には一方的につまみだされ……、
 ビーナは、目の前をただ通りすぎていく兵隊の行進を、爆発寸前のムシャクシャ腹でにらみつけていたというわけだ。
 そこにたまたま聞こえてきたのが、酔っぱらったいけ好かないハゲオヤジの戯言だ。たぶん言った本人は聞こえているとは思っていなかっただろう。だが、山では小さな音ひとつ、聞き逃しただけで身を危険にさらす。雑踏の中で人間の声を聞き分けるくらい、ビーナには造作もない。
 ハゲオヤジは、最初、お守りにしている精霊【ルビ:ボンゴロス】の面に、よりによって「縁起が悪い」と難癖をつけていた。
 ビーナは、この面を常に肌身離さず持ち歩いている。あの事件以来、精霊の姿が見えなくなったビーナが、故郷を思い出せる唯一の品、心のよりどころだったからだ。
 次に聞こえたのは「若い女のお尻を肴に飲む酒は格別」とかナントカ……。
 このハゲオヤジこそが、女をさげすみ「女には無理!!」と決めつける、わからず屋の男たちの権化に思えてきたら、もう我慢ならなかった。
 だけど、実のところは、うっぷん晴らしができるなら理由はなんでもよかったし、相手だって男なら誰でもよかった。ようするに八つ当たりだ。それは自分でもわかっていた。
 からかうつもりで弓を引いた。もちろん本気で射【ルビ:う】つつもりなどハナからなかった。
 だけど、ハゲオヤジときたら毛の先も反省の色がない。
 で、思わず、売り言葉に買い言葉。いつの間にか退くに退けなくなっただけ。
 正直「どうしよう?」と困り果てていた。
 だから、ヤトマが声をかけてくれたのは渡りに舟!! 感謝感激!! 乾季の雨!!
 それに「何やってんスか?」と「……だけっスよ」の“ス”の音。それを聞いた瞬間、胸の内に温かいものが込みあげ、力が抜けて自然に弓を下げていた。
 その温かいものの正体は、すぐにはわからなかったけれど、次に耳に飛びこんできたのは“エル”の名前。これでビーナの記憶は完全によみがえった。
 気がつくと「エルに会いたい!!」、大声でそう叫んでいた……。

 歩きながらしゃべっていたのは、もっぱらビーナだったが、ヤトマのほうからもひとつだけ話があった。それは奇妙な助言だ。
「きっと、あなたの元気な姿を見れば、エル隊長も喜ぶと思いますよ。あ~、でも、あの人を知るには時間がかかると言うか、付き合うのにちょいとしたコツがいると言うか……、極端に感情表現が下手なんスよねえ。そこがまた面白いんスけど。だから、こうしましょう。よくわかんないときは、こっちを見てくださいな。オレが頭に手を当ててたら、エル隊長は笑っている。鼻の頭をかいてたら怒っている、ということでいいっスか?」
 この注意が、本気なのか冗談なのか量りかねたものの、ビーナはとりあえずうなずいた。
 ちなみに、「泣いてるときは?」とビーナが訊ねると、
「エル隊長は、どんなときも泣かないっスよ」とヤトマが応えたあとに、
「けッ、あのクソ尼には血も涙もねえんだよ!!」と、ハゲオヤジが唾と一緒に吐き捨てた。
 つくづく心根の腐った最低のオヤジだ……。
 ビーナは腹立たしかったが、ヤトマはあいかわらず笑みを絶やさない。もしかしたら、エルよりヤトマのほうがよほど表情が読めないかもしれない。
 そんなことを思いながら、ヤトマの顔を振り向いたとき、ヤトマが足を止めた。
「あ、ここっス。近道なんで表から行きましょう。どーぞ、遠慮なく」
 手招く先にあったのは、チグル村がスッポリ入りそうなほど大きな倉庫の、ビーナの生家より大きな扉だ。中からにぎやかな話し声が聞こえている。
 扉の中をのぞき見ると、上半身裸のいかつい男たちが二百人くらいいた。
 ここは、港で働く人足たちの寄り合い所のようだ、
 地面から一段高い板敷きの広間に座りこみ、男たちがご飯を食べたりサイコロ遊びに興じている。横の壁には大きな黒板がかけられていて、そこに書かれた白い文字や数字を真剣な面持ちで書き写している人もいる。かと思えば、床でのん気に昼寝をしている者もいて、人を踏まないように歩くのが難しいくらいの混雑ぶりだ。
 入口に立つと、女が珍しいのか、何十人もの男の目がジロジロと見ているのがわかった。
 ――本当にこんなところにエルがいるのだろうか、あたしはだまされているのかもしれない。
 そんな疑念がビーナの脳裏をかすめたとき、ヤトマが部屋中に響くような大声をあげた。
「皆の衆、聞いてくれ!! 先に言っとくけど、この娘さんはエル姐さんの妹分だ。お尻に触ったりしたら、腕が飛んでも知らないっスよ!!」
 ヤトマの口から出まかせに大の男たちが飛び起きて道を作る。その中を「はいはい、ちょっとごめんよ」と、ヤトマはビーナの手を引いてどんどん奥に進んでいった。
 どうやらエルがここにいるのは本当のようだ。それにしても……
「ここ、どこ? エルはここで何をやってるの? ……料理人?」
 男たちがたむろする広間の奥には、大きな厨房があった。巨大な魚に巨大な包丁をたたきつける音、「急げ!!」と怒鳴る声、突如として天井近くまであがる炎。その喧騒の中で数人の料理人が片時も休むことなく動きまわっている。
「ご苦労さんっス!!」
 ヤトマは、料理人たちに笑顔を振りまきながら、ビーナを連れてさらに奥へ進んでいく。
 なかなか質問の答が返ってこないと思ったらヤトマの口はふさがっていた。厨房を抜けるとき、いつの間にかつまみ食いをしていたらしい。
 厨房の隣にあったのは食料庫だ。ビーナの背丈の二倍はありそうな棚が何列も並んでいる。その棚には、肉魚、野菜、米麦……、さまざまな食材や調味料が雑然と詰めこまれていた。
 ヤトマは、果物の棚から熟れたマンゴーをふたつ取ると、そのひとつをビーナに渡す。
「港の人足さんに仕事を斡旋して、船主さんや倉持ちさんから手間賃をいただいてんスよ。昨日までは軍事物資の荷降ろしでテンテコ舞いの大忙し。今日は、ちょっと暇みたいっスけど。あとは見てのとおり、食堂をかねた簡易宿泊所というところっスかね。オレはそこの番頭で、エル隊長は元締め……表向きは」
「表向きは?」
 ビーナが繰りかえしたとき、乾物を満載した棚の後ろにヤトマが隠れるように入っていった。そこには大きくて頑丈そうな両開きの扉があった。
「それは、エル隊長に直接お訊ねなさいよ。あなた、あの片目野郎を“ぶっ殺す”んでしょ? お国のためよりわかりやすいし、そういうのもアリじゃないっスかねえ。さッ、どうぞ」
 ヤトマはニンマリと笑うと、大きな扉を重そうに押しあけた。
 その先には、まぶしい光があふれ、天国まで続いていそうな長い昇り階段が見えた。


(明日は一章3[再会])
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傷だらけのビーナ 試し読み3
桝田 省治

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一章 王都マリーシャ


[出陣式]


 はちまきと裾が広がった半ズボンは、サフランで染めた鮮やかな黄色。陣羽織は深い海を思わせる藍色だ。目が覚めるような二色の対比が、午後の強い日差しの下でギラギラと輝いて見える。
 そろいの戦装束を身にまとった勇壮な男たちが、王宮から一直線に伸びた大通りを一糸乱れぬ足どりで行進していく。いつ果てるとも知れぬ大行列だ。
 若きチャンタ王子を先頭に千騎の騎馬武者、その後ろには歩兵一万二千、弓兵六千、弩兵千が途切れることなく続いている。
 沿道では、王都マリーシャの市民が総出で、王家の象徴である双頭の井守【ルビ:ゲッコー】を描いた黄色い旗を打ち振っている。その様は、激しい雨にたたかれる水面【ルビ:みなも】のようだ。
 八年前に起きた“チグルの虐殺”以降、キルゴラン国との間に小競り合いが絶えなかった。
 だが、今回ばかりは小競り合いではすみそうもない。これまでとは桁違いのキルゴラン軍が東の国境付近に集結している――そんな情報が王宮にもたらされたのは先月のことだ。
 敵の侵攻を阻むべく、ナンミア国王は未曾有の大軍をチグル山脈に派遣することを即断した。その数、二万人。これはナンミア国にとって戦力の八割に相当する数だ。
 マリーシャ市民の大半は、王の並々ならぬ決意をたたえ、戦地におもむく兵士たちを喝采で迎えていた。
 とはいえ、市民全員が諸手をあげて支持したわけではない。どこにもヘソ曲がりはいるものだ。

「数を頼んでナリを整えただけの兵隊さんで、魔物に勝てりゃあよぉ、けッ、苦労はしねーっての」
 大通りに面した居酒屋の前に並んだ縁台の片隅で、うらぶれた中年男がボソボソと独りごちていた。かなり飲んでいるらしく、ろれつが怪しい。
 背は高いほうではない。岩のようにがっしりした身体に余分な肉が少々ついている。どっかりと腰をおろした姿は、どことなく牛ガエルを連想させる。その牛ガエルに似た胴体に直接載っているのは、見事にアルコール焼けした赤く巨大なハゲ頭。そのハゲ頭と額の境目あたりに幾筋も古い刀傷がある。目、鼻、口、耳、顔の部品が暑苦しいほど、いちいちでかい。
 でかいといえば、左の腰にさげた青龍刀。男の見栄か、これも実戦で使うには無駄にでかい。あとは、右膝の貧乏ゆすり。このあたりがこの酔っ払いの特徴だ。
 男の名前をロウザイという。
 実は、うだつの上がらないこのハゲオヤジもいちおう王国の兵だ。それも数年前までは傭兵隊長を任じられていたのだから、傭兵あがりの移民としては最高級の出世といえる。だが、現在は一線を退いている。ロウザイは戦場で受けた右膝の古傷を言い訳にしていたが、それが真の理由でないことは本人が一番承知していた。
 だから……、昼間から飲まずにはいられないのだ。
 ロウザイの酒癖が悪い口は、あいかわらず兵士の長い列に向かってグチグチと皮肉を並べたてている。だが、赤くよどんだ目は、途中から別のものを凝視していた。
 ハゲオヤジという生き物が、知らず知らずのうちに目を留めてしまうものといえば決まっている。
 若い娘の大きな桃のようなまん丸い尻だ。
 小柄なその娘は、市民の後ろから懸命に背伸びをしながら、兵たちが出陣していく様を飽くことなく眺めていた。かれこれ小一時間、ずっと爪先立っているのだから大した脚力だ。
 年の頃は、十六、七。つぎはぎが目立つ長袖の上着と、男がはくような丈の長いズボンは、見るからに野暮ったい。飾り気のない弓と矢筒を肩にかけていて、手には大きな荷物を持っている。
 察するに、奉公に出てきたばかりの農夫か猟師の娘か。いずれにせよ、うまく言いくるめられて、その筋の店に売り飛ばされるのは時間の問題だろう。泊まりで六万ギル。それが世間、それが相場というものだ。
 ロウザイの目をひいたものが他にふたつ。
 ひとつは、大トカゲ【ルビ:イグアナ】の尻尾のように背中に垂れた娘の髪。白髪が混じっていた。それも半端な量ではない。三つ編にした髪の三本の束のうち一束すべてが白い。
 白髪で頭が二色に見える女を見るのは、初めてではなかった。まだら髪になる理由も、知りたいとは思わないがよく知っている。幼いときに親からひどい虐待を受けたか、年頃になってから野盗の集団にでも暴行されたか、さもなけりゃ、本物の魔物を見ちまったかだ。
 ただし、あんな妙な頭になったら、普通は染めて隠すもんだ。それを平気で人目にさらしている無神経さが気に入らない。
 そんな恥知らずな女は、ふたりしか見たことがない。ひとりは目の前の桃尻娘。もうひとりは、考えただけでハラワタが煮えたつ、この世で一番冷血なクソ尼【ルビ:あま】だ。
 気になったもののふたつ目は、娘の腰紐にぶら下げられていた。おそらく田舎の祭りかなにかに使われる木彫りの面だろう。魔よけのお守りかもしれないが……それにしても薄気味が悪い。
 広い額に刻まれた深い皺、ざんばらの長い髪から突きだしたとがった耳、唇は血をすすったように赤く、大きく開いた口の中には獣のような鋭い牙が並んでいる。とくに気味が悪いのは、丸く穿たれたふたつの目。まるでこっちの心の中を見透かしているようだ。
「あれじゃあ、まるで本物の魔物じゃねーか。けッ、縁起でもねえ……」
 ロウザイは、杯の底にわずかに残っていた焼酎をあおると、また毒づいた。
 だが、すぐあとに不気味な面からいかにも健康そうな尻に目を戻し、小声で付け足す。
「まッ、でも、やっぱ、いいもんだぜ。若い娘のまん丸な尻にまさる酒の肴なしだ」
 ロウザイがニンマリと目尻を下げた瞬間、突然その尻の持ち主が振り向いた。
 どんな顔だと見れば……、おや? なんとも複雑なつらがまえだ。
 太い眉と黒目がちな丸い目は素直そうだが、角張った頬と顎はかなり頑固そうだし、低い鼻は子供っぽい印象なのに、めくれ気味の厚い唇は一途で情の深い女特有のものだ。
 そういや、情が深すぎて男を刺して身投げした遊女の顔があんなだったな。ああいう顔も、都じゃ近ごろは、とんと見かけなくなったね……。
 ふ~~ん、まッ、悪くねえんじゃねーか。じゃあ、あの唇に一万上乗せして七万ギルだな。
 にしても、あの娘、なんでこっちをにらんでやがんだ?
 と考えている間に、娘がロウザイの前に肩を怒らせながらツカツカとやってくる。
「ねえ、オッサン!! 気色わるいんだよねえ。見世物じゃないんだから、じろじろ他人【ルビ:ひと】のお尻、見るんじゃないよ!! それじゃなくても、今日のあたしは虫の居所が悪いんだから!!」
 いきなり言い放った娘の声に、耳目がいっせいにふたりに集まる。ロウザイはあせった。だが、いくら思い出しても、この娘が振り向いたのは今が初めてのはずだ。ここはシラを切るに限る。
「さあね、なんのことだ? ガキの尻なんて頼まれたって見たくもないね」
「今『若い娘のまん丸な尻にまさる酒の肴なし』って、その酒くさい口でほざいてたでしょうが!! ばっくれてんじゃないよ、この変態ハゲオヤジ!!」
 ――言った。確かに言った。だけど、この歓声の中で聞こえるわけがない。どういうことだ?
 ロウザイは、さらにあせった。
 だが、待て。しょせんは田舎娘だ。ちょっと脅せば黙るだろう。いや、そこでたたみかければ、もうこっちのもの。酒の勢いも手伝って、ロウザイは泣きじゃくる娘をなだめすかしながら、連れこみ宿の暖簾【ルビ:のれん】をくぐる自分の姿までが頭に浮かぶ始末……。
「はてな? どうだっけな? じゃあ、仮に俺がおまえの立派な尻を盗み見てたとしたら、どうする? 番所につきだすか、それとも見物料でも取ろうって魂胆か!? あン!! どーすんだよ!!」
 そう怒鳴ったとき、娘の肩にかかっていた弓がクルリと前に回るのが見えた。そして、

「ぶっ殺す!!」

 娘が応えた瞬間には、弓につがえられた鋭い矢尻の先がロウザイの鼻先に突きつけられていた。
 騒ぎを聞きつけた野次馬がふたりを遠巻きに囲みはじめる。見る間に増えていくその数を横目で確かめながら、ロウザイはため息をついた。
 これじゃあ、宿に連れこむどころの話じゃないぞ。
 だが、こんな大勢が見ている前で弱みをさらせば、男の沽券【ルビ:こけん】にかかわる。といって小娘ひとりを相手に刀を抜くのも格好が悪い。
 なーに、もう一度凄めば必ず泣きが入るに決まってる。それが女だ。
「けッ、よせよ、姉ちゃん。危ねえじゃねえか。非力な女がそんな物騒なものを構えてよぉ、間違って指が弦から放れちまったら、あン!! どーーすんだよ!!」
「そういえば、そろそろ腕がしびれてきたよ。あと三つ数える間くらいしか、あたしの“非力な”指はもちそうにないねえ。信心してる精霊がいるなら、今のうちに呼んでおけば?」
 不敵な笑みを浮かべながら、若い娘はさらに弓の弦を引きしぼった。同時に何かがきしむようなキリキリという音が聞こえていた。その音の発生源が娘の弓なのか、自分の胃なのか、ロウザイにはもうわからない。
「お、お、おまえ、何をそんなにいらついてんだ? ああ、そうだ。おまえ、腹が減ってるだろ? 何か食えよ。もちろん俺のおごりだ。女のイライラなんぞ、口に焼き芋でも突っこめばたいていは収まるもんだ。それで足りなきゃ、下の口にも俺の芋を突っこん……」
「ひとーつ!!」
「じょ、じょ、冗談だよ。おまえは知らないだろうけど、この手の冗談が都じゃ挨拶がわりなんだな。ハハハ、わかったぜ、男に金を貸したらトンズラされたと、まあ、よくある話だ。そういうことなら手持ちが少々あるし、なんだったら知り合いの店に紹介してやってもいい。おまえなら、一晩で七万、いや八万ギルは稼げるぞ。おっと、その前に俺が優しく慰めてや……」
「ふたーつ!!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待った。話せばわかる。話せばわかるって。まずは、そうそう、おまえがいらついている理由を教えてくれ。だいたい、なんで自分が死んだのか、理由もわからないじゃ、あの世に行っても申し開きができねえってもんだ。なッ、後生だから。それくらいはいいだろ?」
 娘は、弓を構えたまま、しばらく考えていたが、ふてくされたように口を開く。
「王様が兵を募集してるって聞いたから、わざわざ出向いてやったのに、女だからってだけで門前払いを食わされて……、とりあえず、ゲスオヤジのハゲ頭に風穴のひとつも開けて、スカッとしたい気分なんだよ。納得した?」
「おいおいおい、そんな理由で俺は死ぬのかよ!? ああ、もう、くそったれ。どいつもこいつも。だから、女ってヤツはよぉ……」
「三つ!!」
 娘がそう告げたのと同時に、若い男の声が割って入った。ロウザイの元部下だったヤトマという男だ。ひょろりと背が高く、南海人の血が混じっているのか肌が黒い。店の屋号が入ったこげ茶色の半てんと相まって、なんとなく掘りだしたばかりのゴボウに見える。
 どうやらこのゴボウ男、娘とのやりとりをずっと見物していたようだ。ニヤニヤと白い歯を見せながら、小走りに近づいてくる。
「大将、捜しましたよ!! ところで……、何やってんスか?」
 ヤトマは、ロウザイにそう声をかけながらも、顔は愛想よく娘のほうに向けている。
「あぁ、それと、お嬢さん。射てもいいけど、矢がもったいないだけっスよ。なにせこの大将、いろんな意味で石頭だから」
 いつもそうだが、この男の物言いは育ての親に似たのか、どんな修羅場でも緊張感がない。だが、その軽さが今回だけはいいほうに作用したらしい。娘は弓を下ろし、呆けたような面持ちでヤトマの顔を見つめている。
 まさか一目惚れ……なわけはないか。
 ロウザイは、内心ホッとしながら素早く体裁をつくろう。
「なーに、大したことじゃねえんだよ。ちょっとした誤解ってヤツだ。それより、なんの用だ?」
「ああ、そうっス。エル隊長が折り入って大将に頼みたいことがあるとかで」
「けッ……、誰が、あんなクソ尼の頼みなんか」
 ロウザイの悪態に重なるように、娘が急にすっとんきょうな声をあげた。
 見れば、明かりが灯った提灯【ルビ:ちょうちん】のように頬が紅潮し、大きく開いた瞳は、今にも涙がこぼれそうなほどうるんでいる。
「ねえ、今、エルって……!! エル隊長って言った!?」
 娘は、ヤトマに向かって訊ねていた。だが、唐突に娘の口から出た“エル”の名前に、思わずロウザイが口をはさむ。
「あン? 言ったがどうしたよ? まさかおまえ、あの疫病神の知り合いか?」
「あたしの知ってるエル隊長だとしたら、子供のとき、助けてもらった!!」
 娘の返事に、今度はヤトマが「あああッ!! あんときの!!」と声をあげ、娘は娘で「“ス”の人!! “ス”の人!!」とピョンピョン跳ねまわる。
 自分だけが蚊帳【ルビ:かや】の外にいるようで、ロウザイはなんだか面白くない。
「なんだよ、おまえも知り合いか? で、このいかれた女は、いったい何者だ?」
 ヤトマに訊ねたつもりが、応えたのはいかれた女本人だ。

「あたし? あたしはビーナだよ!! エルに、エルに会いたい!!」


(明日は一章2[港の秘密基地])
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